「経世済民と戦国大名のたいせつな関係とは」

画像の説明

経世済民と戦国大名のたいせつな関係とは

下克上といえば、野心のある部下が、上司を裏切って讒言したり、あらぬウワサをまき散らして上司を追い、自分がそのポスト(地位)に登り詰めることを「下克上」などと勘違いしている者がいたりするようです。そんな邪心(よこしまな心)では、人はついてきません。

どこもまでも「おおみたから」としての民衆をいかにして富ませ、人々の幸せを実現し、そのためにみんなのコンセンサス(合意)を形成する。それが日本的リーダーの姿であり、「下剋上」もその延長線上に位置するものです。

戦国大名というと、なにやら西洋や支那における王様、支配者といったイメージで見る人が多いようです。
なにせ学校でもドラマの時代劇でもマンガでも、戦国大名といえば、戦争ばかりやっていた「大陸的支配者」のような姿に描かれていることが多いからです。

けれど真実は全然違います。

「日本的権力者」を、「大陸的支配者」と同じ物差しで見ようとするから、事実を見誤るのです。

「大陸的支配者」というのは、たとえば支那の皇帝がこれにあたります。
皇帝は絶対的権力者であり、すべての政治権力を独占する存在です。
ですから皇帝にとって、たとえば側近の将軍たちでさえも、私物であり奴隷です。

将軍に「どこそこを攻めよ」と命令して、将軍がこれに逆らえば、その将軍だけでなく、その将軍の一族郎党を皆殺しにする。それだけのことができる。そういう権力が皇帝にありました。

皇帝にとって、家臣は「道具」です。

道具というのは、モノであるということで、モノは役に立たなければ捨てられるし、破壊され、燃やされます。
さらに家臣は上に立つ者にとって、「私物」です。
私物ですから、殺そうが奪おうが捨てようが売ろうが殺そうが、それは上に立つ者の自由です。

それが、「大陸的支配」の姿です。

これを古代の日本では「ウシハク」といいました。

ウシは主人で、ハクは佩くです。

佩くは大刀を腰に佩くということと同じで、私有するということです。
ですから「ウシハク」は、主人が私有することをいいます。

わたしたちの国の統治は、「大陸的支配=ウシハク」とは、まるで違います。

日本は「シラス国」、つまり、合意形成社会です。
簡単に言ったら「シラス」は「知らす」です。
みんなで情報を共有し合う。

ですから日本では、民衆は天皇の「おおみたから」とされてきました。
大名などの施政者は、西欧や中国朝鮮にあるような、いわゆる支配者とは異なり、あくまでも天皇の「おおみたから」をお預かりしている立場です。

そしてこのことは日本の基礎となるカタチとして、戦国大名たちにも、しっかりと定着していました。

戦国大名たちは、領国内の地侍、国人(こくじん)ら武士を家臣団とし、農民を治めていました。
けれども彼らは「力」による一方的支配をしていたわけではないし、しようとさえしていません。

良い例が武田信玄です。

武田信玄といえば、戦国時代を代表する強力大名ですが、その信玄が定めた分国法(ぶんこくほう)「甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)」が、いまも残っています。

この「甲州法度次第」は五十七条

からなる甲斐の国法ですが、その第五十五条に次の文言があります。

「晴信、行儀其の外の法度以下に於て旨趣相違の事あらば、貴賤を撰ばず
目安を以て申すべし。時宜によってその覚悟すべきものなり。」

口語訳しますと、

「もし晴信(信玄のことです)の行動が法に反したならば、身分に関係なく目安箱に投稿しなさい。すぐに自ら進んで法に従って処分を受けます」というのです。

要するに武田家の法度は、「家臣や民衆だけでなく、当主である信玄みずから率先して守るし、守らなければ、つまり領主である自分が、権力者として強引に権力行使をしようとしたならば、進んで処分を受けますよ」、と信玄みずから宣言しているのです。

越前の戦国大名朝倉(あさくら)氏の分国法も同じです。

「朝倉義景条々(あさくらよしかげじょうじょう)」といいますが、そこには、「年に三度くらいは、有能で正直な者に申し付け、国内を巡視させて領民の申し出を聞き、そのことを参考にして政治の改革をしていく」と書いてあります。

あくまでも「たみ(民)が主役」です。

大名というのは、大名主を略した言葉です。

名主というのは一定の村や農地のとりまとめのための代表者です。その名主さんたちの中の代表者だから、大名主です。

信玄にしても義景にしても、有能な名主さんだからこそ富国強兵を実現し、また多くの周辺国の大名たちを従えることができたのです。

ですから富国も強兵も、自己の権力の増大や自己肥大による権力の欲望のままに周辺国を切り取ったものではありません。
あくまで、国の民たちの生活の安寧を願い、みんなの暮らしを豊かなものに護り、そうしてくれる大名主さんだかからこそ、みんなが付き従ったのです。

戦国時代は「下克上」の時代ともいわれます。

けれどその下克上さえも、家臣団、つまりみんなの合意がなければ、実行できないものでした。

決して、権力の強奪を狙う馬鹿者が、下克上と称して大将の首を刎ねて自分がそのポストに座るなどという乱暴なものではありません。
もしそのような乱暴とみなされれば、その下克上した者に、誰もついてなどいかないし、そもそも兵がそういう人のもとには集まらない。
兵が集まらなければ、下克上はできません。

「名主」というのは、たとえてみれば、神社のお祭りなどで民衆の取りまとめ役となる氏子総代(うじこそうだい)さんです。

神社のある一帯の人たちのことを氏子(うじこ)さんといいますが、その氏子さんたちをまとめあげ、お祭りなどの行事をしっかりと行うのが、氏子総代さんです。

氏子総代さんがやるべきことをきちんとやらず、お祭りの開催にさえも支障が出るようなら、みんなで協議して、違う人に総代役になってもらう。
それが、たとえてみれば下克上した戦国大名です。

自分の村に、それだけの人徳のある人がいなければ、隣村の総代さんに自分たちの村も面倒見てもらう。

そのときに、自分の村の総代さんが、いうことを聞いて引退しれくれば良いけれど、引退を拒むなら、村人たちが協力して隣村から兵を招き、強制的に引退してもらう。

これが、戦国大名の戦(いくさ)です。

最近では、下克上といえば、野心のある部下が、上司を裏切って讒言したり、あらぬウワサをまき散らして上司を追い、自分がそのポスト(地位)に登り詰めることを「下克上」などと勘違いしている者がいたりするようです。そんな邪心(よこしまな心)では、人はついてきません。

どこもまでも「おおみたから」としての民衆をいかにして富ませ、人々の幸せを実現し、そのためにみんなのコンセンサス(合意)を形成する。それが日本的リーダーの姿であり、「下剋上」もその延長線上に位置するものです。

個人の功利や栄達が目的か、みんなの幸せや生活の向上が目的か、統治の姿カタチや形式は、どちらも同じ物にみえますが、基本となるパラダイムが異なるのです。
そして基本的パラダイムが異なれば、その結果はもっと大きく異なります。

戦国時代というと、なにやら「戦国大名が戦(いくさ)ばかりやっていた時代」のように錯覚している人が多いです。

なるほど、そもそも戦国時代という用語自体、支那の古代に国同士が権力抗争のために権謀術数を駆使して殺し合いばかりやっていた「春秋戦国時代」から、その名前をとっています。

けれど日本における「戦国時代」という名称は、「単に全国を取り仕切るだけの政治権力者が不在だった」から、その名前がつけられたにすぎません。

実は戦国大名たちは、武力大名というよりも、土木大名というべき存在です。

戦(いくさ)などよりも、とにもかくにも新田の開発開墾や、治水のための大規模土木工事を推進しました
おかげで戦国期、日本国内の食料生産高は激増しました。

日本の人口は戦国時代のはじめの1400年頃には800万人でしたが、関ヶ原の合戦が行われた1600年頃には、なんと2倍以上の1700万人にまで増えています。

殺し合いばかりをしていたなら、それだけでも人口は減るし、戦によって農地が荒らされれば、収穫高が減り、その分国内全体の農業生産高が減り、人は食わなければ生きて行けませんから、人口が減ります。
ところが戦国時代に日本の人口は増えています。

なぜ増えたのかといえば、田んぼや畑などの耕地面積が、単純に倍になり、その分、食べる食料が増えたからです。
日本列島の食料生産高が倍増したということです。

ではなぜ耕地面積が増えたのかといえば、戦国大名たちが、領民を富ませるために積極的に土木工事を推進して田畑を開いたからです。
田んぼや畑は、大昔から田んぼや畑だったのではありません。荒れ地を開墾したから、そこが田畑になったのです。

人は、食料生産高のある分しか生きられません。

ですから、戦国とよばれる時代に、どれだけの土木工事が行われ、田畑が開墾されたのかが、この人口推移だけをみてもわかろうというものです。
私的には「戦国時代」という名称はこの際とり止めにしてもらって、むしろこの時代を「土木(どぼく)時代」と呼んでもらいたいくらいだと思っています。

男には、中高年になると、自然と職業の香りが漂うものです。そう思ってみると武田信玄の肖像画も、お殿様やKINGというより、どうみても土木屋の大将です。

戦国大名の仕事の多くの部分が土木事業だと書きましたが、実は、それだけではありません。

領内の争いの仲裁をしたり、産業を育成したり、とりわけこの産業育成で成功したのが、織田信長の楽市楽座です。
土木工事は、いまでいえば公共工事ですが、他にも民事刑事の裁判の執行や紛争処理、産業育成、経済力向上など、国の大名主としての仕事は多岐にわたります。

そして、これら「大名主」としての仕事を総括すれば、それは
「経世済民(けいせいさいみん)」
となります。

「経世済民」という言葉は、支那の隋代の儒学者である王通(おうとう)が書いた「文中子中説」の礼楽篇に乙状する言葉です。

「皆有経済之道、謂経世済民」とあります。世を経(おさ)め、民を済(すく)うと読みます。「経済」という語は、ここからきている言葉です。

とりわけ我が国では、民(たみ)は、「田んぼのみんな」「田んぼの仲間たち」であり、天皇の「おおみたから」です。
その「おおみたから」の暮らしを護り、さらに一層良い暮らしにするために、世をおさめ、民をすくう。それが、我が国における「経世済民」です。

ですから戦国大名たちも、知行地内の民衆の暮らしをまもるためにこそ存在すると考えられました。

大名主としての戦国大名たちの仕事も、まさに「経世済民」です。
そして、知行地内の「経世済民」のための障害となるものに対しては、ときに武力を用いてでもこれを取り除きました。

その大きなものが戦(いくさ)だったわけです。

ですから戦国大名が戦(いくさ)をしようというときも、家臣団だけでなく、知行地の隅々にまで、その大義名分が明らかにされ、なぜ戦わなければならないかという目的がはっきりと示されました。
それが人々の「経世済民」の役にたつと、誰もが納得しなければ、兵さえも集まらなかったからです。

日本では、大陸的支配者のように、兵を集めるために武力を用いた大名主(大名)など、実は歴史上、ひとりもいないのです。

こうしたマインドは、実は今も昔も、日本人の日本的精神構造として何も変わってなどいません。
いまでも、政治家や官僚の個人的蓄財のために政治があるなどと考えている日本人は、一般にはおそらく誰もいません。
日本の民衆が政治に期待していることは、まさに経世済民にあるからです。

逆にいえば、そこを裏切れば、日本の政権はもろくも崩れてしまいます。

政権が崩壊して政権交代が起これば、諸外国ではそれが王朝などの支配層の交代となり、国が変わります。

一緒に通貨なども、まったく違うものになったりします。
国がなくなるからです。

けれど日本では、そうはなりません。
政権が交代しても日本が天皇のもとにあるからです。
日本は、古来、そういう社会の仕組みを持った国です。

ねずさん

コメント


認証コード7959

コメントは管理者の承認後に表示されます。