「大嘗祭」

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大嘗祭 ~「安国と知ろしめせ」との聖なる使命

 天照大御神が「安国と知ろしめせ」と委任されて地上に下されたニニギノミコトの使命を新天皇が継ぐ儀式が大嘗祭だった。

■1.新嘗(にいなめ)とは「産屋の忌み」

11月14日(木)・15日(金)にかけて大嘗祭(だいじょうさい)が行われた。5月1日に行われた「剣璽等継承の儀」と、10月22日の「即位礼正殿の儀」によって、天皇の位の継承は済んでいるはずだが、これらに加えて大嘗祭を行う意味はどこにあるのか? 実はそこに我が国の文化伝統の深い「根っこ」が秘められている。

稲の収穫儀礼として毎年、秋に行われるのが、新嘗祭(にいなめさい)であり、天皇が即位された最初の年に行われる新嘗祭が、大嘗祭である。この「にいなめ」という不思議な言葉の語源を辿ると、その「根っこ」が見えてくる。

工藤隆・大東文化大学名誉教授は『大嘗祭ー天皇制と日本文化の源流』で、もとは「ニフノイミ」だったのが、「ニフナミ」から「ニヒナメ」となった、という説を提示している。それによると「ニフ」とは「産屋」、「ノイミ」は「の忌(い)み」で、合わせると「産屋の忌み」となる。

■2.「産屋の忌み」

「産屋」というのは、新しく収穫された稲穂は新たに誕生した「稲魂」であるという考え方から来る。マレイ半島では、まさにこの「産屋の忌み」を示す古代の収穫儀礼が伝わっている。

巫女が田に出かけ、前もって定めておいた母穂束から稲魂を収め取る。「米児」と呼ばれる七本の稲束を魂籠に納める。・・・家では主婦がその魂籠を迎え、寝室に迎え入れ、枕の用意してある寝具用のござむしろの上に安置し、規定の呪儀のあとで白布をかぶせておく。
そのあと 主婦は、三日間「産褥(さんじょく) にあるときに守らねばならないのとまったく同じタブー」を厳守する。・・・
一方、田に遺されていた母穂束は最後に主婦によって刈り取られ、家に持ち帰られる。「稲魂の母」「新しい母」と呼ばれ、子を出産した母として扱われる。[1, 4102]

水田耕作は揚子江の中下流で始まったとされている。そこで紀元前6~5千年には稲作を始めていたのが長江文明で、漢民族の黄河文明より古い。しかし、戦闘的な漢民族に追いやられて、中国南部から東南アジアに移り、一部は台湾から日本にやってきたと考えられている[a]。したがって、マレー半島と日本列島で類似した農耕儀礼が残っていても不思議ではない。

我が国でも古代には、一般民衆の家々で同様の「産屋の忌み」が行われていたようで、『萬葉集』には次のような和歌もある。

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誰(たれ)そこの屋(や)の戸押(お)そぶる新嘗(にふなみ)にわが背を遣(や)りて斉(いは)ふこの戸を
(きょうはニイナメなので私の愛しいあなたを外に出して儀礼を行っています。それなのに、誰か(あなた)が(まるで訪れてきた神のように)戸を押して揺らしています。)[1, 1825]
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■3.マレイ半島の収穫儀礼と大嘗祭の類似

マレイ半島の収穫儀礼には「大嘗祭の重要な要素のほとんどすべてが揃っている」と、工藤教授は指摘する。

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「巫女」はサカツコ(酒造児)、「稲魂」は神聖な稲、「稲魂を収め取る」行事は抜穂、「寝室」は大嘗殿内陣、寝具用のござむしろは白端御帖(しらべりのおんたたみ)、「白布」は衾(ふすま)、「枕」は坂枕などに対応する。[1, 4112]
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サカツコは「酒(サカ)の(ツ)童女・巫女(コ)」で、稲から酒を造る未婚の娘である。大嘗祭では悠紀(ゆき)、主基(すき)両国の現地から占いで選ばれる。このサカツコが「抜穂」、すなわち育った稲を抜く。そして大嘗宮に向かう行列においても、神聖な稲の黒木輿(くろきのこし)の前を、白木輿(しろきこし)に乗って先導する。

大嘗殿内陣には、敷き布団(白端御帖)、枕(坂枕)、夜着(単、ひとえ)、掛け布団(衾)と寝具一式が揃っている。これが何を意味するのか、いろいろな説がある。しかし、上述のマレイ半島の「米児を寝具用のござむしろの上に安置し」という点に引き比べると分かりやすい。稲の新生児を寝かしておく寝具なのだ。

■4.降臨したニニギノミコトは稲穂の稔りの象徴

衾は天孫降臨のシーンにも出てくる。天照大神の孫・ニニギノミコトは生まれたばかりの姿で「真床追衾(まとこおうふすま)」にくるまれて、地上に送られた。「ニニギ」とは「日本米の原種である古代の赤米が赤らんで実った姿をいうもの」と、本居宣長は『古事記伝』で解釈した。そこから「ニニギノミコトは稲穂の稔りを象徴する穀童を意味する」とされている。[2, 324]

マレイ半島の「米児」を寝具に安置するのと、『古事記』で「穀童」が寝具にくるまって地上に天降るのと、この酷似は偶然ではありえないだろう。

そもそも、天照大御神が孫のニニギノミコトを降臨させた狙いはどこにあったのか。天孫降臨が決められた経緯は、「大祓詞(おおはらえのことば)」という祝詞の冒頭にこう語られている。

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八百万(やおよろず)の神等を神(かむ)集(つど)えたまひ、神議(はか)りに謀(はか)りたまひて、我が皇御孫命(すめみまのみこと)は、豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)を安国(やすくに)と平らけく知ろしめせと事依(ことよ)さしまつりき。[2, 553]
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すなわち高天原の神々が相談した結果に基づいて天照大神が「我が皇御孫命」すなわちニニギノミコトに、「豊葦原の瑞穂国」を「安国」、安らかな国とするよう治めよ、と委任されたのである。

「豊葦原の瑞穂国」について、皇學館大学・真弓常忠教授はこう語る。

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わが国の古い呼び名を「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)いう。豊かな稲穂の稔りに恵まれた国を意味する。葦の豊かに茂る原はみずみずしい稲も育つとの経験によった名であるが、必ずしもあるがままの姿ではなく、多分に期待と祈りをこめた讃め言葉である。
 日本の神話を記す『古事記』には、天照大御神がはじめて稲を得られたとき、これこそが天下万民の「食いて活くべきもの」とされて、「斉庭(ゆにわ)の穂(いなほ、高天原の神聖な稲穂)」を皇孫ニニギノミコトに授けられて、天降らしめられたと伝える。・・・

天上の稲を地上に移し替えて、この国を文字通り稲穂の豊かに実る国にようというのが、古人の共通の願いであった。[2,328]
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わざわざ赤子を天降りさせたというのは、生まれたばかりの新生児ほど霊威が強いという古代の信仰によるものらしい。

新たに収穫された稲穂を嬰児と見立てて、丈夫に育つよう寝床にくるむという点では、マレイ半島の古俗も日本神話も共通であるが、日本神話ではそれを民間習俗に終わらせずに、国家の始原の物語に位置づけている点が異なる。

■5.前天皇の死と新天皇の誕生

新しく生まれた稲穂を迎える大嘗祭・新嘗祭も、基本的にはマレイ半島の古俗と同じ起源を持っているのだろう。ニニギノミコトの降臨にも関係がありそうだが、実際、どのような儀式が行われるのか。

大嘗祭では、冬至の頃の一日、夜7~9時に天皇が悠紀殿に進まれて儀式を行い、その晩の午前2時からは主基殿で同じ儀式を繰り返す。冬至の頃に行われる理由を工藤教授はこう説明している。

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『日本書紀』によれば、初代神武から持統天皇(41代)までは、前天皇の死→新天皇の誕生が基本だった。[1, 4426]

大嘗祭当日の行事は、季節の衰弱の秋の部分が前天皇の衰弱および稲の収穫に対応した午後九時頃からのユキ殿での行事であり、深夜零時前後が冬の極まりで季節の仮死、すなわち前天皇の死(天皇霊の持続性という視点からは仮死)また収穫後の稲の仮死を象徴し、
午前二時頃からのスキ殿での行事は季節の復活の春の始まり、新しい稲の子の誕生、新天皇の誕生を象徴しているとしてよいだろう。[1, 4438]
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■6.天皇の聖なる使命を新たに伝える儀式

悠紀殿、主基殿での儀式とはどのようなものか。天皇は斎戒沐浴の後、神に食事を捧げ、御自らも箸をとられる。『国史大事典』の説明を引用すると:

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陪膳の采女たちが奉仕して、八重畳の東の神座と御座に米と粟の飯・粥に黒酒(くろき)・白酒(しろき)を中心とした数々の料理の品々の神と天皇の膳を並べる。天皇は神の食薦(けごも)の上に神饌の品々を十枚の葉盤(ひらで)に取り分けたものを供え、その神饌の上に神酒をそそぐ。そして天皇も箸をとってたべる形をとる。この神事が神饌親供である。
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これが、悠紀殿の夕御饌(ゆうみけ)、主基殿の朝御饌(あさみけ)と繰り返される。この儀式はどういう意味を持っているのか? 真弓教授は、こう説かれる。

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その稲は、皇祖天照大神より授けられた「斉庭の穂」である。それは皇祖=日神(ひのかみ)の霊異がこもっている。これをきこしめす(JOG注: お食べになる)ことは、皇祖の霊威を身に体し、大御神とご一体になられることである。そういう意義をもっておこなわれるのが大嘗祭であり、それを年々くり返して霊威の更新をはかられるのが新嘗祭である。[2, 576]
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工藤教授は、西郷信綱・横浜市立大学名誉教授の次の指摘を引用している。

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世々の天皇はみなホノニニギの命であり、新たなホノニニギの命として初代のホノニニギの命を大嘗宮で再演するのである。つまり、たんに次々に位を受け継ぐのではなく、高天原直伝の君主として、それぞれ新規に瑞穂の国に降臨する。[1, 4416]
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つまり、ここでも天皇は代々、ニニギノミコトの生まれ変わりであり、新しい天皇となられる際に、天照大御神をお迎えして、「安国と平らけく知ろしめせ」との委任を新たに受けられる。そして、毎年の新嘗祭でもこれを繰り返され、この「聖なる使命」を確認されるのである。

■7.国民の幅広い参加

大嘗祭も新嘗祭も、皇室だけの儀式ではない。国民も様々な形で参加する。まず悠紀殿、主基殿で供される神聖なる稲穂をとる田は、亀の甲を焼いてその亀裂によって神意を判ずることによって選ばれる。概ね悠紀は京都より東、主基は西国から選ばれる。今回は栃木県と京都府が選ばれた。

悠紀(ゆき)とは斉酒(ゆき)で、「神聖な酒」の意だとされている。神聖な米から酒も作るので、こう呼ばれたのだろう。主基(すき)は「次」で第二の儀式だから、という説もあるが、工藤教授は「サ(神聖な)キ(酒)」が転じた言葉という説を提唱している。

両国から提供される米以外に、紀伊国からあわびやさざえ、海藻等6種、阿波国からあゆ、橘子(たちばなのみ)など12種、淡路国から壺など容器3種類などが調進される。また神に献上する生糸を作り、服を織るのは参河国(三河)と阿波国だ。こうした様々な献物を納める行列を迎えるのが、現在の鹿児島県あたりからやってきた隼人百余人である。

大嘗祭、新嘗祭は、天皇が天照大御神から授けられた聖なる使命への決意を新たにする儀式であるが、その儀式を支える多くの民の姿をご覧になる事で、その責任の重大さをいよいよ感じとられたであろう。また、民の方も、この神聖な儀式を支える行為を通じて、天皇の聖なる使命を自分たちもお助けしなければ、という思いを新たにしたろう。

大嘗祭、新嘗祭は、天皇と民が互いに支え合い、助け合う心を新たにする、いかにも「和の国」[b]にふさわしい儀式であった。

■8.アニミズム文化圏の中で唯一、近代国家を創り上げた国

マレイ半島の収穫儀式は、稲の命を人間と同様に見なすアニミズム文化である。同様のアニミズム文化が長江以南から東南アジアにかけて広く見られるが、それらの民族は国家を作らなかったか、作っても弱小であった、と工藤教授は指摘する。

「アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想と、自然が与えてくれる恩恵に感謝しながら生きる節度ある欲望の利点がある」[1, 4891]と工藤教授は指摘するが、その穏やかさのためか、遊牧民族や一神教教徒には敵(かな)わなかった。長江文明が漢民族に追いやられたり、近代に西洋諸国の植民地とされたのも、その一例であろう。

しかし、我が国は、アニミズム文化圏の中で、唯一強力な近代国家を創り上げた。マレイ半島と同じ収穫儀式を基底としながらも、そこから国家建設の神話と民の平和を願う国家的理想を生み出した。それを洗練された伝統儀式として発展させ、1300年以上も継続してきた。大嘗祭で我々が目にしたのは、そういう奇跡だった。

自然の命を人間と同様に見なすアニミズム文化は、一神教による近代文明の自然破壊を転換させる智慧を備えている。また一人ひとりの人間の命を大切にする思想は、共産主義などの独裁を否定し、国民を大切にする福祉国家の在り方を指し示す。古代のアニミズム文化を発展させて、唯一近代国家を創り上げた我が国は、そういう道を世界に指し示す事ができるのである。

                                   
   (文責 伊勢雅臣)

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