「べルギーと日本との親愛の歴史を考える「」

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べルギーと日本との親愛の歴史を考える

力による支配ではない、互いに公正であることによって国際関係を構築していく。
そんな夢のような出来事が、実は、世界が極端な虐殺に走っていった、その同じ時代に、出現したのです。
この変化はいまも続いています。

ベルギーは、英国海峡に面しフランスとドイツオランダ、ルクセンブルグと国境を接する人口約一千万人の王国です。

童話の「青い鳥」の原作者のメーテルリンクは、ベルギーの出身だし、フランダースの犬でおなじみのフランダース地方も、まさにベルギーのアントワープ地方とその近郊のことをいいます。
街は、まるで童話の世界のようです。

自転車好きな方ならおなじみのロードレースも、ベルギーが発祥の地です。オートバイのモトクロス競技も同じくベルギーが発祥です。
おかげで近年、海外旅行といえばベルギーが人気ですし、そのベルギーもまた、たいへんな親日国です。

ではベルギーは、どうして親日国なのでしょうか。

実は日本がベルギーと国交を持ったのは、慶応2(1866)年の日本国白耳義(ベルギー)国修好通商及び航海条約の調印が始まりです。

日本にベルギーの公使がやってきたのは、なんとそれから30年も経った明治26(1893)年のことで、アルベール・ダネタン男爵が特命全権公使として来日したのが最初です。

ちなみに日本とベルギーの間に大使の交換が行われるようになったのは大正10年(1921)からです。
それ以前は、公使の派遣で、ダネタン男爵は在日ベルギー公使館の館長であったわけです。

氏はその後16年間にわたって日本に駐在し、世界における日本の地位向上のために努めてくださいました。
例えば日清戦争で日本が旅順港を占領したとき、米国のワールド紙などは、
「日本が現地で無辜の住民を6万人も虐殺している」と報じたのですが、このときアルベール・ダネタン男爵が、事の真偽を確かめようと調査に乗り出し、結局この報道は米国記者による捏造記事であることを突き止め、これを報告書にまとめて、その日のうちにべルギー本国政府に送りました。

「日本は敵兵であっても傷病者に配慮し、赤十字は皇后陛下の後援のもとで完璧なまでに仕事を遂行してジュネーブ協定を遵守している。
これはアジア人の間の戦争においてはおそらく初めてであろうと思われる。その場に居合わせたフランス武官・ラブリ子爵から直接聞いたところ、殺されたのは軍服を脱いだ兵士たちである。

つまり『婦女子が殺された』というのは真実ではない。
ほとんどの住民は占領前に避難を済ませている。
町に残っていたのは兵士と工廠の職工だけである。
日本兵は無残に扱われた戦友の死骸を見ながら、敵を捕虜にするだけにとどめていた」

当時のチャイナ兵は、捕らえた相手国兵士を殺して、遺体をバラバラに切断して吊るして、これを食べるのが伝統的習慣でした
そのことは当時の東洋を知る白人たちの常識でした。

人種差別が絶対だった時代においては、東洋人=チャイニーズであり、それはイコール「野蛮人」というのが白人社会の常識だったのです。

おもしろいことに、西欧には、ヘロドトス以来のアジア人=恐怖のサタン族という伝統的な見方があります。
そして欧米の植民地支配がチャイナと出会ったとき、まさにそれがアジアの現実であることが実証されたように感じていたのです。

こうした前例がありますから、米国記者の「日本も同じだ」という報道は、欧米諸国に「なるほど」と納得させるだけの素地が充分にあったわけです。
「日本人は公正という人もいるけれど、なあんだ、日本人もチャイニーズと同じじゃないか。やっぱりイエローは人食いの野蛮人種なのだねえ」
というわけです。

ですから米国人記者による捏造報道は、そのまま各国の新聞に転載されたし、欧米中に説得力を持って拡散されたし、「日本人もチャイニーズと同じ野蛮人」と白人諸国の多くの人々に納得を与えていたのです。

ところがベルギーのダネタン公使は自ら現地調査を行い、事実はまるで正反対で、日本はきわめて公正な振る舞いをしていたし、実に立派な行動を示していたことを見事に立証してくれました。
男爵は何も格別なことをしたわけではなく、自分の足で調査をし、調査の結果わかった事実を淡々とありのままに本国に報告しただけのことです。

ところが当時の白人世界(当時は世界に国家というのは14カ国しかありません。有色人種の住むエリアは、それぞれその14カ国が保護地(自国の領地)にするということが常識とされた時代です)において、日本がチャイニーズと異なり、きわめて「公正な人種」であるということが、社会的地位のある白人によって立証されたのです。
これはとても重要なことでした。

なぜならこういうことは、当事者である日本人がいくら必死に否定しても、笑い者になるだけだし、何の説得力も持たないからです。
野蛮人がまた嘘を言っているとしか思われない。

(こうした現実は、慰安婦問題などにおける韓国の虚報が世界に蔓延することにも通じます)

けれど白人であり、社会的に認められた地位を持つダネダン公使の報告は、それが爵位を持つ男爵の言葉であるだけに、大きな説得力を持ちました。

当時の爵位を持つ貴族の地位は、欧州において、新興国である米国の、一新聞記者よりもはるかに社会的信用を持つものであったのです。
そしてダネダン公使の報告は、見事、日本の名誉、ひいては日本人の名誉を守ってくれたのです。

ダネタン公使は、日露戦争でもロシア兵捕虜が虐待されているという海外メディアの虚偽報道を是正する報告を流してくれています。
また、公使夫人のエリアノーラ・メアリー・ダネタンは、日本滞在中の日常の見聞を『ベルギー公使夫人の明治日記』という本に著し、この本は当時の外交関係者の動向や社交界の様子を客観的に伝える貴重な資料となりました。

そのダネタン公使夫妻が任務を終えて帰国したのが明治43(1910)年のことです。
その4年後の大正3(1914)年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発しました。

第一次世界大戦においてドイツは、フランスを攻めるためにベルギー領内を通過しました。

ベルギーは、永世中立を宣言した国でした。

ところがいくら中立宣言をしていても、ドイツ軍の通過を認めれば、それはベルギーがドイツの肩をもったことになります。
これは「ベルギーは中立である」という姿勢に反することになります。

※ ここは大事なところです。中立を宣言するということは、戦争当時国の軍の通過さえも認められないのです。認めれば戦争に加担したことになります。その意味ではたとえばベトナム戦争や湾岸戦争、あるいは古くは朝鮮戦争において、日本は決して中立国ではありません。米軍側の戦争当時国の一員となっていたのです。

このことを考えれば、日露戦争(1904年)時における当時の大韓民国(朝鮮)のだらしなさがよくわかります。当時の大韓民国は、その時点ではまだ日本に併合された日本統治領ではなく、自称であれなんであれ、あくまで独立国(日韓併合は1910年)を標榜していました。けれど彼らは、日露戦争における日本軍の大韓民国領土の通過に何の反応も示していません。

もっというなら、国際世論も、そのことに何の反応も示していません。これが何を意味するかというと、当時の世界から見た大韓民国は、世界からみたら無主地同然の扱いでしかなかったということです。
また清国も、日本軍の朝鮮半島通過を黙って見過ごしています。つまり、彼らには、国民国家としての尊厳もなければ、国家としての意識さえも、カケラもなかったということですし、そもそも近代国家とは何かを、まるでわかっていなかった・・・つまり近代国家でさえない、一定のエリア内のただの軍閥割拠でしかなかったことを著します。

戦後の日本も同じです。戦わず、中立でもなく、ただ戦争放棄を歌うということは、国際的にみれば、日本は国家としても民族としても何の尊厳をもたない、ただの無主地に他ならないということです。
無主地であって、そこに米軍が基地を置いているということは、戦後の日本は米国の保護国にすぎないということです。米国機関の若い米人女性が、総理官邸にフリーパスで乗り込み、日本の閣僚を称号無しで呼びつけるのも、そうした背景があるからです。

たまたま日本は四方を海に囲まれ、米軍の保護下にあり、しかも戦時中の日本人があまりに勇敢だったから、戦後70年余、襲撃や領土通過の脅威にそれほどさらされずに済んでいたというだけで、その平和がこのままの状態でいつまでも温存できるかといえば、答えはNOです。

ベルギーは、ドイツに敢然と立ち向かいました。

ベルギーは中立を標榜している以上、たとえ相手がいかなる強国であったとしても、自国を勝手に通過することは許さない。
それが自立自存ということです。

ペルギーは、ドイツ軍の侵入に対して、国をあげて敢然と立ち向かいました。

繰り返しになりますが、中立というのは、ただ「戦わない」というひ弱な精神ではありません。
どこにも組みしないということは、どこの国からの干渉も絶対に認めないし許さないという強靭な意思と行動を伴うのです。
その意思と行動がないなら、中立など成立しえないのです。

当時のドイツ軍は、圧倒的強国です。

ベルギー軍の抵抗もむなしく、領内は次々と侵略されました。
ついにベルギー国王の国王アルべール一世は、フランスとの国境にあるフェルヌに近い寒村にまで追いつめられてしまいます。

しかし国王は、絶対に降伏しませんでした。
自ら銃をとって戦い、傷ついた将兵を慰め、不眠不休の戦いを続けました。

そして連日のベルギーのこうした勇敢な報道に接した日本は、勇敢に戦うべルギー国民を激励しようと、ついに支援活動に立ち上がりました。

当時の朝日新聞社長の村山龍平は、
「中立を蹂躙せられ国歩艱難を極めつも、親しく陣中に在(い)はして将卒と共に惨苦を嘗(な)め給へる白耳義(ベルギー)皇帝アルバート陛下の勇武を欣仰するために、愛蔵の日本刀一振りを口ンドン駐在の特派員杉村楚人冠を通じて献上
(大正3年11月7日付大阪朝日新聞)」
しています。

また日本国内の新聞各紙をはじめ雑誌その他の刊行物を通じて、苦衷に立つべルギーへの支援活動が日本国内で熱烈に展開しています。

大正8(1918)年、第一次世界大戦が終わった4年後、関東大震災が起きました。
この大震災の二ュースは世界各国に報道され、諸外国から援助の手が差し伸べられました。
このとき、群を抜く支援活動をしてくれたのが、べルギー王国でした。

9月3日の震災の報道を受けたべルギーでは、5日には「日本人救済べルギー国内委員会」が結成されています。

上智大学教授の磯見辰典氏によれば、当時、ベルギー国内で、音楽会、講演会、バザー、さらに「日本の日」が各地で催され、新聞はもとより、カトリック教会もこのキャンぺーンに積極的に参加し、なんと約264万2千フラン(日本円で約220億円)を集めて日本に贈ってくれたのです。
これは米英に次ぐ、多額の援助金でした。

ベルギーは、人口わずか1千万の国です。

米国3億人、英国6千万人であることを考えると、いかに大きな貢献をしてくれたかがわかります。
このことは、東日本大震災当時の台湾と同じです。

このときべルギー国内で配布された「元兵士へ」(1923年)と題する日本への支援を訴えた文書が、いまに残っています。

この文書を見ると、9年前の第一次世界大戦の際、ドイツ軍の侵略と戦うべルギー軍兵士に対して数々の援助を尽くしてくれた日本人への賛辞が述べられ、べルギーの元兵士はこのときの恩義を今こそ日本に返そうではないかという趣旨が書かれています。
つまり、あの厳しい戦いであった第一次大戦のときのことを、ベルギーの人々はしっかりと覚えていてくれたのです。

この絵の右側に、一台の車があり、その横に双眼鏡を手にした山本権兵衛総理(当時)が描かれています。
すぐ脇に、オフホワイトの背広を着て、赤い洋服を着た小さな女の子が描かれています。

背広姿の紳士が日本駐在べルギー大使のバッソンピエール男爵。
小さな女の子が有島画伯の姪の皎子(きょうこ)さんです。

有島画伯は、震災における日本支援の象徴として、当時の内閣総理大臣の山本権兵衛、日本支援の象徴としてベルギー公使のバッソンピエール男爵、そして絵を書いた有島画伯の姪の三人を絵にしたのです。

国際日本人養成講座の伊勢さんのベルギーと日本の関係を書いたメルマガの冒頭に、次の文章がありました。
「わが国の近代外交史に関する教科書記述の大半は、いわゆる『脱亜入欧』の方針のもと欧米列強と同様の帝国主義路線を邁進し、ついに第二次世界大戦によってその野望が破綻したと見る図式が基調をなしていると見てよかろう。そうした物差しを当て嵌めて近代史を見てしまうから、わが国が近代の当初に、列強とはひと味違う国々に国作りの手本を求めたり、また親密な交流の歴史を刻んでいた史実などは切り捨てられて顧みられないのである。
わが国はけっして大国志向だけの路線を突っ走ってきたわけではない。近代化のための様々な選択肢を模索しながら二十世紀を生き抜いてきたのである。」

文にある通り、最近の教科書や歴史学会では、あたかも戦前の日本が軍国主義への道をひた走りに走ったかの如く書かれているものが目立ちます。大きな間違いです。

米国最高裁が、
「黒人ならびにその子孫は、所有者の財産であって、合衆国の市民ではない」という判決を出したのが1857年、日本で行ったら、幕末近い安政4年のことです。

わずか162年前のことです。

このことの意味するところは重いです。
要するに当時の世界の常識は、カラード(有色人種)は、人ではなく「動産」であったということだからです。
「動産」であるということは、人とのしての権利を持つ「人間」ではないということです。
家畜と同じだったのです。

ですから日本人もまた「人間」ではなく、家畜と同じとみなされました。
けれど、そのとき日本がどうしたかというと、そうした欧米の見方に抗議するとか、でたらめな宣伝活動をするとか、相手の悪口を言うとか、論点をずらして被害者を装うとか、GSOMIAを破棄するとかといった卑怯卑劣な方法は一切とっていないし、三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を取るなどというみっともない真似もしていません。

私達の先人達は、ただひたすらに日本にもとからある「公正」さを培(つちか)い、これを黙々と実践し、自国を磨き、世界の良心が、それを見て目覚め、自然と日本人を対等な「人間」であり「隣人」であり「友人」と認めてくれるよう、ひたすら努力を重ねたのです。

日清戦争を観戦したフランスの国際法学者ポール・フォーシーユは、次の言葉を残しています。
「日本は、単に自国に法制度を施行して文明国に列しようとしているだけではなく、国際法上においても、まさに文明国であり文明人であることを見事に証明した。すなわち日清戦争において、清軍はあからさまに国際法を無視したけれど、日本軍は国際法をどこまでも尊重した。

日本の軍隊は慈悲をもって捕虜を待遇し、敵の負傷者を見つけては救護を拒まなかった。日本は未だ1868年12月11日のセントピータスブルグ宣言(害敵手段を制限する取り決め)に加盟していないけれど、相手国兵士に無用の苦痛を与える兵器の使用を避けた。またあえて敵対しない住民の
生命財産を保護する事にもすこぶる注意を払った。

日本は、未だどこの国もしなかった事をしてみせた。
その仁政を熱心に行う余り、ついには敵国の住民の租税を免じ、敵国民から対価を得ることなしに彼らを給養してしまった。
兵士の間ですらも人命を重んじることに極めて厚く、人々を救済する策を惜しむことはなかった。見るがいい!日本軍の通過する所には、必ず衛生法を守らせる為の規則が布告されている事を!!」

(原文)
日本は独り内部の法制に於いて世界最文明国の班列に達したるに非ず。国際法の範囲に於いても亦同然たり。経験は日本政府が能く其の採択する所の文明の原則を実行するに堪うるを表示せり。

すなわち日本は清国に対する一八九四年の戦争に於いてこの事を証明したり。この戦役に於いて日本は敵の万国公法を無視せしに拘らず自ら之を尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の病傷者を見ては未だかつて救護を拒まざりき。

日本は尚未だ一八六八年十二月十一日のセントピータスブルグ宣言に加盟
せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。日本はいずれの他の国民も未だかつて為さざる所を為せり。其の仁愛主義を行うに熱心なる、

遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無代価にて之を給養するに至れり。兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。見るべし日本軍隊の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを。

ちなみに文中にある「敵国民から対価を得ることなしに彼らを給養してしまった」ことの中には、チャイナでの日本軍の行動だけでなく、半島における日本政府の振る舞いも同じです。

白人国家が、有色人種国を保護国にするということは、そこに自国民の利益を求めるからです。

しかし戦前の日本は、半島や大陸、あるいは東亜諸国において、利益を求めたことがあったでしょうか。
まったくないのです。

そんな神様のような国など、人類誕生以来、日本くらいしかなかったと言っても、これは決して大げさなことではないと思います。

戦前の日本は軍国主義に走ったのではありません。
私達の先人は、「公正」と「人道」と「信義」を大切にし、日本をむしろ世界の模範となれるよう、必死の自制と努力を重ねたのです。
そうすることで世界の良心が日本を認めざるをえないよう、努力を重ねていたのです。

それが明治から先の大戦にいたるまでの日本の姿です。

その結果、戦うべきときには戦わざるを得なかったことを、私達は理解する必要があります。

それをしなければ、ただの無能な馬鹿とみなされたのです。
戦後の歴史解釈が逆なのです。

「笑いの石垣」という小噺(こばなし)があります。
概略、次のようなお話です。

「熊野には石垣が沢山ありました。あるとき八幡社の裏手に石垣を積もうという話になりました。高さ10メートル、幅30メートルの2段積みといいますから、たいそう立派な石垣です。ところがその石垣の下に住む村人から、『危険だから止めてもらいたい』と言う抗議が出ました。その時の石屋さんの証書が残っています。そこに書かれていたのは、
『万一崩れた時はお笑い下されたく候』でした。」

昔の人は、人に笑われるのを最大の恥としたし、それだけで村人たちも納得したというのです。

それほどまでに、日本人は民度が高かったのです。
戦地における弾薬不足という非常事態を起こして、緊急事態だからと日本に弾薬補給を要請して助けてもらいながら、あとになって「あれは要らなかった。日本が勝手にしたことだ」というデタラメを公式に発言するような野蛮な国とは、日本は出来が違うのです。

同様のことは、明治10(1877)年から明治13年まで日本に滞在し、東大で生物学を教えた米国の生物学者エドワード・S・モースも、日本での体験として次の言葉を残しています。

「『私が帰るまで金と時計をあずかってくれぬか』と亭主に頼んだら、亭主は快く承知した。召使(めしつか)いがひとりふたの無い浅い塗り盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品をいれるものだといった。で、それ等を彼女が出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いたまま出て行った。私はいうまでもないが、彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。ところが召使いは帰ってこない。
 
私は彼女を呼んで、なぜ盆をここに置いて行くのかと訊(たず)ねた。
彼女はここに置いてもいいのですと答えた。
私は主人を呼んだ。彼もまたここに置いても絶対に安全であり、
彼はこれ等を入れる金庫も他の品物も持っていないのといった。
未(いま)だかつて日本中のいかなる襖(ふすま)にも、錠も鍵もかんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験をあえてしてみようと決心した。
 
恐らく私の留守中に何回か客が入るであろうし、また家中の召使でも投宿客でも、楽々と入り得るこの部屋のふたの無い盆に、
銀貨と紙幣とで80ドル、それに金時計とを入れたものを残して私は出発した。私達は一週間にわたる旅をしたのであるが、
帰ってみると時計はいうに及ばず、小銭の1セントにいたるまで、
私が残して行った時と全く同様に、ふたの無い盆に載っていた。
(中略)
 
人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。
私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、
間もなくポケットのひとつに小銭(こぜに)若干(じゃっかん)が入っていたのに気がついて
それを持って来たが、また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を3枚持って来た。」

日本は、きわめて治安が良く、民度がたいへんに高かったのです。
だからこそ日本は、その高い民度のままに、「公正」と「人道」と「信義」を世界の中にあっても貫き通しましたのです。

そしてそのことによって、日本は世界に認められる国となり、ついに明治35(1902)年には、当時の世界の最強国である英国と対等な軍事同盟を締結するに至っています。

白人国家の代表である世界最強の大英帝国と、東洋の有色人種国家である日本が「対等な同盟」をするというのは、これこそ世界史に残る大事件です。

なぜなら、「カラード=ケモノ」とみなすことが世界の常識であった時代に、人類を代表する最強国の国家が、ケモノ国と同盟を結んだということだからです。

言い換えれば、それが実現できるほどまでに、日本人は優れた民族であり、日本は優れた国家であると世界が認めたということだからです。

ベルギーは、もともとハプスブルグ家の飛び地領土だったネーデルランドです。レオポルド一世が立憲君主に即位することで、ベルギー王国となったのが、天保2(1831)年です。
つまり、日本と通商条約を締結するより、わずか35年前に独立した国家です。

そしてそのベルギーは、道義と公正を目指す国家建設にあたり、日本を模範としたといわれています。
道徳心が高く公正な日本は、欧州における新国家建設の模範となりうる国家でもあったのです。

私達の先人は、日本をして軍国主義、大国主義を指向しようとしたのではありません。
日本にもとからある「公正」と「人道」と「信義」の文化を護り、伝統と歴史ある日本を守るために誇りをもって努力を積み重ねてきたのです。

そしてベルギーがいまなお親日的なのは、戦後の日本がお金持ちになったからではありません。
戦前の日本が、公正、人道、信義の3つを大切にしてきた。
そのことがベルギーをして、いまも親日国にしてくれているのです。
そういうことを、わたしたちは歴史に学ぶ必要があると思うのです。

そしてこのことが、世界史における、ある大きな変化をも招いたことを、私達はあらためて学ぶ必要があります。
もともと19世紀までの国際社会は、支配と征圧によって成り立っていました。

このことは20世紀に至るとさらに、征圧から粛清と呼ばれる大量虐殺にまで変化していったのが世界の歴史です。
こうした上下と支配による国際関係は、21世紀になったこんにちにおいてもなお、それを国是としている国家があることを考えれば、十分にご理解いただけようかと思います。

ところがこれと同じ時期に、世界に大きな変化が同時並行の形で生まれたのです。

それが親愛と公正、事実に基づく共栄と共存の国際関係です。
力による支配ではない、互いに公正であることによって国際関係を構築していく。

そんな夢のような出来事が、実は、世界が極端な虐殺に走っていった、その同じ時代に、出現したのです。

この変化はいまも続いています。
そして世界はいま、大きく変わろうとしています。

この変化は、静かに、でも確実に、そしてネットの普及によっていまや加速度を付けて広がりつつあるように思います。

この変化を考えるとき、支配と征圧ではない、親愛と公正の世界を希求する日本は、もしかすると先の大戦で勝利してはならなかったのかもしれないと思えるのです。もちろん緒戦での勝利の連続は必要でした。つまり最終結末として力による戦闘での勝利は、神々は望まなかったのではないかと思えるのです。

もし日本が、昭和20年2月の段階で予定通りに原爆を完成させていれば、沖縄に集結した米艦隊は、一発のその新型爆弾で全滅したことでしょう。

米艦隊のいなくなった太平洋は、ふたたび日本の領土となり、9月には新たに就航したであろうジェット戦闘機によって、米国は、本土防衛も困難な状況に追い詰められたかもしれません。

けれど日本は、陛下の御聖断によって原爆を用いず、またジェット戦闘機が就航する直前の8月の時点で終戦しました。
その後の日本は、あたかも袋叩きにあったかのようでしたが、そのわずか19年後には東京でオリンピックが開催できるほどに復興を遂げ、世界はわずか14カ国が支配した世界から、いまや国連加盟国だけで197カ国の時代になっています。

収奪されるばかりであった有色人種も、いまや立派な国際社会の一員として活躍し、人種差別の明確だった米社会も、昭和39年7月には公民権法(Civil Rights Act)を制定して黒人を市民として迎え入れています。
人類社会には、いまだ差別や支配があるものの、国際社会における、ないしは国際関係における世界の常識は、確実に、信頼と公正による新たな社会へと向かいつつあるのです。

もちろん、これと真逆を志向している国もあります。
しかし流れに棹(さお)をさす行為を継続する国は、確実に世界からの信頼を失うことになりますし、現に失いつつあります。

人類社会は、いま、大きく変わろうとしているのです。

ねずさん

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