「人は石垣、人は城。」

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人は石垣、人は城。金原明善物語

人は石垣、人は城。
権力ではなく、
信念と努力によって
人と人とが結びついて
大きな事業を成していく。
それが日本を通底する
日本の歴史です。

金原明善(きんぱらめいぜん)は、天保3(1832)年、遠江国長上郡(なかがみぐん)安間村(現静岡県浜松市東区安間町)の名主の家に生まれました。

浜松には、天竜川(てんりゅうがわ)という長野から遠州灘にそそぐ一級河川があります。
天の龍という名前が示す通り、もともとは大暴れ川で、明治元(1868)年5月にも大雨で堤防を決壊させて、浜松から磐田(いわた)一帯の平野部を水浸しにしました。
平野部の家屋は、ほとんど水没したのです。
たいへんな被害でした。

金原明善、36歳のときのできごとです。

江戸時代は、農家が税として年貢を納め、受け取った武士は藩主がその年貢米を備蓄して、万一の災害の際の非常支援をするのが慣例でした。
名主というのは、近隣の農家の名代の主という意味で、大名というのは、名主の中の大名主のことをいいます。

小さな災害なら、名主さんが近隣の農家や町民の面倒を見、大規模災害のときは藩が出動し、さらに大きな被害の場合は、幕府がお蔵米を放出して災害支援にあたりました。

日本は天然の災害が多い国ですから、これは行政がしなければならないことです。

ですから農家にとっても町民にとっても、年貢は、単に今風の、ただ取られるだけの税という感覚ではなくて、農家であれば万一の場合の備蓄米をお上に保管していてもらうという、いわば災害保険のような意味があったし、町民にとってもこれは同じで、日頃からお上の税の御用(城や道路などの普請や、台所のお手伝いなど)を勤めていれば、やはり万一の災害のときに、住宅や炊き出しなどでお上が命を助けてくれるという相互補完関係があったわけです。

災害が起きた明治元年というのは、1月に戊辰戦争が始まった年です。
元、幕府の老中で浜松藩主だった井上正直は、水浸しになった藩をなんとか救おうとするけれど、あまりも被災規模が大きくて、どうにも手がまわりません。

やむを得ず金原明善は、この災害の復興と、天竜川の治水工事を、この年誕生したばかりの新政府に希望を抱いて、京都に上って、この年にできたばかりの新政府の民生局に陳情しました。

ところが新政府はまったく相手にしてくれません。

おそらく実際の理由は、財政不足であったことでしょう。
しかし窓口の対応は、浜松藩は徳川家のお膝元だから敵だと言ったのだそうです。

災害対策に、敵も味方もありません。
しかし窓口の対応は、まるで木で鼻をくくったようなものでした。

そうこうしているうちに、同年8月に明治天皇の東京行幸が決まりました。
ところが浜松、磐田一帯は、まだ災害復旧もままならない状態です。
このため新政府は、突然手のひらをかえしたように、水害復旧工事に着手してくれました。

かつての日本には、こういうところがありました。
国家最高権威であって、権力者よりも上位の存在である天子様(天皇)が行幸されるとなれば、地元がみっともない状態になど置いて置けないのです。

なぜなら、災害対策もろくにできていないということは、その土地の権力者は、天子様の「おほみたから」をお預かりしていながら、ろくな行政ができていないということになるからです。

天皇がその土地の施政者(権力者)の人事に介入されることはありませんが、そのような能無しをその土地の責任者に任じたのは、中央の最高権力者であるわけです。

当然、中央の最高権力者自身の能力や資質が問われることになるのです。

ですから陛下が行幸されるときに、瓦礫がそのままになっていたり、復興工事が未着手だったり、被災者の仮設住宅がみすぼらしい状態になっていれば、それはそのままその土地の施政者の責任問題になりますし、その施政者の任命責任の問題をかもし出すことにもなるのです。

ですから天皇行幸ともなれば、天皇のもとにある政治権力者は、国や地域をあげて道路も景色も、ピカピカに手入れをしたのです。
それが被災地であれば、全力で復興作業を行った。
このことが、民政という面において、どれだけ民衆の安全と安心につながっていたのか、私達はここでもう一度しっかりと考え直す必要があると思います。

ところが平成の日本では、東日本大震災後、陛下が何度となく被災地入りをされたのに、瓦礫の山もそのまま、仮設住宅もそのままでした。
どれだけ日本の政治のレベルが下がったのか、どれだけ日本の民度が下がったのか、ということです。

私達は、ご先祖様を前に、猛反省をすべきです。

戦前の日本を、ひたすらに悪し様にいう学者などがいますが、すくなくとも、被災地に陛下が行幸されるというだけで、官民あげて、必死になって被災地の復興努力をした昔の日本と、陛下が被災地に何度もはいられているのに、被災地を担保にして国からカネを引っ張り出し、そのカネが被災地復興とはまったく関係のないことに使われてしまう昨今の日本では、はたしてどちらが、私たち国民にとって良い国といえるのか、ここは本気で私達が見直していかなければならない大きな課題であろうと思います。

さて、話を戻します。

天皇行幸を前にした復興工事で、金原明善は優れたリーダーシップを発揮して、なんと同年10月には、工事の大略を終わらせてしまいました。

この功績によって、明治天皇が浜松に在所されたとき、苗字帯刀を許される名誉をいただきます。

そしてこの成功から、翌明治2年には、静岡藩の水下各村の総代又卸蔵番格を申付けられ、明治5年には、浜松県から堤防附属、戸長役・天竜川卸普請専務に任命されています。

そして明治7年、金原明善は「天竜川通堤防会社」を設立して、オランダ人の河川技術者を招いて、天竜川上流の森林調査を行いました。金原明善42歳のときのことです。

天竜川は、その名の通りの暴れ川ですが、どうしてそうなってしまうのか。

川下の堤防建設もさりながら、そもそも、どうして雨が降ったらすぐに大水になるのか。
その原因を追及しなければ、抜本的解決にならないと考えたのです。

調査の結果は、すぐに出ました。
天竜川上流の山々の森が、荒れ放題となっていたのです。

「緑のダム」という言葉があります。

良く整備された森林は、降った雨を森林内に蓄えて、それを徐々に流す働きがあるのです。
これは、板の上の水は溜まって流れるけれど、板でなくスポンジであれば水を含んで溜めてくれるのと同じ理屈です。
森は、スポンジの役割をしてくれるのです。

ところがこのスポンジがスカスカになって荒れ果ててしまえば、森は貯水能力を失います。
すると雨が降ると、山の斜面の土砂まで一緒に、濁流となって下流を襲います。
これが土石流です。

「荒れた森をなんとかしなければ、天竜川の氾濫は止められない。」

明治10年、金原明善は、自分の全財産を献納する覚悟を決めて上京し、内務卿の大久保利通に、築堤工事実現のための謁見を求めました。
金原明善は、旧幕府方の農民です。

方や新政府のリーダーです。
身分は月とスッポンくらいの違いがあります。

ところがここが大久保利通のすごいところで、身分の別け隔てなく、重要な人にはちゃんと会ってくれました。

幕府領であることや、旧農民であることとは関係なく、長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している金原明善の名をちゃんと知っていたのです。

大久保利通は、明治新政府として、金原明善の全面的な後押しを約束してくれました。

こうして天竜川には、堤防の補強・改修、流域の全測量、駒場村以下21箇所の測量標建設、山間部の森林状態調査等々、近代的かつ総合的な治水事業が始められることになりました。

すると金原明善は、自宅に水利学校を開きました。
そこで治水と利水の教育を行いました。
森と水の事業は、世代を超えた大事業になるからです。
自分一代では、工事に限りがあるのです。
次の世代を育てなければならない。

ところが治水事業が安定稼働しはじめ、ようやく堤防などが完成し、水害の問題が解決に向かい出した頃から、別な問題が発生しました。

天竜川流域の住民たちが、利水権をめぐって争いだしたのです。

ようやく対処療法としての堤防建設が進み、いよいよこれから根治療法としての森林保護に乗り出すところでした。
まだ、天竜川対策は、道半ばです。
堤防工事だけでは治水事業は完成していない。
大雨が降って、万一堤防が決壊したら、ふたたび大水害が襲うのです。

協力しなければならないときに、互いに自分の利益を主張して争い合う。
挙句の果てが、好き嫌い論にまでなってしまって、骨肉相食むような争いを始める。

上下関係だけですべてが決まるChinaやKoreaなどと違い、我が国は古来、誰もが「おほみたから」として互いが尊重されてきた国です。
言論が自由なだけに、調整が難しいということは、これは現代でもよくあることです。

では、そこで金原明善がどうしたかというと、住民の調整困難を理由として、明治16(1883)年天竜川通堤防会社を解散してしまうのです。
争いを生むために治水事業をはじめたのではないからです。

そしてたったひとりで、現在の龍山村の山奥にある、大きな岩穴で寝泊まりをしながら、山の調査を続けました。

どうしても、山間部の荒れ地に植林を行わなければならない。
明治19年、金原明善54歳のときのことです。

金原明善は、こうして山間部の750ヘクタールに、スギとヒノキ、あわせて300万本の植林計画を作成します。
そしてこれを実施するためには、300万本の苗木を用意しなければなりません。

そのために土を耕し、苗畑にスギやヒノキの種をまく。
苗ができるまでに2年かかります。
さらに、苗木を植えやすいよう、荒れた山を整地します。
そのあとに、いよいよ植林です。
ここではじめて苗畑で育てた苗木を植えるのです。

手間も費用もかかります。

金原明善は、これに要する資金や土地を、すべて自腹で用意しました。
そして作業員の人たちと一緒に山小屋で暮らし、率先して苗木を担ぎ、急斜面に一本一本の苗を植えていきました。

利水権をめぐって争っていた人たちも、そんな金原明善の姿に、自分たちの争いの醜さに気付きました。

そして金原明善の姿を見た多くの人と浄財が、金原明善の元に集まりました。

たったひとりではじめた植林事業は、3年目には8百人を越える人で、山は大変活気に満ちるようになりました。

この間、雨で山が崩れることもありました。
暴風に叩きつけられ、育ちつつある苗木が根こそぎ倒れてしまうこともありました。

植えただけでは苗木は大きくなりません。
雑草を刈るための下草刈り、つるきり、枯れた箇所への補植など、次から次へと、息つく暇もない。

しかし、
「良い森林を作ることが、多くの人々の生命と財産を守ることだ」
金原明善の決意と信念は、仲間たちとともに、ひとつひとつ困難を克服しました。

私が小学生の頃、市内の小学校には、教科書の副読本として「のびゆく浜松」という小冊子が市内の全生徒に配布されました。

そしてこの小冊子のかなりのページが、写真入りで金原明善の物語に費やされていました。

その小冊子を読み、また教室で先生から、その話を直接聞きました。
何人かの子供が、家に帰ってその感動を親に話したのでしょう。
当時はまだ、三世代が同居している家がほとんどでしたから、
「ウチのじいちゃんも植林したんだって!」
という話がクラスの中で飛び交いました。
そして誰もが、自分が地元を護った英雄のような感覚を持ちました。

誰かがしてくれる・・・・世の中はそんな甘いものではありません。

たったひとりでも正しいことのために立ち上がり、粛々とそのために努力をし続ける。
最初に始める人は、他の誰もしていないのですから、周囲から見たら、ただの馬鹿者にしかみえません。
しかし世の中は、そんな馬鹿者によって、新しい時代が築かれるのです。
馬鹿を甘く見てはいけないのです。
言葉は同じ馬鹿でも、ヒトモドキの馬鹿と、日本人の馬鹿は、意味が違うのです。

金原明善は、大正12(1923)年、92歳でお亡くなりになりました。
金原明善の行った治水・植林事業は、今もなお、遠州平野の水害を食い止め、浜松市の発展に寄与しています。

金原明善の治水事業の基本方針というものがあります。
(1) 身を修め家を斉(ととの)えて後、始めて報孝の道は開かれる。
(2) 事業には必ず資本を必要とする。
この資本は質素倹約を基調として求むべきものである。
そしてその事業が大きくなるに従って、
資本は共同出資方式にならねばならぬ。
(3) 事業の発展進歩はその事業に携わる人々にある。
そしてこの人物の育成は教育に俟(ま)たねばならぬ。

人は石垣、人は城。

権力ではなく、信念と努力によって人と人とが結びつき、大きな事業を成していく。
それが日本の歴史です。

ねずさん

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