「神様のお名前とその意味の凄み」

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そうとわかったときに、背中に思わず寒気が走った出来事があります。

それは、古事記の初めの方、創世の神々に込められた意味を原文から探っていたときです。2つありました。
今回ご紹介するのは、そのなかのひとつです。
古事記の冒頭にあります。

古事記の冒頭には、創世の神々として次の三神の記述があります。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神 (かみむすひのかみ)
この三神は、一般に「造化三神(ぞうかさんしん)」と呼ばれますます。

「造化三神」という言葉は、古事記にそのように書かれているわけではありません。

江戸時代に平田篤胤(ひらたあつたね)が、キリスト教の影響を受けて、万物の創造神があるはずだ、ということから提唱したものです。

その後、キリスト教から離れて、陰陽による解釈も行われました。
どういうことかというと、三神のうち、高御産巣日神と神産巣日神が「陰陽」をあらわし、その後「道教」にも創成神があるから、陰陽の中心として後から天之御中主神が付け加えられたのではないかという説です。

けれど、そもそもキリスト教が始まったのは紀元0年頃のことです。

もちろん旧約聖書はもっと古いですが、それでも成立は前5世紀から前4世紀頃といわれています。

支那の陰陽道が前3世期の荀子、
道教になるともっとずっと新しくて、黄巾の乱を起こした2世紀の張角(ちょうかく)が興した太平道や、蜀の張陵がやはり2世紀に興した五斗米道(蜀が滅ぼされた後に魏の曹操によって優遇)などが母体とされています。

古事記の成立は、平城京遷都の二年後の西暦712年です。つまり8世紀初頭です。

その意味では、古事記は、キリスト教、陰陽道、道教などよりも後の成立です。けれどそこに描かれた神々は、古事記成立よりもずっと古い昔からのものです。

なぜそのようにいえるかといえば、それら神様をお祀りする神社の成立年代は、古すぎて、いったいいつのご創建かさえわからないほど、古いからです。

その意味では、日本の神々への思考は、約2万年前からはじまる縄文時代以来の蓄積された日本の知恵に基づくものといえるのではないかと思われます。
なぜなら日本は、皇統が万年単位で継続している稀有な国だからです。

ということは、「陰陽二神があるから、その中心として後から天之御中主神が置かれたのだ」とか、三神でひとつの「万物創造」を表すという解釈は、おかしいということになります。

なぜなら、単に万物の創成神というのなら、わざわざ三柱の神様に分ける必要はないし、陰陽を言うのなら、伊耶那岐、伊耶那美のような男女神が、このあとに5組も登場するのです。

つまり「造化三神」は、陰陽道でも道教でもキリスト教でもなく、もっとはるかに古い時代からの我が国独自の考察によって、その存在が導き出された神様ということができます。

では「造化三神」とは、何を意味しているのでしょうか。

そもそも古事記は、大和言葉や御神名の真実が失われてしまった未来社会においても、そこで使われている漢字の成り立ちを探れば、その真意がわかるという工夫を凝らして書かれたものです。

そしてそのお名前の保つ意味を探ってみると、私達の眼には見えない世界を、それぞれ「神」として表現していることがわかります。

つまり、○○の神という神様は、人の世界における個人の特定のようなものではなく、神界から人間界への一定のはたらきを、どうやら「神」という名前で読んだのではないかと読むことができます。

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、使われている漢字をみれば、天空のど真ん中の主、というお名前です。

天空というのは、地上会を含む全ての空間ということで、その空間の中心点ということになります。
中心というのは、形のないものです。
大きさも、形もありません。
ですから、中心というのは、極大でもあり、極小でもあります。
四角なのか三角なのか、形もさだかでない。
大きさもカタチもない世界というのは、私達の住む三次元の世界では測りかねる世界です。

三次元とか四次元とかいう、次元すら定かでない。
ということは、次元さえも超越した存在が、すべての中心であって、それが天之御中主神ということになります。

このことが、そのお名前に使われている漢字から読み取れるわけですが、日本における神様は、先に漢字名があったわけではなくて、大和言葉でのお名前があり、そのお名前の意味にふさわしい漢字を用いて、後から漢字表記されたものです。

つまり、古事記以前に、上のような思索が、日本にあったということになります。これはすごいことです。

次の神様が高御産巣日神です。
これはもう、高いところでの産巣(うぶす)ですから、明らかに高次元の神様とわかります。

古代において、私達の祖先に「次元」という概念があったかどうかはわかりません。

ただ、人知を超える神という存在があるのなら、その神を生んだのは誰なのか、そしてその生んだ神様は、どのようにして成られたのかという考察が何千年もかけて積み重ねられ、その内容について、矛盾点が削ぎ落とされていって、誰もが納得できる、合理的なものに昇華していったであろうことは、容易に伺えることです。

このことは、縄文時代が、毛皮を着て石斧を手にした原始的な時代や、知恵遅れの猿の時代なのだと決めつけてしまっては、まったくわからなくなります。

けれど現実に、縄文時代の遺跡からは、漆塗りの生活用品や、輝く装身具、美術的にはるかに発達した土器や土偶などが数多く出土しているのです。

そして日本は、そうした文化が、失われずに継承されてきた稀有な国です。

たとえば下の写真の「火焔土器」は、実に美しい縄文時代の調度品です。
素晴らしい出来栄えですが、これはなぜか国宝ではありません。
どうしてでしょうか。

答えは簡単です。
実は火焔土器は、東日本だけで200ヶ所以上の遺跡で出土しているのです。
つまり、それだけ「一般的なもの」であったのです。
そしてこのことは、縄文時代の日本に、それだけ高度に発達した文化があったことを示します。

火焔土器

私たちは一般に、
1 猿人(約600万年前〜130万年前)
2 原人(約150万年前〜20万年前)
3 旧人類(約20万年前〜約2万年前)
4 新人類(約4万年前〜現代)
というように学校で学びます。

現生人類は、4の新人類であって、約4万年前に誕生したのだという、これは学説です。

ところが日本では、たとえば島根県出雲市の砂原遺跡で発掘された石器36点は、約11万~12万年前のものです。

出雲といえば、大国主神の出雲王朝があったところとされていますけれど、上の年代区分に従えば、それは3の旧人類の痕跡ということになります。

これは不思議な事です。
なぜなら現代人は、4万年前の新人類の子孫であるはずだからです。

いったいどういうことなのかと思って調べてみたら、なんのことはない、3と4の区分は、西洋における白人種の区分にすぎないのです。

要するに西洋では、四万年前にあらわれた「新人類」と呼ばれる好戦的な種族が、その前にいた旧人類を皆殺しにして滅ぼしてしまったということなのです。

歴史は繰り返します。
南アメリカのアルゼンチンは、白人国です。
なぜかといえば、そこではスペイン人によって、原住民が皆殺しにされたからです。

残ったのは、白人だけだったから、アルゼンチンは白人国になりました。

ペルーなどにはモンゴロイドがいますが、全て白人との混血で、モンゴロイドの純血種はいません。

要するに男たちは皆殺しにされ、女たちは強姦されて、混血児を生んだのです。つまり、近世の歴史時代になってからも、こうした派手な殺戮や強姦が行われたのです。

ユダヤ人といえば、多くの人が、ヒゲが濃くて堀の深い白人顔を思い浮かべます。

けれど2000年前にユダヤ国を築いた人たちは、モンゴロイド系の人たちであったといわれています。

つまり国が滅ぼされたあと、混血していまの顔立ちに変わっていったのです。

ですから、一口にユダヤ人といっても、北方系の顔立ちもあれば、ドイツ系の顔立ち、フランス系の顔立ちなど、様々です。黒人さんもいます。
では、ユダヤ人かそうでないかは、どこで見分けるのかといえば、これは「ユダヤ教の信者であるかどうか」です。

ですからユダヤ教を信仰している間はユダヤ人です。
けれど、ユダヤ教をやめたら、別な人種ということになるというのが基本的考え方なのだそうです。

要するに、虐殺と強姦の歴史によって、旧人類が新人類に滅ぼされ、西洋は、白人ゾーンになりました。

では、日本はどうかといえば、そのようなことが起こらなかった。
だから日本人のDNAは、世界で一番、ネアンデルタール系、つまり旧人類系の遺伝子を持っているのだそうです。

つまり日本人は、20万年前に生まれた旧人類の末裔なのです。

そうなると、日本人の歴史は、約20万年前まで遡ることなります。
そうであれば、日本で12万年前の石器が発掘されたとしても、何の不思議もないということになります。

そして繰り返しになりますが、日本は、支那や西洋のように、戦乱や民族の大移動によって、住む人種が入れ替わることがないまま、歴史が刻まれた国です。

その証拠に、縄文時代の遺跡は全国に5万ヶ所以上ありますが、いまだに「対人用の兵器」が見つかっていません。

つまり人が人を殺すことのない文化が、縄文時代の約1万7千年の間、ずっと営まれてきたのです。

もちろんこのことについて、日本列島に住む縄文人の人口が全土で約23〜25万人程度であり、過疎の状態にあったから殺し合いの必要がなかったのだと説明する人もいます。

しかし、3人集まれば派閥ができ、従業員数10名程度の小さな支店の中でさえ、支店長派と、旧支店長派で対立が起きたり、抗争があったりするのが人の世です。

半島系の方など、二人しかいなくても、どっちが上かで喧嘩が始まります。

要するに対立と闘争と争いを行うという文化は、人口とは関係ないことです。

人口が少なくても、対立と抗争の文化を持つ人達は、泥棒もすれば殺し合いをするけれど、どんなに人口が多くても、和をもって貴しとする文化を持つ人たちは、殺し合いもしないし泥棒もしないのです。

このことは、それなりの人口のあった日本の江戸時代の治安の良さが証明しています。

また、学会では認められていないようですが、岐阜県下呂市金山町の岩屋ダムの近くにある金山巨石群では、高度な天体観測が行われ、太陽暦が観測されていたという研究成果があります。

これはおよそ5千年前の遺跡ですから、縄文中期のものです。

仮に日本人が旧人類から、そのまま発達した民族であるとすると、その歴史ははるか20万年前まで遡るわけで、その膨大な時の経過の中で、ひとつの文化が育まれ、長い時間をかけて成立していったのが日本文化と考えるならば、当然、神々についての考察も、それだけ深い考察があってしかるべきだし、むしろそのように考えないほうが、おかしいといえると思うのです。

造化三神が持つ意味が、神学的にどのような意味であるのかは、私にはわかりません。

私にできることは、どこまでも「古事記は漢字を使ってこのように書いている」ということだけです。

漢字は、いまの私たちは、最初から学校で音読みと訓読みが固定されたものとしてある、という前提で教わります。

けれどもともと漢字は、まったく異なる言語を話す人たちが、漢字の形が持つ意味をもって意思疎通を図る道具として発達したものです。
ですからいまでも、同じ漢字であっても、北京語と広東語では、発音が異なります。

声に出して読むときには、まったく異なる読み方をしていても、使われる意味は同じ、というのが漢字です。

古事記が書かれた時代というのは、万葉集が編纂されたのと同じ柿本人麻呂の時代です。

編纂したのは、橘諸兄であるとか、大伴家持であるとか諸説ありますが、万葉集の原型ともいうべき巻一の前半部分は、人麻呂や持統天皇が関与したといわれています。

そして万葉仮名と呼ばれる万葉集の表記は、漢字の音だけを用いた形式となっています。

その巻一の成立は7世紀の終わり頃、古事記の成立が8世紀のはじめ頃です。
つまり、漢字が、
(1) 漢字の意味を用いて大和言葉の意味を記述する
(2) 漢字の音だけを用いて大和言葉そのものを記述する
という、二つの使われ方がされた時代です。

そして古事記は、(2)の場合は、都度、注釈をしたということが、その序文に書いてあります。

つまり(2)でないものは、漢字の持つ意味を解読することで、何が書かれているのかがわかる、ということになるわけです。

そして、考えてみれば、人が死んだら戒名が付けられますけれど、それは死んだ後、つまり仏さんになってからのお名前です。
そして戒名というのは、その人の生前の功績などに基いて付けられます。
飛鳥から奈良平安の時代の人々は、死後に「諡名(おくりな)」が付けられました。

たとえば持統天皇なら、生前のお名前は「鵜野讚良(うののさら)」です。

「讚良」を「ささら」と読む先生、「さらら」と読む先生がおいでになりますが、どうみても「サラ」です。

小公女セーラのようなお名前が、古代の日本に皇女のお名前としてあったというのは、実にロマンチックです。

持統天皇は崩御されたあと、モガリと呼ばれる期間を経て火葬されました。
そのときのお名前が、
「大倭根子天之広野日女尊」(おほやまとねこのあめのひろのひめのみこと)」です。

その後、代々の天皇とともに贈られた諡名(しごう)が
「高天原広野姫天皇(たかあまのはらのひろののひめのすめらみこと)」です。

持統天皇というお名前は、後世の奈良時代に淡海三船(おうみのみふね)という人が考えた漢風諡号(かんぷうしごう)です。

要するに和風、漢風、いくつものお名前があるわけですが、それらお名前には、すべて意味があります。

「大倭根子天之広野日女尊」も「高天原広野姫天皇」も、どちらも豊葦原の瑞穂の広野の国である日本を、神々のおわす高天原のような立派な国に育てあげてくださった天皇を意味します。

持統天皇という漢風諡号は、もともと「継体持統」から取られた言葉で、父である天智天皇、夫である天武天皇の、我が国を唐の国に負けない立派な統一国家にするという理想をついに実現された偉大な業績を持つ天皇という意味です。

要するに、名前というのは、意味がある。

というこは、まして神様のお名前ともなれば、そこに意味があるのは、あたりまえのことということができます。

そして大昔の日本人なら、大和言葉でアメノミナカヌシの神と言われたら、それで意味がわかったのであろうと思います。

ところが言葉というものは、時代とともに変化します。
そこで、変化しないものとして、成り立ちと使われ方が特定されている漢字によって、その意味が失われないように工夫して書かれたのが、古事記ということになります。

ねずさん

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