「国を失うということ」

画像の説明 満州の通化市で実際に起こった事件を取り上げてみたいと思います。

国家がなくなったとき、その民族の身に何が降り掛かるのか。
そのことを通化市に実際に起こった事件を通じて考えてみたいと思うのです。

終戦間近い昭和20年8月9日、満州の北側にある牡丹江にソ連軍が攻め込んできたときのソ連軍の兵力は、航空部隊や戦車部隊を含めて五十万もの大軍でした。

メレンコフ元帥が直接率いたこのソ連軍は、ソ連軍の主力部隊ともいうべき陣容で、歩兵四師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲三千五百門、ロケット砲四百三十門、戦車約一千両、他に空挺部隊まで保有していました。

つまり攻め込んできたソ連軍には、本気で満州を侵略し、奪い取るという並々ならぬ決意があったし、またそのために必要な最強軍団を、最強の陣容で送り込んできたわけです。

では、これを迎え撃つことになった日本側の兵力はどうだったのでしょうか。

満州にいた日本陸軍最強と謳われた関東軍は、この時期、兵力のほとんどを南方戦線に送り出しており、牡丹江のあたりにいたのは、わずか3,600名の陸軍予備士官学校の候補生たちだけでした。

予備士官学校というのは、士官になるための訓練校です。
あくまで訓練校ですから実弾も乏しい。それでも彼らは圧倒的兵力のソ連軍に立ち向かいました。

ソ連軍の迎撃のために前線に向かう途中、彼らはトラックの荷台に詰めれるだけ詰め込まれた満州北部の在留邦人の避難民たちと、何度もすれ違っています。荷台に乗っているのは女子供ばかりです。

彼女たちは、トラックの荷台の上から、
「お願いしま~す」「頑張ってくださ~い」と、悲痛な声で叫びました。

そして祈るようなまなざしを向けてきました。

目からウロコの日本の歴史

(絶対に彼女たちを無事に逃がさなければならない!)
士官学校の生徒たちは、そう固く決意して彼女たちを見送りました。

けれど、士官候補生たちには、戦うための銃がほとんどありません。

いくら軍服を着ていても、銃は訓練用に3人にひとりの支給しかないし、そもそも小火器ではソ連製の鋼鉄の戦車の前で何の役にも立ちません。

それでも彼らはソ連軍に立ち向かいました。
彼らはどうやって戦おうとしていたのでしょうか。

答えはダイナマイトです。

当時の満州はまさに建国のまっただ中にありました。
土地を改良し、国土を整備するための民生用のダイナマイトだけは豊富にありました。

そこで彼らは、小学生のランドセルくらいのサイズの雑脳袋(ざつのうぶくろ)に、ダイナマイトを詰め、袋から少しだけ導火線を出し、引火のためのマッチを各自三本だけ持ったのです。
そして導火線に引火して、やってくるソ連軍の戦車の下に飛び込みました。

飛び出した予備士官候補生は、爆発音とともに、胴体から離れた首が、空高く舞い上がったそうです。

それが地上に落ちていく。同僚たちには、その生首が、まるでスローモーションのように見えたそうです。

こうして男たちが必死に戦う中、では、逃げ落ちた女性たちはどのようになったのでしょうか。

北満州から向かった先は、満州の通化市でした。

ここはいまは、中共の吉林省になっているところです。ソ連が侵攻し、満州国が崩壊したとき、その通化市は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれました。

満州北部から戦災を逃れて避難した邦人達は、日本に帰国するため、いったんここに集まりました。終戦時、ここには一万七千人の邦人がいました。

北満から通化市までは距離があります。
最後までトラックの荷台に乗ってこれたわけではなく、トラックのガソリンが尽きると、そのあとは徒歩になりました。

その避難民となった日本人の子女たちに、地元にいた支那人、朝鮮人たちは容赦なく襲いかかりました。そして途中で多くの女性や子供たちの命が奪われました。途中で自殺する者もたくさんいました。

ようやく通化市にたどり着いたとき、彼女たちは持ち出した手回り品をすべて奪われていました。

夏とはいえ、満州は厳しい気候の土地です。
そこに麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けた半裸の女性や子供たちが、ようやく一定の治安が保たれた通化市にたどり着いていたのです。

その通化市にソ連軍がやってきたのが、昭和二十年八月二十四日です。

将校20人、兵士200人でした。彼らは市内の竜泉ホテルに司令部を設置しました。

将校たちといえば、立派な人を想像するかもしれません。
ところがこの連中は最悪でした。

日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると、日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるって殺害したのです。

武装解除されたとはいえ、通化市にはごく少数の日本軍憲兵隊がいました。

原憲兵准尉は、ソ連兵が白昼の往来の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付けました。

原憲兵准尉は女性を救おうとソ連兵を制止しました。

しかし銃を持っていず体の小さな日本人憲兵など、武装したソ連兵たちは、ただ笑い者にするだけです。

日本の法も、すでにこの世から消えてなくなった満州国の法も、人道も、彼らには通用しません。

彼らは、原准尉の制止を完全に無視して、強姦を続けました。

准尉は、やむなく軍刀を抜きました。
そしてその強姦兵たちを一刀のもとに斬り捨てたのです。
けれどその場で原准尉は、別のソ連兵に射殺されました。

ちなみに、この人目のある白昼の往来の路上で女性を集団で強姦するという習慣は、日本の歴史にはまったく出てきません。

日本人にはまったく考えられない行動ですが、大陸や半島の人たちの場合、相手が抵抗できないとわかるや、性欲をむき出しにして白昼の往来で強姦に及ぶというケースが多々記録されています。

昨日も22歳の若手俳優が群馬県前橋市内のビジネスホテルの客室で、歯ブラシを部屋に届けにきた40代の従業員女性を強姦したというニュースが流れましたが、犯人は「女性を見て欲求が抑えられなかった」などと話しているそうです。

日本人男性は、欲求が起きても、これを押さえることができますが、大陸の半島系の血筋をひく人たちは、熱くなると火病を起こして、わけがわからなくなる(見境がなくなる)傾向があるのだそうです。

昨今、外国人の下級労働者を大量に日本に招こうという動きがあるそうですが、そうした人たちには、歴史を学んでいただきたいものだと思います。

さて、この白昼の惨劇のあと、日本人は、憲兵といわず民間人といわず、日本刀を全部没収されました。
完全に丸腰となって身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を性の道具として供出せよと命じています。

ご存知の通り、朝鮮半島における従軍慰安婦などというのは、まったくのデタラメな捏造でしかありません。

朝鮮人の女衒たちが、同国人の女性をさらって独身男性が大量にいる日本軍兵舎横で売春宿を開いて金儲けしていただけの話です。

売春が合法だった時代です。ですから日本兵はちゃんとお金を払って商売女性たちを買っていました。

当時、日本兵の給料が将校クラスで二十五円、兵隊クラスが十五円でしたが、その時代に朝鮮人売春婦たちは、二年もすると三~五万円の貯金ができたといいます。

当時のお金で三~五万円というのは、いまの貨幣価値にしたら3~5億円の大金です。ですから一家の女の子が日本人相手の売春婦になるというと、当時の朝鮮人は、一族をあげて大喜びしたといいます。

しかも日本は、彼女たちによって性病がまん延するのを防ぐために、公費を使って彼女たちの健康診断までしていました。
ついでにいうと当時の荒稼ぎの成功体験から、その国では、いまでも売春がさかんです。

通化市で拠出を要求された日本人女性たちは、ですから当然、給料などありません。文字通りのセックス・スレイブでした。

ソ連の通化市への進駐軍は、日本人から武器を奪い取って抵抗力を削いだだけでなく、女性の供出を求め、さらに日本人が外部の情報を得ることがないように、ラジオまで全部没収しています。

支那人は、こうしたソ連兵の下請けとなりました。

数の上では圧倒的に支那人が多いのです。

けれど、気に入らなければ平気で支那人たちを皆殺しにする迫力を持ったソ連兵たちの前で、支那人たちは、その無謀な振る舞いに抗議するどころか、むしろ積極的に媚を売り、日本兵狩りと称して、日本人の民間人男性600人を捕まえて吉林方面へと連行していきました。

つまり通化市を、日本人の女子供と老人ばかりにしたのです。

ソ連軍が撤退すると、通化の支配を委譲された支那国民党軍は、通化市の市役所職員を全員連行し、全員殺害しました。

こうして彼らは通化市の行政機能を奪いました。
次に彼らは「清算運動」と称して、旧満州人たちの民家に片端から強制侵入し、金品を掠奪しました。

昭和21年9月22日、支那共産党軍が、国民党軍に攻撃を仕掛けました。そして通化市から国民党軍を追い払いました。

10月23日、支那共産党軍の一個師団が新たに通化市に進駐してきました。

11月2日には、支那共産党軍の劉東元(りゅうとうげん)司令がやってきました。

そして同日付けで、支那共産党軍は日本人遺留民に対して、収容能力がたった五千名しかない旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命じました。

移動した日本人遺留民に対し、支那共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部」の設立を命じました。これを略称で「日解連」と呼びます。

日解連は、日本人に対する支那共産党軍の命令下達や、日本人への共産主義教育を担当する支那共産党の下請け的な共産党組織です。

およそ民族支配をしようとする者たちは、必ず民族の分断工作をします。

欧米列強が東南アジア諸国を支配するに際して、最貧層だった少数民族の華僑を利用したり、日本を占領したGHQが、在日朝鮮人を利用して武器を与え朝鮮進駐軍を名乗らせたのも、そうした分断工作のうちです。

満洲の通化でも、日本人遺留民の分断工作のために、支那の共産主義を受け入れる者にある種の特権を与えることで、同民族内での意図的な分断工作が行われました。
それが日解連だったわけです。

日解連は、日本人のスパイとなり、支那共産兵に、どこぞの日本人宅には、これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を、支那共産党軍に与えました。

日解連は、支那共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとしたのです。

これに対し、日本人遺留民たちは、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けました。

日本人は国や行政を信頼する気持ちが強いからです。
すると支那共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求しました。

11月17日、支那共産党に応じないでいた元満鉄総裁の大村卓一さんが、満鉄総裁であったことを罪状として逮捕、投獄されました。

この間も、支那共産党の兵士たちは、武器捜索を名目に、日本人の家屋に押し入っては、略奪・暴行・強姦を、連日続けています。

12月23日、日解連が主催する「通化日本人遺留民大会」が、通化劇場で開催されました。

劇場には、支那共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっていました。
大会には、劉東元司令を始めとする支那共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいしました。

そこに日本人遺留民の代表者たち三千人が出席しました。

議長は、日解連幹部で元満州国官吏の井手俊太郎が務めました。

彼は、「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と、冒頭に発言しました。

日解連幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われました。

「我々が生きていられるのは支那共産党軍のお陰です」などと、連日乱暴狼藉を働く支那共産党に媚びた発言が次々となされました。

ところが日本人遺留民たちの発言の番になると、日本人遺留民たちは、堂々と日解連を非難しました。

そしてある者は明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げました。

山口嘉一郎という老人が立ち上がりました。そして、
「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。

会場に、満座の拍手が沸き起こりました。

議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。
会場のほぼ全員が起立しました。
そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われたのです。

万歳のあと、山口老人は、
「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育されてきたので、いきなり百八十度変えた生き方にはなれません。ですから徐々に教育をお願いしたい」と述べました。
きわめて常識的な発言です。

大会は終わりました。
しかしその翌日、以降、大会で発言した者は、全員、支那共産党によって連行され、殺害されたのです。

大会から一週間経過しました。
年が明け、昭和21年の元旦となりました。
その日、なぜか支那共産党の工作員であった内海薫が、殺害されました。

犯人はわかりません。

1月10日、支那共産党は、日解連幹部の高級官吏や日本人遺留民の指導者ら百四十名を、内海薫を殺害した容疑で連行しました。

そして全員を抑留した上で、日解連も強制的に解散させてしまったのです。

1月21日、支那共産党は日本人四名を、市中引き回しの上、渾江(こんこう)の河原で公開処刑しました。

日本人たちが見ている前で、彼らは遺体を何度も撃ち、銃剣で突き刺しました。

銃でハチの巣にしたうえで、切り刻んだのです。
日本人遺留民たちの怒りは、徐々に高まりました。

そして起こったのが、昭和21年2月3日の「通化(つうか)事件」です。

通化事件の情況については、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末、やっとの思いでどうにか無事祖国にたどり着くことができた外科医婦人中郷三己枝さん(当時27歳)の手記があります。
まるごとご紹介します。

***
支那八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった。

その中心人物は藤田大佐で、かつて戦車隊長として雷名をとどろかせた猛将として有名だった。昨年六月、通化にやってきた今利(いまり)中将ひきいる第百二十五師団の参謀長だった。

この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、二月三日の未明を期して一斉に蜂起した。

それは暴動のようなものではなく、それぞれ攻撃目標を定めた組織的な反乱だった。

しかし、たのみの国民党軍は呼応しなかったし、同時に立ち上がる予定の航空隊は、八路軍(支那共産党軍)の先制攻撃を受けて参加できず、それ以上悪いことに、反乱軍の動きは、八路軍のスパイによって探知されていたため、奇襲攻撃はことごとく失敗に終わった。

部分的に要所を占領した部隊もあったが、それも数時間で壊滅してしまい、敵弾にたおれ、傷ついて捕虜になった者も多く、壮絶な戦死を遂げた者もすくなくなかった。

この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。
この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。

これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。

通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと命令された。
市内は恐怖のるつぼと化した。

八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。

この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。

とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、
 わが軍は多大の犠牲を受けた。
 諸君は同胞として、
 その罪を免れることはできない。
 わが軍は報復として、
 ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。
みるみるうちに、ばたばたと倒れた。
重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。

死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。
監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま五日間もの間立ったままにされた。
苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。

発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。

しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。

そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。
そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。

たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。
やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。

するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。

これが毎日のように行われた。
なんという地獄絵図だろうか。

一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。

手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。

帰ってからも発熱のために苦しむ者。
凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。

抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。
殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされた。

また、数百人が凍傷に罹り不具者となった。

拘束から五日後、部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが、その場で撲殺された。

撲殺を免れたものの多くは、骨折した手足をぶらぶらさせていた。

その後、支那共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われた。

女性にも多数の処刑がされた。渾江川の上には、服をはぎ取られた女性の裸の遺体が転がった。

男たちが拘束されている間、支那共産党軍の兵士たちは、日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性の中には自殺するものもあった。

事件後、3月10日になると、市内の百貨店で支那共産党軍主催の二・三事件の展示会が開かれた。

戦利品の中央に、蜂起直前に拘束された孫耕暁通化国民党書記長と、二月五日に拘束された藤田実彦大佐が見せしめとして三日間に渡り立たされた。

3月15日に藤田大佐が獄死すると、遺体は市内の広場で三週間さらされた。

渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんだ。

***

日本は良くない国だ、という人たちがいます。
支那と仲良くすることが良いことだと言う人たちがいます。
支那、朝鮮、日本を東アジア共同体として、ひとつの国にまとめあげようという人たちもおいでになります。

しかし実際にひとつになったときの実例が、通化事件にあります。

そんなことは何十年も昔の話だろう、という人もおいでになるかもしれません。

けれど、天安門、ウイグル弾圧、チベット弾圧等々。いまも同様の弾圧や粛正は続いています。

この稿では満州国崩壊時の通化市の状況をご紹介しましたが、その満州の各大都市には、決まってロシア人街がありました。
いまでもその様子は大連市などで見ることができますが、他では見ることができません。

戦後、ソ連がシベリア抑留の元日本兵を使って、それらの建物を取り壊し、資材を旧満州からモスクワなどの東欧に運び込んで、そこに新たな街を作ってしまったからです。

その満州国がまだあった頃のことです。

そのロシア人街には、多くの白系ロシア人が住んでいました。
白系ロシア人とは何者かというと、実は、旧ロシアの貴族たちだった人たちです。

ロシア革命後、国を追われたその貴族たちは、シベリアをさまよい、多くの人がそこで命を落としています。

その白系ロシア人たちのために、日本は満州で彼らの様式の住居を築き、そこをロシア人街として、彼らが住む町にしていたのです。

その白系ロシア人の子女の多くは、満鉄などの大企業に就職して働いていいました。

けれど、戦争末期になってソ連軍が攻めて来たとき、彼らが住んでいた満州国は崩壊してしまいました。

日本人もたくさん殺されました。
ひどい目にも遭いました。けれど、満州生まれという人は、いまの日本のお年寄りにたくさんおいでになります。

日本という祖国があったから、帰って来れたのです。
そしていまの生活を得ているのです。

けれど、白系ロシア人たちは、その後どうなったのでしょうか。

いま満州国のあったあたりは、支那の東北省と呼ばれていますが、そこにロシア人街も、白系ロシア人たちもいません。
彼らはどこへ行ってしまったのでしょうか。

このことは、帰る国があるということ、祖国があるということ、そのことがどれだけ大切なことかを、わたしたちに教えてくれます。

平和を愛すること。家庭を大切にすること。女性や子供、老人などが安全に安心して暮らせる社会を築くこと。それらは、人ならば誰しもが思うことです。

普通に思う心です。
そしてそういう状態は、わたしたちの国があって、はじめて成り立つものです。

「日本なんて、なくなっちまえばいいんだ」という人がいます。

けれど、国を失うということが、どれだけみじめでたいへんなことなのか。通化事件は私たちにはっきりと教えてくれているのではないでしょうか。

私たち日本人が、平和を愛し、家族を愛し、平穏な生活を求めるならば、絶対に失ってはならないのが、日本という国です。
日本こそが、わたしたち日本人の協同体です。

かつて、その日本を守るために、必死に戦ってくれた人たちがいました。

そうした人たちに、感謝の心を持たなくて、いったいどこが日本人といえるのでしょうか。

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