「売国奴」

画像の説明 2014年11月21日、ソウルで「独島(竹島)問題は日本でどのように議論されているのか」と題し、国立ソウル大学日本研究所主催の国際学術会議が開かれた。

会議の内容は2015年6月、同名タイトルの本として刊行され、それぞれの発言を確認することができるが、残念なことに、日本側の竹島研究の現状を正確に伝えた人士はいなかった。

理由は簡単。韓国側が「竹島は日本領だ」と主張する人物など、最初から招かないからだ。

韓国の国際会議に呼ばれるのは同調者だけ

韓国側が主催する竹島問題や日本海呼称問題、慰安婦問題などに関する国際会議は、いずれも政治的宣伝の色合いが強い。そのためお呼びがかかるのは、これまで韓国側の主張に同調したか、同調することが期待されている人々だけである。

今回の会議に、日本から参加したのは、和田春樹・東京大学名誉教授▽池内敏・名古屋大学教授▽孫崎享・城西国際大学大学院講師▽福原裕二・島根県立大学教授▽東郷和彦・京都産業大学教授▽岩下明裕・北海道大学教授-の6名だった。

常連の和田氏は、2012年10月に平凡社から出版した新書『領土問題をどう解決するか』の中で次のように述べている。

「竹島は、韓国併合の前触れとして」…韓国から「良心的」とされる和田氏

「1905年1月の日本の竹島領有は、はじまっていた朝鮮侵略の中で、5年後の韓国併合の前触れとしておこなわれたという点にあります。日本の側からこの主張を論駁(ろんばく)することは不可能です」「韓国が国際司法裁判所への提訴に同意しないのはこのためです」

「朝鮮植民地支配を反省する日本としては、竹島が『日本固有の領土』であり、韓国の支配は『不法占拠』であると主張するのは、没道義的であるといわねばなりません。日本は、竹島につづいて朝鮮民族の大事な国土、朝鮮半島を不法占拠して、自らの領土にしてしまい、35年後に返さざるをえなくなったのです」「韓国が実効支配する竹島=独島に対して主権主張するのは、断念する以外に道はありません」

韓国から「良心的」とされる和田氏

和田氏が、韓国側から「良心的」とされる理由がここにある。この論理は、1954年10月28日、竹島を武力占拠した韓国政府に対し、日本政府が竹島問題を国際司法裁判所に提訴するよう提案した際に、それを拒否した時に示した「歴史認識」と重複する。

歴史的事実として竹島が韓国領であった事実はない

だが歴史認識は、歴史の「事実」ではない。この韓国側の歴史認識は、韓国政府が1952年1月18日に「李承晩ライン」を宣言し、竹島を韓国領として以後、その正当性を示すために創り上げた論理だ。

和田氏は、それを無批判に採り入れ、竹島の日本領編入を「5年後の韓国併合の前触れ」としたのである。

歴史的事実として竹島が韓国領であった事実はない。1910年の韓国併合と竹島の日本領編入は、別個の問題なのである。

太政官指令の「竹島」「外一島」は何を指すか

韓国側の主張を参考に同書を著した和田氏は、竹島問題の実際が理解できていないのであろう。

1877年に明治政府の太政官(当時の日本の最高行政機関)が発した『太政官指令』に対する評価にしてもそうだ。

そこには「竹島外一島(ほかいっとう)(竹島と他の一つの島)本邦関係これなし」とした文言がある。

韓国側はこの「竹島」が現在の欝陵(うつりょう)島、「外一島」が「松島」(江戸時代の竹島の呼称)、つまり現在の竹島と理解し、太政官指令の文言は明治政府が欝陵島と現在の竹島を日本領から除外していた証拠で、日本が日露戦争の最中に「外一島」を日本領としたのは侵略行為だ-としたのである。

「松島」は、現在の竹島ではなかった

だがそのためには、太政官指令で「本邦関係これなし」とされた外一島の「松島」が、今日の竹島であったのかどうか論証する必要がある。

当時の海図や地図では、「竹島」と「松島」以外にリャンクール島も描かれていた。

今日では、そのリャンクール島こそが1905年1月28日、閣議決定で日本領となった竹島であることが分かっている。つまり、太政官指令で外一島とされた「松島」は、現在の竹島ではなかったのである。

太政官指令以後の歴史無視する和田氏

そこで、拙著『竹島は日韓どちらのものか』では、「竹島外一島」の外一島が現在の竹島なのかどうかは「判然としない」とし、島根県の県政広報誌『フォトしまね』(2006年)では、「竹島のようである」として、これまで断定を避けていたのである。

こうした点にも和田氏は、「下條正男氏は、『「竹島外一島」の一島が松島(現在の竹島)を指すのかそうでないのか判然としない』と、この太政官決定の意義を無視しようとしています」と批判的に記述している。

だが、太政官指令以後の歴史を見れば、和田氏の言い分がおかしいことが分かる。

和田氏の解決策は「盗人に追い銭」?

「太政官指令」の4年後、外務省の委嘱を受けた北澤正誠は『竹島考証』の中で、太政官指令で外一島とされた「松島」が欝陵島で、「竹島」は欝陵島傍近の竹嶼(チュクソ)という島であるとした。

和田氏の解決策は「盗人に追い銭」?

早くも1881年の時点で、外一島の「松島」は欝陵島のこととされ、改めて「我版図外ノ地」とされていたのである。

1877年の『太政官指令』を根拠に、「松島」を今日の竹島とするのは、和田氏の言葉を借りれば「愚かの極み」なのである。

その和田氏は「領土問題解決の道」として、「日韓両国民の利害の調和をはかるために、竹島=独島周辺の海域の漁業に島根県の漁民が参加する権利を保障することと、独島が韓国領であるとしても、この岩石島を経済水域の基点にしないことが合意されなければなりません」と提案した。

これでは、盗人に追い銭というほかない。

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