2018年11月1日よりタイトルをWCA(世界の時事)に変更しました。
「日本」
日本では、初代・天之御中主大神にはじまる17代の創世の神々が、万物創世の神々です。
万物の中には、自然界の全てがはいりますし、もちろんそこには人間も含まれます。
すべては神々から賜ったものであり、神々のものです。
私たちは、いろいろな物を作ったり使ったりします。
それらはすべて、もともとは神々が創造なさったものを、加工したり変形したりしながら、すこしでも便利になるように使わせていただいているものです。
同様に、人間もみな、神々の創造物です。
神々が創造されたものですから、人間そのものに上下はありません。あるのは役割分担で、ひとりひとりの人間は、すべて神々のたいせつなたからものです。
天皇は、その神々の直系のご子孫であり、神官のなかの大神官です。
ですから我が国では、神々との最大の窓口が天皇です。神々との窓口ですから、そのお言葉は神々のお言葉、ご決断は神々のご決断です。ですから天皇は我が国の最高の権威です。そして民衆は天皇の大御宝となります。
これが日本の古代から続く基本となるカタチです。このことを、古い大和言葉でシラスといいます。
シラスは、漢字一文字で「知」と書きます。
「知」という漢字は、「矢」と「口」から成り立ちます。
ここでいう口は、人間の口のことではありません。神器としての盃です。
矢と盃を神棚にあげ、そこに神様にご降臨していただくのです。なんのためにご降臨いただくのかといえば、神々に感謝するためです。
「知」という漢字は、昨今ではただ「知識を得る」といった意味だけに矮小化されて使われています。
もともとは、神々にご降臨いただき、神々に祈りを捧げ、神々と通じることを意味しました。つまり神々の知恵を得ることが「知」の意味です。
ですから「知=シラス」は、神々とつながり、神々の知恵を得て、神々のご意向に沿うことを意味します。神々のご意向に従うことを、古い大和言葉で「神々の隨(まにまに)」といいます。
菅原道真公が、
このたびは 幣も取りあへず 手向(たむけ)山紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに と読んでいますが、この「まにまに」が、「神の隨」です。
人は神々のもとに平等とはいっても、人の世には、様々な試練があります。
地震や大水、大火など、さまざまな災害もあります。これもまた天のご意思です。その試練を乗り越えることで、人は魂を鍛えていきます。大きな試練は、人ひとりではどうにもできません。だからみんなの力でこれを乗り越えます。
そのために必要なのものが社会における役割分担です。
平時においても、非常時においても、その役割分担によって、人の世はより住みやすくなります。
すべては神々の御心のまにまにあり、人の世で起こるさまざまな事柄をおさめる。そこに必要なものが政治です。
これを古い言葉では「政治(まつりごとのおさめ)」といいます。
神々の窓口となられている天皇の権威のもとに、人々が住みやすくするために行うのが政治です。
ですから政治は、天皇という最高権威のもとにある大御宝である民衆が、豊かに安心して安全に暮らすことができるようになるために行われます。
ですから政治に携わる政治権力者は、天皇によって親任され、天皇の大御宝である民衆のために働きます。
これがシラス国のカタチです。
このことは裏返しに言えば、民衆が天皇という神々に連なる存在によって、大御宝という立場を得ているということです。
天皇という存在がなければ、民衆は権力者にとっての道具や餌でしかなく、社会における中心は上下と支配の関係だけになります。
天皇という存在があるから、上下ではなく、等しく大御宝として、すべての民が尊重される世が生まれるのです。
天皇のもとで民衆のために力を揮う者を「臣」といいます。
天皇、臣、民衆の関係が「皇臣民」です。権力者と民衆だけの関係なら、上下関係となります。権力者が利を求めれば、民衆は利を失います。民衆が利を求めれば、臣が利を失います。
ですから両者だけなら、上下関係は対立関係です。
ここに天皇という存在が加わることで、三者は鼎立関係となり、利害を超越した協力関係が生まれるようにしたのが、古代から続く、私たちの国のカタチです。
ですから、権力者や民衆が天皇を軽んずれば、結果としてそれは権力者にとっては一時的な権力の極大化と、人を支配するという喜びをもたらすかもしれませんが、その分、民衆は権力者によって隷属させられ、民間の活力は失われていきます。
すると民が停滞し、貧困化します。
民が貧困化すると、大災害時の復興力が失われます。すると結果として権力者も富を失い、その復元力も失われます。
結果、権力者も大損をします。そして大災害は、権力者にも民衆にも等しく厄災をもたらします。
日本は天然災害の多い国です。
日頃からみんながそれなりに豊かに暮らす、今風にいえば一億総中流化となり、もっとも小さな単位である家族が大家族となっていなければ、災害復興の余力が生まれません。
だから日本は、古い昔から、大家族制だったし、誰もが最低限の健康と豊かさを得ることができる国柄となったのです。
ですから全国民には大昔から、幼い頃から神々に感謝すること、天皇という存在がありがたさを知ることが励行され、子どもたちへはそのための教育が施されてきました。
つまり、すべての人が、人間として扱われる。そういう世の中を築いてきました。これがシラス国のカタチです。
朝鮮半島では、永く、両班が平民階級である白丁を支配し隷属させてきました。
白丁は、人間の形はしていますが、人間として理解されていないし、そのようにも扱われません。一切の私有も認められません。
すべてを両班に奪われても、文句のひとつもいえません。文句を言ったり抵抗すれば、野犬が噛み付いたのと同じで、棒で叩かれ、場合によっては殺されます。
そして死んでも墓のひとつも建ててもらえません。人間ではないからです。
歴史的にみると、白丁というのは、もともとは倭人であったようです。
倭人たちが住むエリアを、濊族が唐と結んで征服し、倭人たちが持っていた富の全てを奪い尽くし、蹂躙しつくしました。
長い間に血がまじり、いまでは倭人としてのDNA自体が滅んでしまっているようですが。
人間は動物たちの支配者ではありません。
自然界の支配者でもありません。
早い話、動物が全部滅んでしまったら、人類は死滅します。
人類も自然界の一部ですし、動物の一部なのです。そしてそれらすべては、神々の創造物です。
そうであれば、人が人をモノとして扱うということは、人の傲慢です。
だからこそ、そうならないように社会の仕組みそのものを築かなければなりません。そうして出来上がった社会システムが、シラス統治です。
わたしたちは、天皇の存在によって、権力者の奴隷とならないでいることができます。
つまり権力からの自由を得ています。
よくハリウッドの映画などで、「俺達は自由だ!」、「自由のために戦おう!」などというフレーズが出てきますが、西欧において民主主義は、ようやく19世紀になって誕生したものです。
日本では、いったいいつの年代かさえもわからない、はるか上古の昔から究極の民主主義が根付き、それが現代まで続いています。
なぜ続いているのかといえば、それが最も望ましい統治の在り方だからです。
早い話、大規模自然災害が起きた時、民衆が白丁のような被収奪者で貧窮のどん底に置かれていたら、災害の復興はできません。生き残った人たちが逃散するだけです。
復興しようとする意欲が生まれるのは、もとの状態が納得できる良い物であったからです。
ならば、日頃から、誰もが納得できる良い統治が行われていなければなりません。自分のことよりも、公を優先する思考と習慣が、安心して育っていなければならないのです。
だからこそ、シラスは、誰もが「知」らなければならないことでもありました。
そして知るためには、知るための教育と教養が必要です。
だから日本では、江戸の昔も、奈良平安の昔も、民衆の識字率はたいへんに高いものでした。万葉集には、民衆の作品が多数紹介されています。民衆に教養があったということです。
最近の日本では、そうしたもとからある日本的統治が極端に歪められて伝えられています。
学校の歴史教科書でも、貴族の食卓と、民衆の食卓の絵が並べられ、あたかも貴族は優雅な食事を楽しみ、民衆はヒエやアワしか食べられなかったような誘導操作が行われています。
ところがその絵をよく見ると、貴族の食事とされているものは、いわゆる宴会料理です。
宴会料理なら、貴族民間を問わず、それなりの用意をしてきたのが日本社会です。
なぜなら、自分よりもみんなを優先する。日頃は貴族だって、地味な料理を食べています。毎日宴会料理ばかりなら、コレステロールが溜まって、若死してしまいます。
おそらく、いまどきのフリーターさんたちの方が、千年前の貴族たちよりも、ずっと栄養状態が良いと思います。
シラスは、神々と繋がることを意味します。
そしてそのための統治が、シラス統治です。
シラス統治は、神々のものである民衆が、豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくための統治手法のことをいうのです。