「原爆」

画像の説明 毎年この時期にアップしなければならないと勝手に思っているのが、この「種類の異なる原爆」です。

広島に原爆が投下された8月6日、
長崎に落された8月9日、
終戦のの8月15日、
これに通州事件(7月29日)を加えた4つの日は、日本人が絶対に忘れてはならない日だと思います。

なかでも広島と長崎への原爆投下は、その残虐性、大量殺戮性、無辜の市民に対する暴力行為のはなはだしさとして、人類史上、最悪の出来事として記憶されるべきものです。

広島だけで20万人の市民がお亡くなりになりました。長崎では14万9000人の市民がお亡くなりになりました。

それも、ただお亡くなりになったというだけでなく、原爆の熱戦を浴びて、その何倍もの多くの人が、苦しみ続けてお亡くなりになりました。

しかもそれが、地震などの天然災害ではなくて、人為によって起こされた人的災害であったということは、本当に残念なことです。

広島と長崎に落された原爆の「種類」がそれぞれ違っていたという事実は、広島や長崎の慰霊祭でも、ほとんど語られることがなかったことです。

8月6日に広島上空に投下された原爆の通称「リトルボーイ」は、「ウラン235型」原爆です。

月9日に長崎に投下された通称「Fat Man」は、「プルトニウム型」原爆です。
そしてこの二つは、まったく種類の異なる原爆です。

違いというのは、プルトニウム型はウラン型とくらべて威力は強いが、数が作れず値段が高くて量産しにくい、ウラン型は、破壊力はプルトニウム型より落ちるけれど、値段が安く量産しやすいが、放射能が強くて取り扱いが難しいという難点があるといった技術的価格的な事柄ではありません。

2つの「種類が違っていた」という事実そのものに、たいへんに大きな意味があるのです。

米国で原爆開発のマンハッタン計画を担当した ロス・アラモス研究所は、広島、長崎への原爆投下のあと、次の公式見解を述べています。
******
「我々は、史上二度の『原爆実験』に成功した」
******

これは実に衝撃的な声明といえます。
「実験に成功した」のです。

二度にわたる原爆が、ただの「実験」だというのです。そして「実験だからこそ」、広島と長崎には、それぞれ「別な種類の原爆が投下」されたのです。

その「実験」は、人の命(いのち)に対して行われたものです。彼らは、民間人への人的被害の発生を承知で、「実験」をしたわけです。

けれどその「実験」によって、広島長崎合わせて約35万人の命が奪われているのです。そのことの重さは、とてもじゃないけれど「実験」のひとことで片付けれる問題ではありません。

ではどうしてアメリカは、わざわざ種類の違う原爆で「実験」したのでしょうか。最近の左巻きの学者さんや評論家さん、あるいは議員さんのなかには、「二つの原爆投下は、軍国主義化し侵略国となった日本を懲らしめるためであった」と、臆面もなく主張する人がいます。

けれど、日本を懲らしめるための正義の雷(いかづち)ということと、「実験」という言葉には、あまりにも大きな落差があります。

35万人の命を奪う「実験」など、人道上あり得ないことだからです。

では、日本への原爆投下の本当の理由はなんだったのでしょうか。これについて歴史学者のバーンスタインが、次のように述べています。

日本への原爆投下は「ソ連を威嚇すること」が根本理由であり、ソ連の影響力が日本、満州、支那、朝鮮に及ぶことを阻止するために、いわばソ連に対する威嚇攻撃として、日本に原爆を投下したのである。

これもよく語られる話で、またバーンスタイン博士はたいへん立派な先生ですが、これも少しおかしな話です。

そのような意図をもって行われた原爆投下なら、「実験」という言葉と矛盾するからです。対ソ威嚇という目的も、結果からみれば失敗しています。

なぜなら米国による広島への原爆投下の3日後には、ソ連は一方的に日ソ不可侵条約を破棄して、対日戦線に参加しているからです。これではソ連への「威嚇」ではなく、ソ連への「刺激」です。

米国トルーマン大統領は、広島への原爆投下のあと、次の公式声明を出しました。

今から16時間前、米国の一航空機は日本陸軍の最重要基地である広島に1個の爆弾を投下した。その爆弾は、TNT火薬2万トン以上の威力を持つものであった。
それは、戦争史上これまでに使用された爆弾の中で最も大型である英国の「グランド・スラム」の爆発力の2000倍を越えるものであった。

これまた不可思議でおかしな声明です。
広島を「日本の陸軍の最重要基地(=an important Japanese Army base)」と言っています。

、原爆被害を受けた広島の市街地は、陸軍基地ではありません。ただの市街地です。そして広島で原爆によって亡くなられたのは、一般市民です。

戦時国際法は、一般市民の大量虐殺を「してはならない」と明確に規定しています。すなわち、原爆投下は明らかな戦時国際法違反行為です。米国だって馬鹿じゃありません。広島が一般人の住むところであることくらい、承知しています。

にも関わらず、広島が「日本の陸軍の最重要基地」と公式に声明しています。これはただの後講釈の自己正当化による強弁に他ならなりません。

終戦後の昭和20年9月に日本に訪れた、米国戦略爆撃調査団が書いた「最終報告書」という資料があります。
トルーマン大統領に提出された公式報告書であり、米国の公式史観のもととなるものです。

たとえ原爆が 投下されなかったとしても、ソ連が参戦しなかったとしても、本土上陸作戦が行われなくても、日本は非常に高い確率で九州上陸作戦の決行予定日である昭和20年11月1日から12月31日までの間に、確実に降伏したであろう。

原爆を投下しなくても「日本は確実に降伏したであろう」と書いてあります。実はここに原爆投下が「実験」として行われた重大な意味があります。

昭和20年6月に沖縄戦が終息しました。この直後に、ブラッドレー米国統合参謀本部議長が提出した報告書には、次の一文があります。この文書は、米国大統領宛に提出されたものです。短文です。
*******
日本は既に事実上敗北しており、降伏を準備している。
*******

この時点で、日本はすでに制海権も制空権も失なってました。
陸軍も事実上、使える武器弾薬が乏しく、すでに戦える状態にありませんでした。

そしてそのことを米国の諜報網は、沖縄戦終結の時点で確実に掴んでいたのです。つまり米国は、「あと少しすれば日本は間違いなく降伏する」と見極めていたのです。

もちろん日本国内には、それでも戦う、という意見はありました。皇国の必勝を信じ、本土決戦となって尚、戦い続けようという意向もありました。

縄戦の頃には、多くの特攻隊員が出撃して米艦隊を沖縄に釘付けにしていました。ですからこの時期には、米艦隊は特攻隊の攻撃を怖れて日本本土に近づくことができませんでした。

さりとて特攻を恐れてフィリピンあたりまで艦隊を後退させれば、米艦隊の後方の南方にいまだ残存する日本軍を活気づかせて反撃のチャンスを与えることになります。

ですから実は沖縄戦当時の米艦隊は沖縄の海で進むことも退くこともできずに、ただ特攻隊の餌食になっていたという側面があります。

こうして米艦隊が沖縄に釘付けにされている間に、当時の日本はジェット戦闘機の開発が完成に近づいていました。

ジェット戦闘機は、昭和25年に始まる朝鮮戦争で初めてソ連製のミグが使用されましたが、これが導入されると、それまで「超空の要塞」として覇王を誇っていた米軍のB29は、ただの無抵抗な空の的(まと)となり、第一線からの引退を余儀なくされることになりました。

高高度を飛ぶB29は、プロペラ型の戦闘機には覇者となっていましたが、B29よりもはるかに高い空から猛スピードで飛来するジェット戦闘機の前では、無抵抗で鈍足な、ただの上空の巨大な的でしかなかったのです。

そしてそのジェット戦闘機を、すでにこの時点の日本はほぼ開発を終えていました。

ジェット戦闘機が就航すれば、日本の空を制していたB29も、米海軍の当時の空母も、ただのマトになります。
つまり米軍は、日本近海における制空権と制海権を同時に失います。

そして原爆をすでに完成させていた日本は、これを米国領土の比較的人的災害の少ないエリアで爆発させ、米国を恐怖に陥れて一気に和平交渉を実現していく。

それが当時の日本軍の描いた絵でしたし、またそのために特攻隊の若者たちは若い命を散らせていました。

ちなみにこの時点で日本が用いるジェット戦闘機の燃料は、なんと松ヤニから精製したガソリンを使うことが予定されていたのだそうです。

まさに日本おそるべしです。

マックス・フォン・シューラー先生によれば「アメリカ人はいまでも日本人を恐れている」そうですが、なるほどディズニー映画の『ベイマックス』でも、日本人の少年(Hiro Hamada)が、愛と高い技術力で強大な敵をやっつけています。

日本人の怖さを一番わかっているのは、実は日本人ではなくて、日本と真正面から戦った米国人であるのかもしれません。

ただ、本土決戦に関する上に述べた絵(作戦)は、実行すればなるほど大東亜戦争を日本の勝利に導いたかもしれないけれど、失敗に終わる可能性もゼロではありません。

失敗すれば、戦場は日本本土です。
この場合、戦争はおおいに長引きます。
しかし戦いが長引いた場合、その結果がどうなったかは、私たち日本人と人種的にDNAの近いベトナムがこれを証明しています。

ベトナム戦争は、15年の長きに及びましたが、結果はベトナムが勝利しました。つまり、日本は戦争に勝ったかもしれないのです。

ただし、この場合、ベトナムにおいては、北と南、軍民合わせて814万人の死者行方不明者が出ています。
ベトナムの人口は約9千万人ですから、戦時中の日本とほぼおなじです。

つまり戦争が本土決戦となって長引けば、私たち日本人は、10人に1人の命が失われたかもしれないのです。

つまり沖縄戦当時の日米の置かれた情況は、
A)8百万人を超える死者を出しても戦い勝利するか
B)戦病傷死者の数を最小限に止めるか
という二者択一の情況になっていたのです。
みなさまなら、A案、B案、どちらを選択されるでしょうか。

昭和天皇の大御心は、B案でした。
だからこそ、日本はポツタム宣言を受け入れ、自主的に戦闘を終結させています。それが8月15日です。

ここで間違えてはいけないのは、8月15日というのは、あくまで戦闘行為を終結させた日であるということです。
だから「終戦記念日」です。

戦争は、その後も続いています。日本は連合国と交戦状態(戦時下)にあったからこそ、日本は占領されたのです。
占領は、戦争行為の一部です。

そして大東亜戦争が条約上で終わったのは、昭和27(1952)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効の日です。

そして大東亜戦争の占領が完全に集結し、実態として戦争が終わるのは、日本から米軍基地がなくなったときです。

それが真に日本が独立を回復した日ということになります。
ただし、中共対策として、いまの日本から米軍基地が撤退することは、日本にとって危険です。

ちなみにこのサンフランシスコ講和条約は、昭和26年9月8日に調印が行われていますが、この調印の日に日本を代表して調印を行ったのは、当時内閣総理大臣だった吉田茂ですが、

このときの吉田茂は、日本国内閣総理大臣として書名を行ったのではなく、全権大使として書名を行っています。

全権というのは、誰かからその全ての権限を委任された者のことを言います。

そして大東亜戦争を戦ったのは、大日本帝国であって、占領下の日本国ではありません。

ですから戦争終結のための講和条約も、当然のこととして大日本帝国憲法に基づく大日本帝国の統治権者である日本国天皇の名代として、吉田茂は全権を受けて調印式に臨んでいます。

つまり、日本国憲法が施行されていても、大日本帝国憲法は、ちゃんと生き続けていることになります。

あるいは別な解釈をするならば、日本には「憲法以上の存在」がある、ということです。

この2つ以外に、「全権」を解釈することはできません。

ちなみにこのサンフランシスコ講和条約の締結に際して、出席を要請されながら、出席を断った国が3つあります。
それがインド、ビルマ(現・ミャンマー)、ユーゴスラビアです。

理由は、ネール首相が明確に述べています。
3つあります。
(1) 講和して戦争を終結させる以上、日本にある外国軍は全て撤収すべきであること。
(2) 千島列島や樺太、澎湖諸島や台湾に関する領土主権の帰属先を明確にすべきこと。
(3) 沖縄や小笠原諸島を日本へ返還すべきこと。
です。

講和条約を締結する以上、領土問題に曖昧なことがあってはならないとした当時のネール首相、ビルマのシアヌーク殿下、ユーゴの大統領らは、戦後70年経った今、まさに中共の暗躍を許すことになっている現実を考えれば、きわめて先見の明に富んだ見解であったと思います。

また、サンフランシスコ講和会議には、会議に出席しながらも、調印を拒否した国があります。

それがソ連と、ポーランドとチェコスロバキア(当時)です。
ポーランドとチェコは、ソ連に強制されて調印しなかっただけのことですが、ではソ連がなぜ調印を拒んだかといえば、まさに北方領土等に関して、ソ連の意向が反映されなかったからです。

そして、サンフランシスコ講和条約には、ハナから招待されなかった国もあります。

それが中華民国です。
蒋介石率いる中華民国は、まさに日本と戦闘を繰り広げた政権ですが、この昭和27年の時点では、すでに大陸を追われ、台湾に亡命政権となっていました。

米国は中華民国を国家として承認していましたが、英国はこの時点ですでに中華人民共和国を支那の正当な政府として承認していましたから、米英の意見が整わず、結果、中華民国は招待されていません。

ついでに申し上げますと、このサンフランシスコ講和会議に対して中華人民共和国は、周恩来外相がなにかといちゃもんをつけていましたが、大東亜戦争当時、中華人民共和国は建国さえされておらず、また中共軍に正式な日本との戦闘行為さえもなく、連合国側の全ての参加国から、中共政権は完全無視されています。

そして、ついでのついでのオマケに申し上げると、このサンフランシスコ講和会議に、署名国として参加させろとうるさく言って回っていたのが韓国で、韓国は国をあげての運動の結果、一時的には署名国名簿に名を連ねるまで外交を成功させています。

ところが、世界には、常識があるものです。

韓国は、戦時中に「大韓民国臨時政府」を打ち立てて抗日闘争をしていたと主張しました(これはいまの韓国の国定歴史教科書にもそのように書いてあります)が、現実には「大韓民国臨時政府」なるものは、ただの私的団体(というよりも李承晩個人)であったにほかならず、「大韓民国臨時政府」を承認した国も世界中どこにも存在していません。

それに世界には亡命政府は数々あるけれど、「大韓民国臨時政府」の指揮下には、他の亡命政府にあるような「軍」も存在がありません。

あるはずもありません。
「大韓民国臨時政府」といっても、そもそも数名が上海で酒を飲みながらオダを上げただけのものだし、その数名の中で代表となっていた李承晩は、臨時政府の金を使い込んで上海にいられなくなって米国に亡命して執筆活動をしていますが、その時点(つまり大東亜戦争における日米交戦中)では、「大韓民国臨時政府」なるものの構成員は、李承晩代表兼執筆人ただひとりです。

ですから当然、軍などあるはずもないし、李承晩は米国内にいたし、「軍」がないから、当然、日本とも交戦していません。
交戦したのは、大東亜戦争終戦から5年経ってからで、しかも相手は武器を持たない自国民(韓国民)という、世界史上もあり得ない醜態ぶりです。

終戦の調印に呼ばれるわけがありません。

さて、なぜ日本に原爆が投下されたか、ですが、なるほど日本には、米軍に対する本土決戦による反撃の可能性がありました。

目論見通りにいけば、日本はもしかすると戦争に勝っていたかもしれません。戦争というのは、それほど紙一重のものです。

ただし、沖縄戦終結後の米軍にしてみれば、この時点で日本には戦争継続能力が失われ、もはや日本には戦争遂行能力がなく、仮にあったとしても、それはあくまで本土迎撃の範囲を出ない、というものでした。

つまり言葉を変えて言えば、この時点で米国は、日本にいかなる非人道的なことをしても、日本から反撃される可能性は、皆無とみなされていました。

すくなく見積もっても、この時点で日本は、米国本土や、フィリピンなど米国の占領地域に対して攻撃や報復を行うだけの能力を持ち合わせていません。そのことを米国はちゃんとわかっていました。

ここで「米国がなぜ二つの種類の異なる原爆を投下したのか」という疑問の点と点が繋がります。

つまり米国はこの時点で、「米国が日本に何をしても、絶対に日本から報復を受けるおそれがない」と踏んだから、日本に対して原爆投下「実験」をしたのです。

実は理由はただひとつなのです。それは、
「その時点で、日本に何をしても、日本からの反撃や報復攻撃を受ける可能性が皆無だった」ということです。

日本に原爆が投下された以降、世界各地で、戦争はたくさん起こりました。

けれど、いずれの戦争においても核が使われたことはありません。なぜなら相手国に核を打ち込めば、自国がその報復を受けるからです。

ところが日本には、原爆が投下されました。
理由は「実験」のためです。

なぜそれができたのか。
その時点で、「日本に反撃能力がなく、日本から報復される心配がまったくなかったから」です。反撃される心配がないから、日本人は、実験材料としての「モルモット」にされたのです。

古来、モルモットは、さまざまな動物実験に用いられています。

なぜモルモットが使われるのかといえば、答えは簡単です。
モルモットが人間を襲う確率が100%ないからです。

モルモットは、過ちを犯したから実験材料に使われるのではありません。人間の都合で実験材料にされているのです。
なぜなら、モルモットが人間に反撃する可能性が皆無だからです。

広島の平和記念公園には、「安らかにお眠り下さい。過ちは二度と繰り返しませんから」と刻まれた石碑があります。

広島に原爆が投下され、長崎にも投下され、35万人もの犠牲者を出した日本の、では、いったい何が「過ち」だったのか、そのことを碑文は書いていません。

けれど、実験に使われたモルモットが、「もう過ちは繰り返しません。わたしたちは二度と実験しません」と言ったところで、実験が終わることはありません。

モルモットは、人間の「都合」で実験材料に使われているだけだからです。同様に日本は、米国の「都合」で実験材料にされたのです。反撃の心配がないからです。

もうひとつ大切なことを補記しておきます。

広島、長崎に原爆が投下される前に、日本は、すでに原爆の開発を終えていました。

開発途上だったという人もいます。そうではなく完成段階にあったという説もあります。

はっきりしていることは、その原爆(これを日本では新型爆弾と呼びました)は、すでに使用できる段階にまで至っていたという事実です。

当時、軍の上層部は、この新型爆弾をもって米国に乾坤一擲の大勝負を挑みたいと昭和天皇に奏上しました。これは記録に残っています。けれど昭和天皇は、この上奏を却下しました。

そのとき昭和天皇は、次のようにおおせであったそうです。
=========
その新型爆弾によって、たとえ我が国の戦況が有利になることがあったとしても、そのために、相互が新型爆弾の投下合戦にいたり、結果、何百万もの無辜の民が死ぬようなことになるとしたら、私はご先祖に申し訳がたたない。
=========

陛下はそのように述べられ、原爆の製造の禁止を、現下に却下しただけでなく、その開発の中止までをも命じられています。

そしてそのような事実があったからこそ、日本は、広島、長崎に原爆が投下されたとき、それがすぐに新型爆弾(原子爆弾)だとすぐにわかったのです。

日本は、原爆後、すぐにスイスを通じて米国政府に抗議文を出しています。
その抗議文です。

~~~~~~~~~
【米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文】

今月6日、米国航空機は、広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し、瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅させました。

広島市は、何ら特殊の軍事的防衛機能や、そのための施設を施していない普通の一地方都市です。同市全体を、ひとつの軍事目標にするような性質を持つ町ではありません。

本件爆撃に関する声明において、米国トルーマン大統領は、「われらは船渠(せんきょ)工場および交通施設を破壊した」と言っています。

しかしこの爆弾は、落下傘を付けて投下され、空中で炸裂し、極めて広い範囲への破壊的効力を及ぼすものです。

つまり、この爆弾で、この投下方法を用いるとき、攻撃の効果を右のような特定目標に限定することは、物理的に全然不可能なことは明白です。

そして本件爆弾が、どのような性能を持つものであるかは、米国側は、すでに承知しているものです。

実際の被害状況は、広範囲にわたって交戦者、非交戦者の別なく、男女老幼を問わず、すべて爆風および幅射熱によって無差別に殺傷されました。

その被害範囲は広く、かつ甚大であるだけでなく、個々の傷害状況を見ても、「惨虐」なるものです。

およそ交戦者は、害敵手段の選択について、無制限の権利を有するものではありません。

不必要の苦痛を与えるような兵器、投射物その他を使用してはならないことは、戦時国際法の根本原則です。そのことは、戦時国際法であるハーグ陸戦条約規則第22条、及び第23条(ホ)号に明定されています。

米国政府はこのたびの世界大戦勃発以来、再三にわたって、
「毒ガスその他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の世論によって不法であり、相手国が先に使用しない限り、これを使用することはない」と声明しています。

しかし、米国が今回使用した本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器よりも、はるかに凌駕するものです。

米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたって日本の大都市に対して、無差別爆撃を実施しています。

多数の老幼婦女子を殺傷しています。
神社や仏閣、学校や病院、一般の民家などを倒壊または焼失させています。

そしてさらにいま、新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物とも比べ物にならない無差別性、惨虐性をもつ本件爆弾を使用したのです。これは、人類文化に対する新たな罪悪です。

日本政府は、ここに自からの名において、かつまた、全人類、および文明の名において、米国政府を糾弾します。
そして即時、かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求します。

昭和20年8月11日
~~~~~~~~~~~~~~~

日本国政府は、この抗議文で、原爆を「非人道的兵器」と呼び、その使用を米国政府に「放棄せよ」とまで言っています。
科学技術としての開発はともかく、それを兵器として使用することは、人道上許されないと明確に述べています。これが日本です。

原爆を投下によって無差別大量殺人をしていながら、大統領声明で「広島は軍事基地だ」と強弁した米国政府、それが自国の原爆開発をむしろ積極的に放棄した日本国政府と、理はどちらにあるのでしょうか。

亡くなられた広島や長崎の一般市民が「過ち」をおかしたわけではないことは、疑いのない事実です。

では、日本という国家が、過ちを犯したのでしょうか。何が日本の「過ち」だったのでしょうか。
戦争をしたことでしょうか。
その戦争によって、東南アジアはもとより、世界中の植民地となっていた民族が、国家を築き、独立を勝ち得ています。

もし大東亜戦争がなかったら、500年続いた欧米列強による有色人種への植民地支配は、21世紀となった今日でも、なお続いていたことでしょう。

世界でただ一国、たったひとりになっても、正義のためには武器を持って戦う。その武士道の国が、世界の有色民族を、独立へと導いています。

そしてその日本は、戦争の末期、敗色が濃くなった厳しい状況下にあっても、なお、自ら開発した原爆を製造中止にし、その使用をやめています。

一方、同時期に原爆の開発をしていた米国は、報復のおそれのない日本に対し、「実験」と称して広島長崎に原爆を投下しました。

人類史上、「過ち」を犯したのは、果たして誰なのでしょうか。

日本はなぜ実験に使われたのか。
その答えは、「日本に報復能力がなかったから」です。

私たちは、そこから大切なことを学ぶ必要があると思います。
それは、正義には常に「報復能力」が必要だ、ということです。

「報復能力」がなければ、人の命も道徳も正義も、すべて踏みにじられてしまう。それが世界の現実だということです。

もうひとつたいせつなことは、昭和天皇が、世界が核競争になることを未然に防ぐため、技術レベルでは原爆を開発することができ、それを米国に撃ち込むことさえできたにもかかわらず、それを人類のためにと、却下されたということです。

このことは、終戦の詔勅にも明確に述べられています。
========
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ

(口語訳)
敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか。
皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。
========

世界中、どこの国でも、すべてに優先するのが国益です。
どの国も、自国の利益のためだけに思考し行動します。
けれど、昭和天皇は、「人類文明そのもの」と述べられています。

人類史上、人類の福祉と幸福のために、身を切る覚悟とその実行をしてきたのは、昭和天皇のご意思です。私たち日本人はそういう国の民です。

どこかの国のように、いつまでも恨みを忘れないなどというのは論外です。

決して良いこととは思わない。
むしろ未来志向でいくべきです。

歴史は、良いとか悪いとか、批判するものではありません。
そこで思考が停止するとろくなことになりません。
実際に起きた事実は事実です。

そのことをきちんと知った上で、二度と同じ目に遭わないように備える。そのために必要なことは、なによりも自国の報復能力をどこまでも確保しぬくという国家的決意です。

いかなる国の民であれ、一般の民間人が大量に殺戮されるようなことは、これからの人類史において、絶対にあってはならないことです。

そうであるならば、私たち日本人は、実際に被爆した国の民として、まさに世界が二度と同じ過ちをしないように、日本国として、国の内外で最大限の努力をし続けることが大事なのではないでしょうか。

広島でも長崎でも、亡くなられた方々の御霊は、自分たちが殺されたから復讐してほしいなどと、誰も望んでいないと思います。

むしろ、「二度と俺たちと同じ目に遭わないようにしてくれよ。そのために思考停止などにならず、むしろ積極的に必要な努力をしれくれよ」と望んでおいでなのだと思います。

最後にひとつ、大切なことを書き留めておきたいと思います。

日本は、かつて米国と戦いました。英仏蘭とも戦いました。
英仏蘭には勝利しましたが、最後に米国との戦争に敗れました。

けれど、かつて力の限りを尽くして戦った日米は、その後、英仏蘭も含めて東西冷戦を一緒になって闘いぬきました。
そして冷戦に勝利しました。

世界大戦といえば、日本人の感覚では、第一次、第二次の世界大戦がそれにあたり、これからもしかしたら第三次世界大戦が・・・などと思い込んでいる人は多いようです。
けれど、第三次世界大戦は、すでに起こり、そして終結しています。

それが「東西冷戦」です。

原爆ができてから、いわゆるドンパチは局地戦では行われても、大国同士の大決戦のようなものは、最早行われません。
このことは、戦中に石原莞爾が「最終戦争論」ですでに喝破していることです。

核を用いれば、核によって報復される。
そのことによって、戦争は「冷戦」のカタチをとらざるを得なくなりまりした。

こうしてはじまったのが、昭和20(1945)年のポーランドやベルリン問題に端を発する「東西冷戦」です

この「冷戦」は、局地戦としての朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争や、ソ連や中共国内での数千万から億単位の粛清と称する大量虐殺を招きながら、なんと昭和64(1989)年まで、まる44年間も続いています。

そしてこの「東西冷戦」によって亡くなられた方の数は、第二次世界大戦による死者行方不明者の総数をはるかに上回る大規模な死傷者を出しているのです。

日本は、米英仏蘭等とともに、この東西冷戦を戦いました。
そして日本の技術力、経済力、そして誠実さは、見事、この東西冷戦を勝利へと導き、ソ連を崩壊させ、西側陣営の勝利へと導いています。

かつて、敵同士として戦った日米英仏欄は、ともに冷戦を戦い、勝利した戦勝国となったのです。

そして冷戦時における世界の敵であった共産主義は、いま、世界ではアジアにのみ残存しています。

世界はいま、共産主義からの自由と、共産主義の撲滅のための最終決戦に入ろうとしています。

日本も米英蘭仏も、いつまでも第二次世界大戦時の世界秩序である連合国(国連=United Nations)に縛られていることはありません。

世界は、新しい世界秩序を得ようと、すでに動き始めているのです。

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