「戦のルール」

画像の説明 最近のアニメ映画やテレビの時代劇などで、戦国時代の戦(いくさ)のあと、近隣の農家の人たちが戦場に転がっている武者たちから刀や鎧などを「盗みに」来る姿が描かれることがあります。

おそらくは日本に住んで日本人の名前を名乗る日本人でない監督やスタッフの勝手な思い込みなのでしょうが、実にとんでもない描写です。

死んだ兵の身ぐるみを剥いだ上、食べてしまうどこかの国では、それが常識かもしれませんが、日本には戦国時代にさえ、そのような習慣はありません。

なるほど戦のあと、近隣の農家のみなさんが、戦場となった場所にやってきたのは事実です。

けれどそれは、ちゃんとした理由があってやってきていたのです。

そもそもそこは、もともと彼らの田畑です。そして、戦のあと片付け料も含めて、ちゃんとその費用を事前にもらっているのです。

戦国大名たちが戦をするときは、事前に戦場となるところを相互に打ち合わせ、あたり一帯の田畑の農作物を事前に買取ました。

ちなみにこのとき、主に田んぼを戦場にしました。畑地は、あまり戦場には利用しませんでした。

これには理由があって、畑地には、かならず肥溜めがあるからです。

戦の最中に、万一、肥溜めに落ちて、重い鎧兜のためにそのまま沈んで亡くなりでもしたら、それはとっても残念なことだからです。

ですから、農家に依頼し、田んぼのなかにある畑などで、肥溜めがあるところでは、必ず事前に動かないようなちゃんとした蓋をしてもらっていました。

そして戦が行われれば、遺体の埋葬の手当も必要ですすから、それらの費用まで含めて、戦をする側が、事前に作物を高値で買取っていました。

ですから作物の買取費用には、
1 軍用食料の調達
2 戦場となる地域のメンテナンス(肥溜めの蓋など)
3 戦後の後片付け(遺体埋葬など)
4 鎧や刀、槍、弓など、先祖伝来の備品の郷里への送還
などの費用が含まれ、高値で買い取られるのが常識でした。

遺体が転がっていたままでは、そこで農業ができないのです。
ちゃんと後片付けもしなきゃならないし、彼らはそこで再び作物を育てるのです。あたりまえのことです。

戦場に転がる遺体は、そのまま放置しておけば、腐臭を発し、鳥や獣の餌になるだけでなく、寄ってきた獣たちは、こんどは農業を再開したあとの農地を荒らすようになります。

それに、時間が経ってしまうと、遺体は腐乱し、後片付けがしにくくなります。ですから、戦が終われば、滞り無く、すぐに近隣の農家で力を合わせて、遺体や散乱した武器や幟などの片付けをしたのです。これまたあたりまえのことです。

日本では、遺体は鎧を脱がせてちゃんと埋葬までしています。
鎧を着たままの埋葬はしません。

埋葬は、火葬、土葬と、土地の習慣によってまちまちですが、火葬する場合は、鎧を着ていたら燃やすことができないのです。これまたあたりまえのことです。

そして、脱がせた鎧や武装は、ちゃんと持ち主の家族に送り届けています。

だから、鎧を脱がせる。これまた当然のことです。
武士たちの「もとどり」、つまり「ちょんまげ」にも理由があります。

遺体を遠くまで送り届けることはできないから、髷を切って、それを、鎧や兜、刀槍などと一緒に送り届けていたのです。

田舎の、すこし古い家ですと、いまでもご先祖の鎧をお持ちの家があります。

その祖先は、必ずしも戦で生還したご先祖ばかりではありません。
戦地でお亡くなりになったご先祖もいるのです。けれど、その「戦地で亡くなったご先祖」が着ていた鎧は、ちゃんと持ち主の家に帰ってきているのです。

それがなぜかといえば、答えは簡単です。
「戦場の近隣の農家の人たちに、ちゃんと送り返してもらっていた」からです。

それができるだけの物流網があり、だから諸国の街道が整備されていました。

勘違いしているどこぞの半島が、日本が統治するまで、諸国をめぐる街道すらなかったのとは、段違いです。
現代のわたしたちは、産まれたときには、すでに道路網が整備された環境にあって、道路なんていうものは、「そこにあるもの、あたりまえのもの」と勘違いしていますが、実はすべての道路は、必要があって、誰かが造ったものです。

それをまるで泥棒でもしていたかのように描写するのは、おそらくその番組のプロデューサーか監督が、日本ではないところの出身者としか考えられません。

まさに、戦泥棒(いくさどろぼう)を映像化することは、歴史の捏造そのものでしかないのです。

そもそも戦泥棒が出るというのは、遺体からの泥棒が悪事と認識されず、民衆が貧しくて貧困に置かれていて、民衆の生活の根幹になる農地などを、民間の都合を無視して勝手にそこを戦場にする不届き者が、民衆の上に君臨している場合に限られます。

そして、まさにそういう状況にあった大陸やどこかの半島では、戦泥棒はまさに社会の常識でした。それと日本を同じにしてもらいたくないと思います。

そもそも世界中、多くの国において、道路は「軍用」に造られましたが、日本では古代からすべての道路は民生用に造られています。

そして飛鳥奈良平安の昔から、日本では民間の物流機構が整えられていました。

そのために、駅ができ、宿もうまれ、道路網の整備によって、お伊勢参りや、京都御所を守る御垣守(みかきもり)などの参内旅行が庶民の憧れとなり、民間の湯治などの温泉旅行や紅葉見物、花見などが観光地として盛んに行われるようになっていました。

要するに、戦にでかける武士たちは、鎧兜に名前と住所を書いておきさえすれば、自軍が戦に負け、全員、野に散ったとしても、鎧も兜も、先祖伝来の大切な刀も、ちゃんと生家に送り返してもらえる。

鎧の中に、辞世の句を縫いこんでおけば、それもまたちゃんと送り届けてもらえる。それだけの国柄が、日本ではすでに中世において、しっかりと確立していたのです。

戦場の近隣の農家のみなさんも、事前にお金をいただいており、ちゃんと約束を守る人たちだったからこそ、遺体の処理もちゃんとしてくれたし、遺品も送り返してくれました。

そういう高い民度をもった国が日本なのです。

ただ、どうしても、名前がなかったり、戦場に散乱してしまったために、誰のものなのかわからなくなってしまった刀剣や槍などが生じることがあります。

こうした誰のものかわからないものは「いつか所有者の家族が現れるまで」と、ずっと庄屋さんなどが保管しました。
刀も槍も、鉄製品ですから、保管は実はとてもたいへんなものです。手入れしないと錆びてしまうからです。

何年も保管して、所有者の現れなかった刀剣等は、ですからやむをえず、そこではじめて古物商に売却されました。

これはこれであたりまえのことで、戦が終わって刀剣が大量に散乱している時点で古物商に売ったとしても、十把一絡げに一山いくらでしかひきとってもらえません。

ちゃんと所有者の家族のもとに返し、残り僅かなものとなってからの売却だと、逆に高く売れる。人の世の中なのです。いまも昔も、そういうことは何も変わりがありません。

それにしても、メディアにしても大学の教授さんたちにしても、いい加減、目を覚ましていただきたいものです。

そもそも「階級闘争史観」などいうものが登場したのは、19世紀のことです。それ以前の日本には、そもそも「階級闘争」なるもの自体が、存在しなかったのです。

かれらがよく引き合いにだすものに「下克上」がありますが、下克上という言葉は、もともとが6世紀の支那の隋の書物に見られる言葉であって、もともと日本の概念ではありません。

用語としては日本でも、14世紀頃以降「下克上」という言葉が使われるようになりましたが、その多くは、既得権益を守るために権力と戦う連中が落書において、やや揶揄的に「下克上」と書かれたにすぎません。

戦国期における「下克上」の事例として、室町幕府によって任ぜられた守護大名を廃位して、別な者を大名に据えるということは、よく行われましたが、この場合においても、ほとんどのケースは、その守護大名の親族が後任の大名になっています。

要するに日本における下克上は、室町以来、あるいは鎌倉以来の家柄に安住して民を顧みない主君がいたときに、その家臣団が一致団結して、その主君を引きずり下ろして、別な者を主君に据えたものだし、それが何のために行われたかといえば、主君その人よりも、民・百姓の生活の安定を大切にしたからこそ、それがわからないお馬鹿な主君がいれば、これを家臣が廃位したのです。

とりわけ戦国期のような戦いが頻発した時代にあっては、頭領には人々をまとめあげるだけの器が必要だったし、それがなければ、国が滅び、治安が乱れて民が困るのです。

つまり日本における「下克上」は、階級闘争として行われたものではなくて、あくまでも国を守る必要に駆られて、民を守るために行われたものという性格を持ちます。

階級闘争は、下の者が上の者を殺して、権力を奪うことですが、日本における「下克上」は、お祭りを盛大なものにするために、担ぐお神輿を立派なものに変えただけのものであって、祭りは祭りでしかないのです。

たとえれみれば、古くからある村の祭りを止めにしてしまって、鼓笛隊パレードに変えてしまうのが階級闘争です。

支那の下克上は、まさにそれにあたります。だから易姓革命です。統治者の姓が易(か)わるのです。

これに対し、日本で「下克上」と呼ばれたものは、お祭りを保持するために、お神輿を立派なものに造り替えるというものです。ですから階級闘争史観では、説明のつかないことなのです。

説明がつかないものを、無理やり歴史認識にしようとするから、そこに無理が生まれます。

戦のあとに、貧民達が現れて、亡くなった武士たちの身ぐるみを剥がすと描写しますが、仮にそうであったとするなら、剥がした連中は、その剥がした物品を、どうしたのでしょうか。
転売したのでしょうか。

転売するなら転売するで、それなりの流通市場が確立していなければなりません。

流通は、貧困の社会では成立しえませんから、そうなると、身ぐるみを剥がしても、剥がした物品は売れません。
売れないのに剥がす?
自分で使うためですか?

立派な鎧を、武芸のわからないお百姓さんが着たとしても、世間の笑いものになるだけです。

鎧を盗んだお百姓さんは、その鎧を着て、コメディアンでもやったとでも言うのでしょうか。

ここはそもそも震災のあとですら泥棒のでない日本なのです。

戦後生まれの私達は、実にとんでもない大嘘を刷り込まれてきたものです。

しかし何年経っても、どれだけ多くの本に書かれたとしても、どんなに「権威ある偉大な大学教授」が書いたとしても、ウソはウソです。

私達は真実に目覚め始めています。
民衆が真実に目覚めることは、誰にも止められることではありません。

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