2018年11月1日よりタイトルをWCA(世界の時事)に変更しました。
「日本」
日本国憲法は、その前文に、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」と書かれています。
つまり国際社会において「平和を愛する諸国民」が上であり、「われら(日本人)」はその下位に位置すると宣言されているわけです。
そしてその「われら(日本人)」は、同じく日本国憲法前文で、「国際社会において名誉ある地位を占めたい」と思っているわけです。そのように日本国憲法の前文に書いてあります。
エリート日本人ならば、当然、プライドがあります。
プライドがあるなら、下でいることに耐えられませんから、むしろ米国が代表する連合国(United Nations)の側に立って、下にいる日本を悪く言うことになります。
これが戦後体制です。
そして、社会のエリートがそのようにすることが、「国際社会において名誉ある地位」を得ることになるわけです。
日本人が諸国の下位に位置することを容認し、「国際社会において名誉ある地位」を得るためなら、なんでもしますと明言しているということは、カネを出せと言われればカネを出し、女を出せと言われれば女を出すといううことです。
ですから、以前、毎日新聞が英語版の「Wai Wai」で、日本人女性がまるで性的狂人のように描写した記事を連続して発信していましたが、ことの是非はともかくとして、そういう姿勢が、日本国憲法がその前文で求めている日本国民のあるべき姿とされているわけです。
しかしそのことが日本人に幸せをもたらすかどうかとなると、これは違うと思います。
また国際社会にしても、そうやって明らかに国家民族を下位に位置づけるということは、上下と差別を容認するということですから、これまた社会に与える影響は決して良からぬものとなります。
なんだかんだ言って、日本は大国なのです。
いまや、世界の通貨として認められるのは、ドルとユーロと円です。日本は一国で、米国やEUに匹敵する世界の信頼と信用を得ています。
その日本が、殴ればいくらでもカネを出す、なんでもする奴隷国家でいるということは、世界の民衆に、働かなくても誰かを殴ればカネでも女でも手に入るという誤った認識を与えることになります。
これは世界の平和と安定への冒涜でもあります。
なぜなら、誰が見ても不道徳だからです。
ということは、日本国憲法は、不道徳な憲法である、ということです。
そしてそのような不道徳を、いつまでも容認しているようでは、現代日本人は歴史に恥を晒していることになります。
おそらく後の世には、日本でも世界でも、日本が日本史上、もっとも程度の低くなった最低の時代として現代日本は認識されるのではないかと思います。
それくらい、日本国憲法は、むごいものです。
それもあたりまえのことです。
そもそも日本国憲法は、憲法ではありません。
名称こそ日本国憲法となっていますが、この憲法が制定された当時の日本は、独立国としての日本国ではありません。
「連合国占領統治領日本」です。
軍事占領下にあったのですから、当時の日本に、独立した国家としての主権も、独自の意思決定力もありません。
つまり、主体性がないということです。
主体性がないなら、憲法も存在できません。
つまり日本国憲法というのは、名前こそ「憲法」だけれども、
実態は、「占領下の日本人の占領統治服務規程」でしかないということです。
ですから「占領服務規程」と読めば、冒頭の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」も納得です。
「平和を愛する諸国民の公正と信義」というのは、「占領軍を信頼して」という意味です。
「国際社会において名誉ある地位」を得たい」というのは、占領統治下から一日も早く抜けだして、独立した主権を回復したいという意味です。
問題は、その「占領統治服務規程」の枠内に、いまだに日本はあるという点です。
行政も司法も、立法府も、すべてその「占領統治服務規程」の枠内にあります。つまり戦後政治は、日本国憲法という名の「占領統治服務規程」の枠内にあるわけです。
ということは、司法、立法、行政の力では、いまのフレームは「変えられない」ということです。
なぜなら、フレームの枠内にあるものには、フレームそのものを変えることができないからです。それができるのは、日本国民の力だけです。
つまり日本国民が成長し、変わり、国民の側がいまの憲法、つまり「占領統治服務規程」を乗り越えていかなければ、日本は変わらないし、日本を取り戻すことなどできない、ということです。
すべての鍵は、国民が握っているのです。
取り戻すべき日本の形は明白です。
天皇を中心とし、天皇を国家元首として、すべての日本の領土領民が天皇の「おおみたから」とし、その天皇によって親任された政治家が、おおみたからである臣民が豊かに生活できるように活動する。
そういう日本の上古の昔からある体制を取り戻すことです。
教育が変わらなければ、政治家が変わらなければというのは、私は、甘えであり依存であると思います。
そうではなく、私たち自身が変わることです。
幸い、「占領統治服務規程」も、言論の自由は認められています。
そして、何が正しいのかを判断できる教養と民度の高さを、日本人はちゃんと持っています。
そして日本はシラス国です。
シラス国は、漢字で書いたら「知国」です。
私は日本人を信じます。