「和」

画像の説明 瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

小倉百人一首の77番にある崇徳院の歌です。
一般には、別れても好きな人、フラレたけれどまた逢いたい人を詠んだ歌など、恋歌として紹介されている歌ですけれど、実は全然違います。

なぜなら崇徳院は、わざわざ「瀬をはやみ」「滝川」といった激しい表現を用いているからです。

恋する人にまた逢いたいという思慕の歌なら、どうしてそんなに激しい言葉を使わなければならないのでしょうか。

崇徳院は、藤原忠通の謀略にあい、讃岐に流された人です。
これが保元の乱(1156年)で、崇徳院となる前は、崇徳天皇です。

その、元天皇が、なんと武力によって拿捕され、流罪となってしまったのです。

天皇ないし元天皇が流されるというのは、当時にあっても、あるいは現代に至るまで、ありえない驚天動地の出来事です。
そして崇徳院が流されたときの天皇は、弟の後白河天皇でした。

本には、保元の乱は後白河天皇によって崇徳院が讃岐に流されたとしているものと書かれています。

けれど我が国における天皇は、政治権力を揮わない権威としての存在です。ですから後白河天皇が、天皇の地位にあって崇徳院を拿捕し流罪したという解釈は間違っています。

そうではなく、これを仕掛けたのは、当時摂政関白太政大臣だった藤原忠通です。

藤原忠通は、摂関家としての藤原家の安泰のために、政治的に邪魔になる崇徳院に、実際にはまったくの無実である謀反の疑いをかけて逮捕し、流罪にしてしまったのです。

結果として崇徳院は、実弟の後白河天皇とも別れることになり、また、政治権力を握る藤原忠通とも、本人の意思に反して、政治的敵対者とされてしまいました。

そして冒頭の歌を読めば、何か大きな対立 戦までは至らなくても、それに近いほど意見が食い違う相手と、今は互いに別の道を歩むことになるけれど、いつか再び出会い、今度は同じ道を歩んでいきたいという、崇徳院のお気持ちが、素直に伝わる歌となっています。

今は無理かもしれないが、いつか・・それは遠い未来かもしれないし、もしかすると来世かもしれないけれど、また出会い、今度は対立などしないで仲良く暮らしたいものだと、崇徳院は詠んでいるのです。

藤原定家は、崇徳院の代表作としてこの歌を選び、藤原忠通の歌の次に配列しました。

聖徳太子の「十七条憲法」第一条には、有名な「和を以(も)って貴(たっと)しと為(な)し、忤(さか)ふること無きを宗(むね)と為(な)せ」という言葉があります。
ここにある「忤」という字は、語源が「呪いのための道具の杵」からきています。

つまり、「たとえ相手が呪詛しようとも、こちらも同じように呪詛することは愚かである。そのようなことはしないようにしなさい」という教えです。

どんなに辛くて悲しいことや腹立たしいことがあったとしても「和を以て貴しと為し」なのです。
それは、相手を許すことでもあります。
「今は無理でも、いつか再会したい」という願いがあればこそ、崇徳院はこの歌を何度も推敲したのです。

「瀬をはやみ」「滝川」といった強い言葉を選んだのも、政争の濁流に押し流された二人の運命を象徴するにふさわしかったからでしょう。

崇徳院は讃岐国に流されたあと、仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若経)の写本作りに専念しました。

そして保元の乱で亡くなった戦死者の供養を最後まで続けられたのです。そんな功徳を積んだ崇徳院を人々は四国の守り神として祀るようになります。

そして崇徳院が崩御してから七百年後の慶応四年(1868年)、明治天皇はご自身の即位の礼に先立ち勅使を讃岐に遣わして崇徳院の御霊を京都へ帰還させました。

こうして創建されたのが京都市上京区堀川東入ルにある白峰神社です。

「岩にせかるる滝川」は崇徳院が亡くなってから七百年後、再びひとつの川になりました。

私たちの国の歴史はつながっているのです。
そしてこの歌を思うとき、昨今の日本を取り戻そうとする保守同士での、骨肉の争いがあることを、たいへん悲しく思います。

最近、いろいろな方から、「なんだか最近、いままでの日常なら考えられないような、良い人間関係や人脈が急激に開けてきました」というお話をよく聞きます。

おそらく、いまこれをお読みの皆様にも、そのような実感をお持ちの方も多いのではないかと思います。

私はそこに、なんだか「神々の御意思」を感じるのです。
いま日本は、急速に目覚めつつあります。
さまざまな現象が、次々と起きています。
そして、ほんの1〜2年前なら考えられなかったような、変化が、いま起きています。

日本は、日本の持つ本来の姿を、急速に取り戻しつつあります。

日本国内にある最大の問題は、右翼と左翼の対立ではありません。

そもそも国旗や国歌、そして国家を大切にしようとするのは、万国共通の、これは「常識」です。

日本では、国旗や国歌、そして国家を大切にしようとする人達が右翼、そうでない人達が左翼とされますが、これは実はとんでもない言いがかりです。国旗や国歌、そして国家を大切にすることが「常識」であって、そうでない人達は世界ではテロリスト、犯罪集団として認識されるのです。

あるいはタカ派とハト派の対立というのも大嘘です。
戦争礼賛者など、この世の異常者です。
タカ派と呼ばれていた政治家も民間活動家も、誰一人戦争をしたい人などいません。

そうではなく、これは不当な暴力からちゃんと身を守る算段をつけようとする人達(タカ派)と、不当な暴力を歓迎しようとする人達(ハト派)の対立です。
世界の常識では、そういう人達を「ハト派」とは呼びません。
ただの「卑怯者」です。

他にも、保守派対右翼とか、親米派と反米派とか、とにかく戦後の言論界をみると、これでもかというくらい、何もかも対立に満ちているかのようです。
昨日も書きましたが、日本文化の根幹は「共感、独創、対等」です。

「対立、模倣、支配」は、ウシハク文化であり、ウシハクしたい人の取る行動原理です。

要するに「対立」をあおるのは、まっとうな考え方をする人達を、ケムに巻きたいウシハク人ということです。

藤原忠通が承久の乱を仕掛けた理由は、単に権力者としての自己の保身でした。

いま、反日活動をしている人達も、その根っこをたどせば、一国の保身であったり、敗戦利得者としての自己保身です。
そして保守の中にあっても、やみくもに敵対を煽るのは、意外と自分の自己保身であったりしているかのようです。

けれど、日本の心は、やはり「和を以って貴しと為し、忤ふること無きを宗と為せ」です。

恨んだり対立したりすること自体が、日本の心に反している。
そしていま、日本のみならず世界中の民衆が望んでいるのが、(これは今も昔もですが)まさに対立のない和と平穏です。

冒頭の崇徳院は、自分が遠島にされ、身近なものが殺害されるというお悲しみがあっても、なお、激流が岩にぶつかって二つに割れても、それでもなお、いつかはまた一緒になろう。ひとつになろう」とお歌いになられました。

そして讃岐の国にあって、乱でお亡くなりになった人たちの供養を、最期の日までお続けになられました。

日本人ほど平和を愛する民族はありません。
日本人ほど、戦えばこれほど強い民族はありません。
なぜなら日本人は、
どこまでも愛。
どこまでも和。

だからこそ日本人は強いのです。

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