「武士」

画像の説明 昨日の台湾の総統選挙では、民進党の蔡英文氏が大差をつけて圧勝しました。

今回は中共の政治的干渉が少なかったことで、本来のあるべき台湾の民意が反映した結果です。ただ台湾が、相変わらず支那本土を国土とする中華民国で行くのか、それとも支那本土とは異なる台湾という国家となっていくのか、これからの舵取りに注目です。まずは、お祝いです。
そこで今日は、台湾にちなんだお話をしたいと思います。

戦前、台湾で警察官といえば、エリート中のエリートでした。
当時は、警察官になることは、東京帝大に合格するよりむずかしいことと言われたほどです。台湾において、警察官はそれだけ名誉ある職業であり、人々から尊敬される職業でした。

その台湾で、いまも神として祀られている警察官がいます。
廣枝音右衛門(ひろえだおとえもん)といいます。

廣枝音右衛門は、明治38(1905)年に、神奈川県小田原市で生まれた人です。逗子の開成中、日大予科と進み、昭和3(1928)年、佐倉歩兵第57連隊に入隊して軍曹となりました。任期満了で除隊したあと、湯河原の小学校教員などをしていたのですが、昭和5(1930)年に台湾に渡り、競争率100倍という超難関の試験に合格して、台湾、新竹州で警察官を拝命しています。

この時代の台湾の警察官の役割は、日本本土の警察官と違って、日本の江戸時代の与力、同心などの系譜を引く、明治時代の駐在さんに近い存在でした。ですから治安活動は、犯罪の予防に重点が置かれ、さらに治安維持を兼ねて台湾の人々の教育や文化水準を内地の日本人と同等にまで引き上げる任務を負いました。

すこし詳しく説明すると、いまの日本の警察は「起きた事件を捜査したり、犯行現場に駆けつけて犯人を逮捕する」役割ですが、もともとの日本の奉行制度というのは、そうではなくて、犯罪が起こることを予防することが最も大切な役割とされました。

逆にもし管内で重大犯罪が起きれば、奉行は切腹だったわけです。ですから奉行の配下である与力や同心は、犯罪を未然に防止するために、長屋毎に番所を設けたり、質の悪い極道者は、親分さんのところで厳しく面倒をみてもらったり、とにかく犯罪が起きないように万全の対策を施していたわけです。

ですから牢屋も、悪いことをした人が入れられるところではありません。

悪いことをしそうな人が泊められるところでした。また、事前に、してはならない「悪いことは何か」を、明確にしておくために、民間の指導をしっかりと行いました。こうすることで、江戸時代は、きわめて少数の与力、同心で、世界最高水準の町の治安が保たれたわけです。

明治時代の駐在さんの多くは、元、武士たちであったため、こうした江戸時代の与力や同心の伝統が濃厚に残り、ですから特に田舎に行きますと、駐在さんの信用は極めて高いものであったりしたわけです。

ところが中央における警察行政は、国内で酷い事件が起きても責任を問われないお役所仕事となったため、徐々にこうした伝統が薄れていって、ついには戦後には、警察官は、起きた犯罪しか対応できない存在となり、昨今では、点数のために原付きバイクを取り締まるには熱心だけれど、重大犯罪はお座なりという体制、体質が出来上がってしまいました。

もちろん、現場の警察官には、まだまだ命がけで真剣に職務を遂行する警察官がたくさんいますけれど、中央の警察行政は、責任を問われないお役所行政になってしまっていると言われています。

一方、台湾では、官僚化した国内の警察組織を嫌い、本来のあるべき昔の奉行所スタイルが貫かれました。これには、三代目台湾総督の乃木希典、四代目の台湾総統として約8年を過ごした児玉源太郎の影響が濃厚にあったと言われています。

ですから廣枝音右衛門が着任した頃の台湾の警察官は、まさに犯罪を未然に抑止するための駐在さんであり、人々の生活の中に入って、治安の良化に務める人であったわけですし、そんな適正を厳しく審査したからこそ、倍率100倍の超難関でもあったわけです。

戦時中の昭和17年5月のことです。
音右衛門は、警部に昇進して、新竹州竹南の郡政主任になりました。そこで台湾で結成された総勢二千名の海軍巡査隊の総指揮官を拝命します。そして昭和18年12月8日、廣枝音右衛門は、巡査隊二千名を率いて、台湾の高雄港から特務艦「武昌丸」に乗り込んで、フィリピンのマニラへと向かいました。

マニラでの訓練は、とても厳しいものであったそうです。音右衛門は、隊長として常に部下の先頭に立厳しい訓練を率先して受け、部下たちひとりひとりを励まし続けたといいます。そして部下たちも、そんな廣枝隊長をとても慕ったそうです。

海軍巡査隊の任務は、物資の運搬、補給などの後方支援です。
戦況は刻々と悪化し、ついに昭和20年2月、マニラ近郊に米軍が上陸します。

米軍と戦闘すること3週間、ついに弾薬も尽き、玉砕やむなしの情況となったとき、海軍巡査隊には、フィリピン派遣軍司令部から棒地雷が支給されたそうです。それは、「これで敵戦車に体当たりし、全員玉砕せよ」という命令でした。

しかし音右衛門の部下たちの多くは妻帯者です。もちろん音右衛門にも家族がいます。妻と3人の子供です。

音右衛門は苦慮し、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添(りゅういてん)を伴って、米軍にひそかに交渉を行いました。
そして部下たち二千人を集め、次のように訓示しました。

「諸君。
諸君らは、よく国のために戦ってきてくれた。しかし、今ここで軍の命令通り犬死することはない。祖国台湾には、諸君らの帰りを心から願っている家族が待っているのだ。私は日本人だ。だから責任はすべて私がとる。全員、米軍の捕虜になろうとも生きて帰ってくれ」

二千人の部下たちは、一同、言葉もなくすすり泣きます。
音右衛門の気持ちが痛いほどわかったのです。

音右衛門は、部下たちへの訓示のあと、ひとりで壕に入りました。そして拳銃をみずからの頭に向けると、引き金を引きました。一発目は銃の発射の衝撃で、弾は頭部の一部を吹き飛ばしただけでした。音右衛門は、もう一度引き金を引き、絶命しています。昭和20年2月23日午後3時頃のことです。
享年40才でした。

音右衛門の決断によって、海軍巡査隊の台湾青年ら二千名は、生きて故郷の台湾に帰還することができました。このときの恩を忘れない台湾巡査隊の面々は、戦後、台湾新竹州警友会をつくり、台湾仏教の聖地である獅子頭山にある権化堂に、廣枝音右衛門隊長をお祀りしました。

そしてさらに廣枝隊長から受けた恩義を、末永く語り継ごうと、茨城県取手市取手市白山二丁目にある「弘経寺」に、廣枝隊長の「顕彰碑」を健立しました。当時の台湾では、国民党の迫害がひどくて、感謝の碑の建造どころではなかったからです。

その「顕彰碑」には、次のように書かれています。
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泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す
時に二月二十四日なり
その最後たる克く凡人の為し得さる所
宣なるかな戦後台湾は外国となりたるも
この義挙に因り生還するを得
吾等の今日あるは彼の時隊長の
殺身成仁の義挙にありたればこそと斉しく称讃し
此の大恩は孫々に至るも忘却する事無く
報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと
昭和五十一年九月二十六日隊長縁りの地
霊峰獅子頭山権化堂にてその御霊を祀り
盛大なる英魂安置式を行う
この事を知り得て吾等日本在住の警友痛く感動し
相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝え
その遺徳を顕彰せんとしてこの碑を健立す
<元台湾新竹州警友会>
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廣枝音右衛門の義挙は、江戸時代の武士の態度そのものです。
米軍に進んで捕虜となる道を選んだことは、台湾人の警察官の命は救いましたが、軍の上官の命令には背いた行動です。もし、音右衛門が軍に所属する軍人であったなら、彼は命令通り、よろこんで部下とともに地雷を抱えて敵陣に乗り込んだことと思います。

けれど彼と彼の指揮下にあるのは、軍人ではなく、あくまでも警察官です。警察官の職務は、戦って死ぬことではなく、どこまでも民間人を護ることにあります。戦況が厳しくなった昭和二十年初頭において、彼はどこまでも台湾の警察指揮官です。
従って、軍からの地雷の支給は、命令ではなく、警察への依頼です。

だからこそ、彼はいかにしたらフィリピンにあって部下の命を救えるか。そして台湾の治安のために部下たちを、いかにして台湾に戻すかが、彼にとっての最大の任務であったわけです。
だからこそ彼は、あえて米軍との交渉という道を選んでいます。

しかし、それは同時に、部下の警察官たちに軍への裏切り者の汚名を着せる結果にもなります。そういう警察官が台湾に帰国しても、町の人は言うことを聞かない。だからこそ彼は、一切の責任を一身に背負い、迷わず自決する道を選びました。これこそ、本物の武士の生き様です。

最近でも、テレビドラマで刑事もの、警察ものは人気があるのだそうです。

けれど、廣枝音右衛門の行動や、昔の台湾における警察官のことを考えると、なんといまどきのドラマは、安っぽくて薄っぺらかと、悲しく思います。

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