「さすがお江戸」

画像の説明 明治維新期の政府は外交や防衛、それに国家としての最低限の姿をつくり上げるのに手一杯で、内政面、すなわち殖産興業といった分野は基本的に地方や民間任せであったが、そのようなことができたのは、当時の地方の経済力が強かったからだったと述べた。

さらに言えば、江戸時代以来の地方自治がしっかりしていたので、地方のことは地方に任せても問題がなかったのである。

そこで今回は、明治維新以降の地方自治の基盤となった江戸の自治についてご紹介することとしたい。実は、その基盤の上に、わが国の民主主義も発展して行ったと言えるのである。

日本の民主主義の礎となった 江戸時代の地方自治

明治も半ばになった明治26年に、勝海舟が語った話が『氷川清和』という本に出てくる。勝海舟は「地方自治などいふことは、珍しい名目のやうだけれど、徳川の地方政治は、実に自治の実を挙げたものだヨ。名主といひ、五人組といひ、自身番(警察)といひ、火の番(消防)といひ、みんな自治制度ではないかノー」と言っていた。

実は、明治20年代に創設された日本の地方自治制度は、江戸の自治を土台にしていたのである。明治政府は中央集権的で、地方も中央集権化したと認識している人が多いが、明治維新期の政府は外交や防衛、それに国家としての最低限の姿をつくり上げるのに手一杯で、内政面、すなわち地方自治にはほとんどノータッチだったというのが実態だった。

そのため、江戸の自治を引き継いだ。

そこで勝海舟の話になるのだが、それでもほとんど問題がないほどのものだったのが、江戸の自治だったのである。ちなみに、明治時代に地方自治制度をつくったのは山縣有朋。明治の元勲として伊藤博文と並び称された山縣は、今日では軍閥の元祖とばかり思われているが、山縣には江戸の自治を引き継いで、その伝統の上に、当時の西欧諸国に負けないような立憲制を築き上げていこうとしたという、全く別の顔があった。

戦前の制度はみんな悪いように思っている人が多いが、そのようにしてでき上がった明治の自治には、それなりに優れたところもあった。それがおかしくなったのは、先の戦争のときだと言えよう。

わが国の地方自治制度が江戸の伝統を引き継いでいたことについては、福沢諭吉がこんなことを言っている。

「日本国民は250年の間、政権こそ窺ふことを得ざれども、地方公共の事務に於ては十分に自治の事を行ひ、政府の干渉を受けざること久し」

たった166人の役人で切り盛りしていた江戸の自治

また徳川時代の自治制度を、「今日の立憲政体に遭ふて其まま行はる可きに非ず、多少の取捨ある可きは当然のことなれども、旧制度も新制度も自治は即ち自治なり、(中略)立憲の新政体に適するは、古来我民心に染込みたる自治の習慣こそ有力なる素因なれ」とも述べている。

つまり、「江戸の自治を少し手直しして、そのまま我が国の自治制度にすればいい」と言っていた。福沢諭吉という人は、江戸の封建制を「門閥制度は親の敵」といって批判していた人だったが、江戸の自治については、このように高く評価していた。勝海舟と一緒だったというわけである。

たった166人の役人で切り盛りしていた 江戸時代の驚くべき自治の仕組み

では、その江戸の自治とはどんなものだったのかということだ。まず質問だが、江戸の町は北町奉行と南町奉行による月番制、すなわち月ごとの交代で治められていたが、それぞれの奉行所の役人の数は、どれくらいだったと思うだろうか。今日で言えば、東京都に当たる組織の職員数がどれくらいだったかということだ。

江戸時代には、旗本8万騎と言われて、かなりの数の武士が幕府にはいた。ちなみに、東京都の現在の職員数は16万5000人あまりだ。もっとも、高等学校の先生などが入っているから、そういった職員を除いた知事部局などの職員数に限ると、3万8000人弱である。

答えは、166名だ。奉行1人、与力25人、同心140人の計166名。たった166人の人数で、今日で言えば東京都の一般行政、警察、裁判所などの業務の元締めを行っていた。

何故、そんな少人数で、そんなことができたのかといえば、ほとんどの問題が地域の自治で処理されて、奉行所という「お上」の出番が極めて少なかったからだ。住民生活において生じる様々な問題は、基本的に地域の寄り合いで話し合われ、処理されていた。そこで処理できない、ごく少数の案件だけが「お上」のお世話になっていたのだ。

最近はあまり放映されなくなったが、かつて時代劇全盛の時代に、ドラマ『遠山の金さん』という作品があったが、ドラマの最後に「北町奉行、遠山左衛門尉様、ご出座ァ……」となって「お裁き」が行われ、ハッピーエンドになるというパターンだった。しかしながら、そのようなことが行われるのは、ごく稀だったということだ。

ほとんどの実務は、末端の自治で行われて完結していた。そのようなシステムの下に、歌舞伎や浮世絵、お祭りといった江戸の町人文化が花開いていた。地域が活性化していたというわけだ。

それにしても、地域の統治が最終的に「お裁き」という裁判システムで行われていたと言われると、「江戸の自治は随分と特殊な制度だったのだ」と思われるかもしれないが、実はかつての英国や米国の自治も、同様の裁判システムで行われていた。

江戸時代の「役人」は何らかの役についている民間人だった

英国には治安判事という仕組みがあって、地域の自治で納まらない案件を治安判事が裁いていた。米国では巡回裁判所という仕組みがあって、地域の自治で治まらない案件が裁かれていた。自治と言っても、そこでまとまらない話は、最後の元締めがいないと全体がうまくいかないというわけだ。

ちなみに、そのように実質的に行政を司る場合の裁判は、判決までに半年も1年もかかるという今日のそれとは異なり、即決を旨としていた。『遠山の金さん』が登場して啖呵を切れば、ドラマはクライマックスで、もうすぐ最後のコマーシャル。解決に半年や1年もかかるというのでは、とても統治のシステムとしては成り立たない、1時間のドラマにも収まらないというものだったのだ。

江戸時代の「役人」は何らかの役についている民間人だった

さて、それにしても、最後には即決の「お裁き」になる、その根底にあった江戸の自治は、どのようなものだったのかを説明しないと、「そんな話は信じられない」と言われそうだ。江戸の町で自治を担っていたのは、町役人と呼ばれた町年寄、町名主、それに家主たちだった。

ここで「町役人」と言ったが、今日では役人とは公務員のことであるが、当時の役人とは「何らかの役についている民間人」が多かった。後で、村の自治について説明するときに「村役人」という言葉が出て来るが、それは村で村人のとりまとめをしていた名主や庄屋のことだ。

ということで、そのような江戸の町役人の数は、町方の人口が53.5万人だった寛政3年(1791年)で2万人余だった。一番上にいたのが、月番制をとる3人の町年寄(樽屋、奈良屋、喜多村)。その下に300名弱の町名主(享保8年、268名)がいたが、なんと言っても主役は、一番末端にいた家主たちだった。

家主たちのイメージは、落語に出てくる御隠居さんの現役時代の姿と思えばいい。その家主たちを5人ずつにした5人組が、実際の実務を行っていた。勝海舟が『氷川清話』で触れていた「5人組」だ。戸籍(人別帳)の管理、婚姻、養子、遺言、相続廃嫡の立ち会い、幼年者の後見、火消し人足の世話、夜廻、町内の道造りなどを行っていた。

5人の家主たちは、寄り合いということで集まって、地域のことを全て決めると同時に、「町入用」という今日で言えば町民税の収納の連帯責任を負っていた。

それに対して、一般町人である地借人や店家人(たながりにん)はどうしていたかというと、町入用という税金も納めなければ、寄り合いにも参加しない。地域自治のことはすべて大家にお任せだった。実はこの点が、この後説明する村の寄り合いとは違う点だ。

村では、地主だけでなく小作人も、村入用、今日でいうところの村民税を負担し、寄り合いにも参加して、地域のことの相談に与かっていた。

ねずみ小僧次郎吉が屋根伝いに逃げた理由

江戸の地借人や店借人は、荻生徂徠によれば「江戸は諸国の掃溜」と言われていた人たち、農村で食いつめてきた移住者たちが多かった。

九尺二間というから、約3坪の裏店(うらだな)住いというのが一般的だった。両国の江戸東京博物館に行けば、当時の長屋が復元されているので、その模様をご覧いただけるが、そのような長屋に住んでいた地借人や店借人、落語で言えば、熊さん八っつあんに、町入用の負担を求めたり、地域のことに責任を持てというのは無理だったということだ。

彼らも、店5人組といったものを設けて、それなりの自治を行ってはいたが、それは自分たちに関することだけで、地域のことは家主たちの寄り合いで決めてもらっていたというわけである。

江戸の自治は、業界ごとにも行われていた。旅籠(はたご)、両替、質屋、札差(ふださし)、飛脚、呉服といった業界ごとに寄り合いがあった。また地方においては、「若衆宿」といった若者の自治が行われていた。さらには、「牢名主」という言葉があるように、監獄でも自治が行われていた。

ねずみ小僧次郎吉が屋根伝いに逃げた理由

江戸の自治がどれだけ幅広く行われていたかに関しては、権力行政の代表とも言える警察も自治で行われていたということをお話すれば、よりイメージがわくだろう。読者諸氏は、ねずみ小僧次郎吉というのをご存じかと思う。かつての時代劇のヒーローの1人だ。18世紀後半の化政期(文化、文政)に、もっぱら大名屋敷を荒らした盗賊だが、その次郎吉が映画などで捕り物の役人に追われて逃げる際には、必ず屋根伝いに逃げていた。

筆者は、「ねずみが屋根裏を這い回るからなのか」「それにしても不思議だな」と思っていたのだが、実はねずみ小僧には、そうする合理的な理由があった。それは、江戸時代には、夜には町ごとの木戸を閉めることになっていたので、夜は道が袋小路になっていたということだ。そんな道を逃げたのでは、たちまち捕り方に追い詰められて御用となってしまうので、次郎吉は屋根伝いに逃げたというわけだったのだ。そして、夜になって町ごとの木戸を閉めていたのが、町方や武家方の自治で置かれていた自身番や辻番という人たちだった。勝海舟が言っていた自身番である。

江戸の町方の自身番は、嘉永3年に990箇所あったが、そこにはその地域の住民が週番で詰めていて、夜の10時には大木戸を閉めた。その後は左右の小木戸を通る通行人を監視していた。そのようなシステムの下で、江戸の長屋住まいの住民は鍵などとは縁のない生活を営んでいたというわけだ。

町方の自身番は、今日で言えば、町内会の役員という感じで、その番所は町内の会合や相談所としても利用されていたということなので、警察というのとはちょっと違う感じもするが、武家地に置かれていた辻番は、まさに今日の警察だった。

昼は2ないし4名が、夜は4ないし6名が、地域の武家屋敷などから詰めていて、大木戸の開閉といったことだけでなく、所管区域の見廻り、挙動不審者の留置、喧嘩辻斬りの報告、行倒れや泥酔者の介抱などを行っていたのだ(天和3年)。

実は透明性が高かった江戸時代の村民税

それでは、江戸以外の地方の自治はどうだったのか。江戸時代の300諸侯は、今日の感覚で言えば「独立国」だったから、今日の県の自治などよりも、よほど高度な自治が行われていた。幕府からは、大きな河川の改修や幹線街道維持などのための負担を求められることはあっても、定常的な財政負担を求められることはなかった。

また、特にひどい一揆でも起こらない限り、幕府から指図されたり資金援助を受けたりすることもなかった。藩は独自の軍隊(藩士)を持ち、藩札という独自の通貨を発行していた。また、綿や藍玉の専売といった独自の産業政策(勧業奨励)を行っていた。そのような当時の日本の国の形は通貨統合前のEU諸国だったと考えれば、わかりやすい。そして村では、幕府の領地(天領)であるか、300諸侯の領地であるかを問わず、村の住民による自治が行われていた。

さて、そこで江戸時代の村の自治である。江戸時代は農業が主体の経済なので、ほとんどの人は村に住んでいた。よって江戸の自治の基本は、村の自治だった。藤田武夫という地方財政学者が昭和16年に出した本を見ると、その江戸時代の村の自治の様子が紹介されている。

「経常的な入用は村役人これを立替へて支出し、臨時的なものは高持百姓集合相談の上これを支弁し、年末に総入用を割付ける際に高持百姓立会ってこれを改め、且惣百姓得心の上これを割賦した。白紙帳に一切の入用を詳細に記入し、毎年春支配役所の検閲を受ける」というのである。

かいつまんで説明すると、村で毎年必要になる費用(「経常的な入用」)は、村役人(庄屋や名主といった人たち)が立て替えて支出する。臨時的なものは高持百姓(土地をたくさん持っているという意味で資力がある村民)が集まって相談の上、立て替えて支弁した。そして年末になると、秋の収穫後なので、土地をあまり持っていない百姓も相応の負担ができるようになっており、総入用、つまりそれまでに村役人や高持百姓たちが立て替えていた費用の全額をみんなに割り付けることになる。その際には、高持百姓が立ち会って白紙帳に詳細に記載されている一切の支弁額が正しいかどうかを確認し(改め)、惣(村民全員が参加する自治組織のこと)の百姓みんなが納得(得心)の上、これを割り付けた(割賦した)のである。

そして、白紙帳に記入されている支出(入用)については、毎年春に代官所など(支配役所)の検閲を受けていた。それは、内容に不審な点があれば、村人なら誰でも代官所などに訴え出ることができることになっていたからだった。当時の村民税(村入用)は、このような透明な手続きで、毎年毎年、課税が行われていたのである。

フランスでも日本でも行なわれた単年度課税制度

このように、毎年毎年、課税が行われることを、単年度課税制度という。今日のわが国では、税は一度決められると、その後は毎年、国会や町村会で審議されなくても、決められた税を税務署などに納めなければならない。その感覚からすると、ちょっとびっくりするような仕組みだが、フランスでは今日でも行われている仕組みだ。実は、わが国でも、先の戦争までは行われていた仕組みだった。実は、この仕組みは、税が民主主義の基本だということを考えれば、ごく自然に理解できる制度なのだ。

フランス革命につながったフランスの3部会というのがあったが、基本的に、王が戦争などで必要になった費用を、貴族や商人に、新たな課税で出してもらおうという目的で集めたものだった。原理としては、村役人が支出した村の臨時の村入用を、高持百姓を集めて出してもらったのと同じだ。英国のマグナカルタも、王が戦争のための費用を賄うために、新たな税を貴族たちに賦課する際には、「税を負担させられる貴族たちの同意を得なければならない」といったことを定めていたものだ。

米国のケースで言えば、アメリカ独立戦争時に、ボストン・ティーパーティー事件というのがあった。英国が、当時自分の植民地だった米国において、お茶などに英国議会で決めた税をかけていたが、英国議会には植民地からの代表は送られていなかった。「それはけしからん」と言うので「代表なきところに課税なし」というスローガンを掲げた。つまり、フランスの3部会でも、英国のマグナカルタでも、米国のティーパーティーでも、納税者の代表が税金を決めるのだということが言われていたわけで、それが近代的な議会制民主主義の原点だった。

そのような観点からすると、自分たちの税金を自分たちで決めていた江戸時代の村の仕組みは、近代的な議会制民主主義の原理と同じものだった。納税者集会だったと言えば、わかりやすいかもしれない。

実は、そのような江戸の自治の伝統を受け継いだ制度を地方議会に導入しようとしたのが、山縣有朋だった。

そのことは、山縣が明治20年代に導入した地方議会の複雑な選挙制度を見ると、よくわかる。ここではまず、山縣が町村会の選挙に導入した町村の等級選挙について、ご紹介したい。一等級、二等級という等級に分けた選挙制度である。

続く・・・近日・・こうご期待

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