「いるよな~こんな輩」

画像の説明 今の日本には、学歴で個人を評価することに対して「時代遅れ」という風潮がある。

しかし、表には出にくくなっても、他者の学歴に対する興味や差別意識、自分の学歴に対する優越感、劣等感などは、今も昔も変わらずに人々の中に根付いている。

たとえば日本企業の中には、採用において人事部は学生に学歴を聞かないようにする、社員の配属、昇格、あるいは降格や左遷といった人事評価においては仕事における個人の能力や成果のみを参考にする、という考え方が広まっている。しかし実際には、学歴によって選別しているとしか思えない人事はまだまだ多く、学閥のような不穏なコミュニティもいまだに根強く存在する。

そうしたなか、「何を基準に人を判断すればいいのか」「自分は何を基準に評価されているのか」がわかりづらくなり、戸惑いも生まれている。このような状況は、時として、人間関係における深刻な閉塞感やトラブルを招くこともある。学歴は「古くて新しい問題」なのだ。

これまでの取材で、会社員をはじめ、実に多くの人々の学歴に関する悲喜こもごもを見て来た。学歴に翻弄される彼らの姿は、まるで「学歴病」に憑りつかれているかのようである。本連載では、そうした「学歴病」の正体を検証しながら、これからの時代に我々が議論すべき「人生の価値基準」の在り方を考える。

人生に行き詰まった人々が自分を奮い立たせる「学歴」という最終兵器

学歴は、人生が行き詰まったときに、自分を奮い立たせるための1つの武器なのかもしれない。

先月、東京大学地震研究所の准教授だった都司嘉宣(つじ・よしのぶ)さん(68)(現在、深田地質研究所客員研究員)を取材したとき、こんなことを語られていた。

「どこの学校をどのような成績で卒業した、ということは、その後社会人になってから、大きな影響を与えるものではないと私は思います。私は人をみるとき、学歴は一切、無視します。研究者の力を判断するときも、論文や学会などでの活躍だけに興味がわきます」

その通りだと思う。しかし、企業社会を二十数年取材していると、学歴にいつまでもしがみつく人たちがいることもまた、事実なのである。中には、「高学歴でもなかなか認められない」と嘆く人も多い。その姿は、どこか哀れで悲しみを誘う。

その一例を挙げたい。

2010年の暮れ、筆者はある忘年会に参加した。主に出版界などで仕事をするフリーライターやフリーの編集者、デザイナーなどが集う場だった。30人ほどの中で、テーブルの隅に、異様に盛り上がっている女性3人がいた。筆者はその横に座っていた。

早稲田卒の同期をバカにする一橋出身の負け組コンサルタント

3人は互いに最終学歴を名乗り合い、権威を確かめ合うような挨拶をする。彼女たちの最終学歴は、北海道大学文学部大学院修士、上智大学文学部大学院修士、早稲田大学第一文学部大学院修士だった。

平均年齢は30代後半。現在の仕事の話をすることはほとんどなく、出版社で働く編集者の人事について盛り上がる。彼女たちが一緒に仕事をしている編集者たちだ。忘年会よりも数ヵ月前の9月~11月、いくつかの出版社で人事異動や昇格が発表されたのだという。

女性たちは自らの思いを伝えようと、上半身を前のめりにするほどだった。

「(出版社に勤務する編集者が)人事異動を命じられて、その場で“はい”と返事をするのは甘えじゃない?」「編集者は、自分(の考え)を持っていないよね」「(編集者は)主体性がない!」「(編集者は)自分を持たないと! 2本の足で立って生きないと! プライドを持つべき!」「どこの大学を出ているのかな?」「立教とか明治ならば、編集長なんかなれないよ」「早稲田は、今は局長になるのは無理」「あの人は東大? 局長はともかく、役員は無理じゃない?」「私たちみたいな(大学)院を出ている人なんて、あのクラスにはいないよ」「今は、院ぐらいは出ていないとね」

こんなやりとりが、その後も延々と続いた。

筆者は疑問が尽きなかった。そもそも、出版社に勤務する編集者が人事異動を受け入れることがなぜ、「自分を持っていない」ことになるのか。「主体性」「プライド」とは、こんな文脈で使う言葉なのだろうか。ましてや「学歴」などということが関係あるのだろうか。そもそも、生活を夫に養ってもらいながら、著者として本を1冊も書いたことがないこの女性たちに、そんなことを語る資格があるのだろうか――。

3人は高学歴かもしれないが、実際フリーライターとしての実績は限りなくゼロに近い。それだけに、理解ができぬものだった。

早稲田卒の同期をバカにする
一橋出身の負け組コンサルタント

もう1つの事例を紹介しよう。

2011年、一橋大学(学部は不明)を卒業した40代半ばの男性を取材した。男性は、十数年前から経営コンサルタントをしている。その前は、大手メーカーなどに勤務していた。その頃の話になると、男性は同期の人たちを徹底的にけなした。

「早稲田を卒業した連中のほとんどは、部長になるのが精一杯。それも部長とはいえ、出世コースから外れた部長でしかない。本部長、役員になるコースは東大か、一橋出身」「早稲田の連中と今会うと、多くは白髪が目立ったり、禿げている。会社員は本当にみじめだね」

「会社員」をこきおろす「高学歴な負け組」たちの共通点

確かに同期生には、早稲田大学卒の社員が比較的多かったようだ。仮にその会社で東大卒と早稲田卒の社員の昇格に大きな差があったとしても、それがこの男性に何の関係があるのだろうか。「髪の毛が薄くてみじめ」だと言うならば、この男性もまた、額の生え際は禿げ上がっている。自分自身もみじめではないか。

彼ははるか前に退職し、小さな会社に勤務し、そこも退職した。コンサルティング会社に移ったものの、1年で退職し、数年前からフリーのコンサルタントをしている。残念ながら、大活躍するレベルにはいたっていない。40代半ばという年齢を考えると、前途は厳しいかもしれない。

その意味で、不満を感じているようだった。「一橋を卒業している自分がなぜ、認められないのか」と言いたいように私には見えた。童話に出てくる子どものように、疑いのない表情で真剣に、かつての同期生をけなしていた。胸には抑えることができない焦りや、自分を認めない世の中に対する復讐心があるように思えた。一方で、言いようのない空しさに打ちひしがれているようだった。

今50歳を前に冷静に見渡すと、復讐の牙で噛む相手もいないし、闘う場すら与えられえていないのが現状だ。言いようのない空しさに打ちひしがれているようだった。

「会社員」を徹底的にこきおろす高学歴な負け組たちの6つの共通点

前述した3人の女性たちとコンサルタントの男性には、いくつかの共通点がある。
(1)超高学歴である(全員が名門大学の修士課程修了)
(2)学部卒でいったん卒業し、会社員になるが、数年で退職・就職を繰り返し、30歳前で3~4つの会社に籍を置いた経験を持つ
(3)そのいずれの会社でも、さしたる実績を残していない
(4)会社員を辞めて、社会人として大学院の修士課程に進む
(5)修士号を得て、また社会に戻るが、大きな活躍ができない。めぼしい実績もない
(6)「母校」を愛するが、大学教授などとして迎えられることはない

この(1)~(6)に加え、会社員を徹底して否定することも共通項と言えよう。冒頭で述べたように、このようなトリッキーな言動をとる人たちを「学歴病」と捉えることとする。

なぜ、高学歴の人たちが「学歴病」になってしまったのか
高学歴者が“潜在的な能力”を持つと“想定”する能力観

著者の岩田龍子氏は、この本を著した1977年当時、武蔵大学教授だった。終身雇用や年功序列など日本的経営の課題について、文化論の側面からアプローチすることで注目を浴びていた。日本的経営の研究者として名高い小池和男氏(当時、法政大教授)などにも論争を挑む、気鋭の学者だった。

岩田氏は、学歴云々を論じる前に、日本社会の能力観には2つのニュアンスが含まれていると言及する。「(1)能力は、ある漠然とした、一般的な性格のものとして受け止められることが多いこと、(2)能力は、訓練や経験によってさらに開発されるべき、ある潜在的な力であり、したがって、ただちに実用に役立つ力、つまり“実力”とは考えられていないこと」である。

一方で氏は、米国の能力観を「訓練と経験によって現実に到達しえた能力のレベル」と捉えている。そしてこれらの能力観から、米国では日本の競争とは違った意味合いを持つ競争になると説く。

「米国社会では、人びとは、いわば局部的にしか競争にまき込まれていない」「競争における個々の勝敗は、人生における長い一連の“戦い”の局面にすぎない」

さらに日本の能力観に基づくと、人々が次のような意識を持つことになりがちだと説く。

「“できる人”は潜在的によりすぐれた一般的能力を賦与されており、彼がその気になりさえすれば、いかなる領域においてもすぐれた力を発揮するのであり、逆に、“駄目な奴”は乏しい潜在的な能力しかもちあわせていないために、何をやらせてもうまくゆかないのである」

高学歴者が“潜在的な能力”を持つと“想定”する日本企業の能力観

日本企業の能力観は「高学歴者は“潜在的な能力”を持つと“想定”される」というもの

岩田氏はこう論を進める。

「わが国では、一流大学の卒業生達は、その“就職戦線”において、他の卒業生よりはかなり有利な立場に立っている。このことは、彼らが、“実力”において他に抜きんでているからではない。むしろ、これは、彼らがよりすぐれた“潜在的な能力”をもっていると“想定”されるからであり、入社後の長期にわたる訓練の結果、次第にその“能力”を発揮すると期待されているからである」

岩田氏の指摘を踏まえると、前述した4人の超高学歴な人たちは、それぞれが経験した20~30年前の大学受験という競争では、“勝利者”だったと言える。

そして、就職戦線では“潜在的な能力”を持っていると“想定”された。

ところが会社に入り、一定の月日が過ぎると、その想定は誤りだった可能性がある。4人とも、実績を残すことなく、明確な理由もなく、数年で転職を繰り返した。30歳前で、その数は3~4つになった。その転職の流れやキャリアに一貫したものがない。こうなると、通常はキャリアダウンであり、労働市場においての価値は著しく下がって行く。

日本社会に巣食う「学歴病」、その現状と果てしない闇

一方で、4人の同世代の会社員の中には、30代前半~後半で早々と課長、部長などに昇進した人もいたはずである。その中には、4人よりも難易度の低い大学を卒業した人も少なからずいるだろう。

岩田氏の言葉を借りれば、「“能力”を発揮すると期待されていない人」が、「潜在的によりすぐれた一般的能力を賦与されていて、いかなる領域においてもすぐれた力を発揮する人」をはるかに追い抜かしてしまったのである。

4人は、この現実を素直に受け入れることができないのではないか、と筆者は思う。だからこそ、「自分を持っていない」「彼は、早稲田しか出ていない」「白髪が……禿げ頭で……」などと、他人をこきおろすのではないだろうか。

前述の能力観をベースにして考えると、4人は拭い去れない劣等感を持っている可能性がある。それは言い換えると、「恐怖心」なのではないか。自分が「実は潜在的な能力が低い人」とレッテルを貼られることに怯え、ささやかなプライドを守るために、会社員をけなし、否定するのではないだろうか。

岩田氏が唱えるような旧態依然とした日本の能力観が、日本の企業社会の隅々に浸透しているがゆえに、様々な問題が生じることを考えたい。

たとえば、新卒の採用方法が時代の変化についていけない理由の1つも、このあたりにあるのではないだろうか。

社内では、職務給や成果主義がフェアな形で浸透していない。グローバル化が進まない壁の1つも、ここにある。社内でのいじめやパワハラ、セクハラ、長い労働時間、過労死などが発生する大きな理由も、実はこの能力観にあると筆者は考えている。

あなたはどう感じるか?日本社会に巣食う「学歴病」の正体

冒頭で紹介した東京大学地震研究所の都司嘉宣・元准教授は、取材の最中、こんなことを語られていた。

「3ヵ月もあれば、大学の学部を卒業した学生たちの力を確実に見定め、研究者としての適性の有無などがわかります。特に、基礎学力や英語力、論文を書く力、(専攻である)地球物理への興味や関心の程度、ビジネスマンとしての行動力、意志疎通する力などは、かなり正確にわかります。

民間企業も、新卒のとき、たった一度の採用試験で内定を出そうとするから、学歴を重視した形にならざるを得ないのだと思います。多くの会社が、一定期間のインターンシップなどを設けて、その過程で学生を選ぶようにしたほうがいいと私は考えています。そのようにすると、東大を中心とした高学歴層の学生を重視した採用も、やがて変わっていくのではないかと思います」

あなたは、この指摘をどのように受け止めるのだろう。

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