2018年11月1日よりタイトルをWCA(世界の時事)に変更しました。
「学びは机の上だけではない」
成功する人は、多くの知識を持っている。
しかし、彼らの知識は机の上だけで勉強したものではない。
彼らは、必ず日々の生活を常に学びの場として意識している。
僕らは、年齢を重ねる度に後輩や部下などの存在ができるだろう。
そして様々な事を教えなければならない立場になるが、教えるという事は場合によってはキミの成長を止めることがある。
僕の友人に小学校の教師がいる。
彼はいつも生徒に教えることのネタ探しばかりしている。
どんなふうに教えれば、子どもたちの理解が深まるのか。
彼が持つ子どもへの情熱は、本当に素晴らしい。
ただ、彼には気になる部分がある。それはお行儀が悪い点だ。
彼はふたりで会食に出かけると、必ず食べきれないほどの料理を頼む。
そして料理がテーブルに並べられると、「いただきます」と手も合わさずに手当たり次第に箸をつつくが、全てを食べずにまた新しい皿に手を伸ばす。
最終的に食べきれる事はなく、お茶碗には、必ずご飯を残して食事を終了する。
優秀な師は常に学び、成長している
あるとき、僕は彼に聞いた。
「今の小学生は、お茶碗のごはんを残してもいいの?」
彼は、悪びれることもなく「みんな残さず食べるよ」と答えた。
教師は教える仕事だから、子どもたちから学ぶことはないのか?
お行儀の部分では、明らかにこの教師よりも子どもたちの方が上である。しかし、彼は教えることばかりに目を向け、子どもから学ぶことはない。
優秀な師とは必ず常に学び、成長している存在だ。
それは相手が子どもであっても関係ない。
仮にこどもが真剣な表情で「いただきます」と手を合わせていれば、その姿を見て自分の行動を見つめ直し、改めて食べ物に対する感謝の心を学ぶはずだ。
それは自分にとって都合の悪い人間であっても同様だ。
自分が個人的に嫌いな人間を認めることが出来る人は少ない。
しかし、他人は自分にとって師と成り得るという事を成功する人は忘れてはいけない。学び手が本物なら、師はどこからでもやってくる
学びの本質は、学問の種類や教師の質ではなくキミの学ぶ状態だ。どんなに優れた学問や教師を目の前にしても、キミが授業中に寝たり、休んでしまっては優れた学問は手に入らない。
しかし、どのような種類の学問でも、キミが何かを学ぼうと思えば、必ず得るものがあるだろう。つまり、学びとは相手の質ではなく自分の状態を言うのだ。
キミが成功する人を目指すなら、常に自分以外の人間を師と思わなければならない。
相手が例え子どもであっても、後輩であっても、キミが本物であれば必ず学びは訪れる。
だから、僕は常にこの言葉を意識する。
「学び手が本物であれば、師はどこからでもやってくる」