「偉人」

画像の説明 だいぶ冷えるようになってきました。

寒い夜はなんだか熱燗で一杯、キューといきたい気もします。
そんな日本酒の製法が、実は、世界の医学にものすごい影響を与えたというお話です。

アドレナリンといえば、一種の興奮剤として広く世界に知られている医薬品で、心停止時に用いられたり、敗血症に対する血管収縮薬、気管支喘息発作時の気管支拡張薬として用いられています。アドレナリンは、日本人が発見した物質です。発見者は、高峰譲吉(たかみねじょうきち)です。

高峰譲吉は、他にもタカ・ジアスターゼを発見しています。
タカ・ジアスターゼは、これまた胃腸薬、消化剤として世界に普及しています。日本では、新三共胃腸薬の主成分が、このタカ・ジアスターゼです。高峰譲吉は、古くから餅を食べるとき大根おろしをつけて食べると胃がもたれないということがヒントとなって、このタカ・ジアスターゼの発見に至ったと言われています。

ちなみにジアスターゼと日本人の関係は古くて、日本書紀には神武天皇が戦勝を祈願して水飴を神様に奉納したという記述がありますが、その水飴は、デンプンにジアスターゼを混ぜて分解してつくります。つまり日本では、ジアスターゼは、とっても古くから使われていたものです。

さて、高峰譲吉は、嘉永7(1854)年に、富山県高岡市で、加賀藩の漢方典医、高峰精一の長男として生まれています。
幼い頃から外国語や科学に才能を見せた譲吉は、加賀藩の藩校である明倫堂に8歳で入学しました。

世が幕末を迎えた慶應元(1865)年、譲吉は、よほど頭が良かったのでしょう、若干12歳で、藩費で長崎に留学し、英語を学ばせてもらっています。

明治元(1868)年には、京都の兵学塾、大阪の緒方塾で学び、明治2(1869)年には、わずか16歳で大阪医学校に入学し、その後、後に東京大学工学部となる工部大学校の応用化学科を、首席で卒業しました。

明治13(1880)年、譲吉は、英国グラスゴー大学への3年間留学しました。英国で彼が興味を持ったのは、スコッチ・ウイスキーの製法です。ウイスキーは、大麦のモヤシにあたる麦芽酵素でデンプンを分解させて糖化させます。できあがったモルトを蒸留すると、ウイスキーになります。

デンプンの分解なら、大麦の麦芽酵素より、日本酒に使う麹(こうじ)を使用したほうが効率的です。麦芽酵素より、日本で使われる麹(こうじ)の方が、でんぷんの分解力が強いからです。つまり、麹(こうじ)を使うことで、ウイスキーが、早く、たくさん作れる、といわけです。

そこで彼は英国留学中に、「高峰式元麹改良法」を考案しています。もともと譲吉の母親は、造り酒屋の娘さんで、譲吉は、幼い頃から日本酒造りを習得していたのです。

明治16(1883)年、譲吉は帰国して、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって、専売特許局局長代理になります。
官職を得た譲吉ですが、ただのお役人になっておとなしくしていることができない。

英国や米国のエネルギッシュな社会を見てきた譲吉は、日本の農業用肥料を改良し、農作物の収穫を飛躍的に高めようと考えます。そして日本の土壌にあった肥料を探し、研究するとともに、それを製造して販売する会社を設立してしまう。

こうした研究開発や、技術指導は、お役所仕事よりも民間企業の方が展開が速いと考えたのです。彼は、渋沢栄一から資金を提供してもらい、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立します。

ちなみに、こうした「官よりも民」という発想は、何も最近の現代人の専売特許ではありません。そもそも明治政府の方針自体が、根本的に「民の生活をサポートする」という方針です。
もっというなら、明治16年頃の明治政府というは、お金もなくて、たとえば学制を敷いて小中学校をつくるに際しても、その資金は各地の民間頼みです。

さて譲吉は、明治17(1884)年には、米国人女性、キャロライン・ヒッチと婚約しています。

もともと語学が堪能であることに加えて、彼は自分で開発した農業用肥料を米国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に持ち込み、さらに日本代表の事務官の一員として万博に派遣されていたのです。そしてその万博会場で、とキャロラインと出会っています。

明治19(1886)年、再び帰国した譲吉は、かねて米国で特許出願中だった「高峰式元麹改良法」を採用したいという連絡を、米国の酒造会社から受けます。当時の日本では、まだウイスキーは一般に製造販売されるものにはなっていません。
自分の研究を続け、新開発のウイスキー製造法を普及するには、ふたたび渡米しなければならない。それにアメリカには、婚約者のキャロラインもいます。

当時の東京人造肥料会社の大株主は渋沢栄一です。
渋沢栄一は、作ったばかりの会社で、まだ軌道にものっていないのに、いまの段階で会社を放りだして渡米するとは何事かと、譲吉をたしなめたけれど、譲吉にしてみれば、会社の事業の柱になるべき新醸造法の研究と普及のためには、渡米しなければならないわけです。

迷う譲吉に、三井物産社長の益田孝は「これからは日本だけを考えていてはだめだ。お国のためにも渡米せよ」と強く勧めてくれ、資金面の面倒も見てくれています。このとき譲吉、36歳です。

明治23(1890)年、渡米した譲吉は、木造の研究所をこしらえて米麹(こうじ)を使ったウイスキー作りの研究をしました。譲吉の読みは見事に当たり、米麹(こうじ)ウイスキーで、安く量産されたウイスキーは、全米を席巻します。譲吉は、晴れてキャロラインとも結婚します。

ところが、米麹ウイスキーの普及拡大で困ってしまったのが、それまでいたモルト職人たちです。職を追われてしまったのです。

モルト工場に巨額の投資をしていた醸造所のオーナー達も、投資が水の泡になってしまう。なぜ水の泡になったかというえば、「もとをたどせばイエローモンキーのジャップが、みょうちきりんな製法をもちこんだせいだ、コイツだけは許せねえ!」ということになって、怒ったオーナーやモルト職人たちが、譲吉の殺害を企てます。

この時代、まだまだ人種差別が濃厚だった時代です。白人以外は、どんなに叩いても血を流しても、痛みを感じる神経がないと、本気で信じられていた時代です。黄色人種など、ペットの猿以下の動物でしかない。まして黄色人種の命など、野良ネコの命ほどの重さもない。

もうひとつ重要なことは、世界では(これはいまもですが)「報復のおそれのない相手に対しては、どんなひどい仕打ちをしても許される」というのが、いわば「常識」なのです。

弱い者いじめはするな。
喧嘩するなら正々堂々、自分より強いものと当たれ!などというのは、日本人の価値観であって、世界は違うのです。強ければ、武器があれば、何をしても許されるという「力の正義」が堂々とまかり通るのが、いまだに人類社会の情況です。

このことは、譲吉の時代の米国が、南北戦争が終わって間もない時代だったからということは理由になりません。日本には原爆が落とされていますが、これは、その時点で日本にもはや反撃、すなわち日本からの報復のおそれがまったくないという状況だったから落とされています。

もし日本に原爆を落としたら、ニューヨークかロスに、報復のための原爆が投下されるという危険が万分の一でもあったら、日本に原爆は投下されていません。

もうひとつ、米国人のマインドという面において付け加えるならば、今のアメリカは訴訟社会です。けれどそれは、西部劇のガンマンの持つ銃が、法に変わっただけのことです。銃は相手のすべてを奪うけれど、法を盾にして相手のすべてを奪うのが訴訟社会です。

和を大切にし、三方一両得を説く日本とは、根本的な考え方が違うところがあります。ただ最近は、日本的な価値観が、日本以上に米国内(というより世界に広がり)、それがディズニー・アニメの『インサイド・ヘッド』のような対等感になっています。

さて、モルト工場の投資家やオーナーやモルト職人たちは、夜間に譲吉とキャロラインが住む家に、銃で武装して侵入し、家じゅう探し回って、譲吉を殺害しようとしました。

譲吉夫婦は、あやうく地下室に隠れて難を逃れるのだけれど、腹を立てた醸造所のオーナーたちは、腹いせに、譲吉の家や研究施設に火を放って、家を全焼させてしまいます。

生き残った譲吉は、オーナーやモルト職人たちと話し合いの場を設けています。

そして新しい醸造工場に、モルト職人を従来より「高い賃金」で雇うことで和解しています。新しい醸造工場は、米麹ではなく、モルトを使った工場です。要するに、譲吉の考案した米麹ウイスキーは、東西の文化摩擦によって挫折したのです。

譲吉は失意のうちに、重い肝炎にかかり、以後、長く闘病生活を米国で送っています。

しかし、そこでくじけないのが明治の日本人魂です。譲吉は、麹の研究を通じて、明治27(1894)年、デンプンを分解する酵素であるジアスターゼを植物から抽出することに成功します。

このジアスターゼに、譲吉は「タカ・ジアスターゼ」と名付け、デトロイトの医薬品会社パーク・デイビスから、これを消化薬として発売しました。

譲吉が住んだシカゴは、当時米国内で有数の肉製品の産地です。

大量の肉を食べて、消化不良を起こす人も多かったのです。
譲吉の発明した「タカ・ジアスターゼ」は、またたくまに全世界に普及し、製品は大ヒットします。
このとき、譲吉は、販売権の付与にあたって、日本だけをバーク・デイビス社から外させています。

譲吉の日本に対する思いが、こんなところに出ています。

明治32(1899)年、譲吉は、日本で「タカヂアスターゼ」を販売するために、三共商店(現三共)を設立しました。さらに譲吉は、シカゴに多数ある食肉処理場から廃棄される家畜の内臓から、明治33(1900)年に、アドレナリンの抽出に成功します。

これは、世界ではじめてのホルモン抽出事例です。

翌年、譲吉は、アドレナリンの特許を取得しました。
アドレナリンは、止血剤として、あらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献する。ジアスターゼの発見、アドレナリンの発見によって、譲吉は巨額の特許収入を得るようになります。

明治43(1910)年には、2年がかりで、ニューヨークのマンハッタンのリバーサイドに、純日本風の大邸宅を建築する。
またニューヨーク州メリーワルドには、敷地面積245万坪の別邸を建築し、そこには、明治37(1904)年に、セントルイス万博で使われた日本館を移築しただけでなく、庭には湖や滝までこしらえています。

譲吉はこの大邸宅で、華麗なる民間外交を展開し、日露戦争における日本の米国からの戦費調達などにも貢献しています。
また、日本にある三共商店は、大正2(1913)年に、三共株式会社(現在の第一三共株式会社)に改組し、譲吉が初代社長に就任しています。

そして大正11(1922)年、譲吉は68歳でこの世を去りました。

問題は、このあとに起こります。
譲吉よりも先にアドレナリンの生成に成功したと発表していたジョンズ・ホプキンズ大学のJ.J.エイベル博士が、譲吉の死後、昭和2(1927)年になって、「高峰譲吉の成果は、自分の手法を盗んだ」と主張したのです。

裁判が行われたわけでも、証拠の検証が行われたわけでもなく、大金持ちの大資産家である譲吉の家族から、すべてを奪い去ろうとしたのです。

そもそもイエローが大富豪となっていること自体が気に入らないのです。そういう社会風潮があって、米国医学会は、エイベル博士の言い分を全面的に認めてしまいます。

そして以降、米国内では「アドレナリン」という名称は廃止され、エイベル博士が名付けた「エピネフリン」という名称が用いられるようになります。要するにジャップの業績は抹殺しようということです。

ところが、真実というものは、時間はかかっても、かならず明らかになるものです。

昭和40年代になって、譲吉の研究助手だった上中啓三の実験ノートから、エイベルの主張がまったく的外れであっただけでなく、エイベルの方法(ベンゾイル化法)ではアドレナリンが結晶化しないことが判明します。譲吉の盗作疑惑は、まったくの濡れ衣だったことが明らかになったのです。

そしてこの事実は、アドレナリン発見後100年を記念して米内分泌学会が平成13(2001)年になって、アドレナリン発見百年のシンポジウムで報告され、譲吉は晴れて名誉を回復し、米国内でも「アドレナリン」の名称が再び使用されるようになりました。

エイベル博士が異を唱えたのが昭和2(1927)年です。
それが間違いとわかり、譲吉が名誉を挽回したのが平成13(2001)年です。アドレナリンの名称が米国内で復活したのが、平成14(2002)年です。そこまでになんと75年の歳月が流れています。

世代交代というものは、25年をひとサイクルにしているといわれています。25年で、ひとつの世代が終わり、50年で2世代、75年で3世代が交代します。

ひとつの名誉が、政治的圧力等で穢されたとき、世の中が冷静さを取り戻して真実の姿が明らかになるのには、三代かかるということです。

日本が戦争に敗れて、今年で70年目です。
75年目というと、平成32(2020)年です。
日本が大きく変わる。

その節目がやってきているように思います。

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