「実像」

画像の説明 屎尿(しにょう)はどう処理をするのか。家の中に大きな石のカメがあり、これに用をたす。これをとっておき、農家や仲介業者売る。

華北では、営業許可を得た農家や業者が毎日のように、呼び声高らかに、手押し車や荷馬車を引いて。
華南では、天秤棒に桶を二つぶらさげて買いに来るから良いが、内陸部の田舎はひどい。客室と同じ棟に巨大なカメがデンと座っている。なかなか処理しないから、慣れない客はたいへんだ。脱臭剤など見たことも聞いたこともない。

都市部から田舎へ向かう屎尿買い付けの長い列が続く。
写真で見ると実に素晴らしい。見渡すかぎりの田舎道、山道を、桶を二つぶらさげた天秤棒を担いで、何千という人間がのろのろ歩いていく。古くなって中程がへこんだ屋根の家や、灰色の竹と日干レンガのあばら屋などがごちゃごちゃした中に、高くそびえる塔がひとつ、ふたつ見える街から集めた屎尿を畑に撒きに行くのである。伝統的な畑造りである。

華南では、担ぎ手は大抵が女で、痩せてはいるが足腰は強く辛抱強い。年嵩の女連中は、荷物で重くなってキーキーいう竿(さお)にあわせて掛け声をかける。決まったようにくるぶしと膝の中ほどまでの黒い木綿のズボンをはき、よほど暑くない限り何もかぶらない。上着は何度も洗うから、色落ちしている。足は裸足である。

若い娘の中には目もと明るい美人もいる。
また、赤いヘアバンドをしている者もいる。これは人妻の印である。ぽっちゃり型で元気であるが、歳をとるのが早いから、すぐに歯が欠け、おばあちゃんになる。

街の市場で買い物をする者がいる。魚一匹、田舎では買えない野菜一束等である。これを桶の側にぶらさげるから、糞尿がかかる。

手押し車や荷車で市場に野菜を運ぶ者がいる。前日、糞尿を入れた同じ桶に入れてなんとも思わない。まして糞尿がかからないように包もうなどとは、まったく考えない。

彼らは伝染病が流行るときは大変だ。流行に一役買うことになる。屎尿を桶にめいっぱい汲んで蓋をしない。毎日通る道をヌルヌルに汚して、全く気にしない。そこで遊んだ子供や犬や豚が、バイ菌を家に持ち込むのである。

写真で見たらきれいな田舎の風景ではあるが、現実はきれいごとでは済まされない。街から集めた屎尿を水で薄め、作物に撒き、家族総出で一日中、土になじむように裸足でこねまわすのである。真夏の強烈な日差しに照らされると、美しい田園風景どころではない。
一面、悪臭で息もできなくなり、一度足を踏み入れたら、必ず具合が悪くなる。

これは、ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸 中国の真実』の82ページからの抜粋です。

著者のタウンゼントは米国人で、米国務省に入省し、昭和6(1931)年に上海副領事として支那に赴任。
満州事変に伴う第一次上海事変を体験し、その後福建省に副領事として赴任し、昭和8(1933)年に米国に帰国してこの本を出版しています。

タウンゼントは親日派の言論を展開したために、大東亜戦争開戦後にまる1年間投獄されてしまいましたが、もし当時の米国が支那の買収による宣伝工作に乗らず、冷静かつ客観的にタウンゼントの言を淹れ、東亜政策を変更していたら、おそらくは大東亜戦争は起きなかったでしょうし、またその後の支那国民党と支那共産党の争いもなく、支那共産党による1億人規模の虐殺も起こらなかったことでしょう。

支那は当時、辛亥革命によって清王朝を滅ぼし、紫禁城内にあった清王朝の所有する財宝類を、まるごと手中にしました。
これらの財宝は、値段のつけれないような高価な品々です。
当然のことながら、貧しい支那では品物の捌きようがありません。

そこで蒋介石は弟をヨーロッパに、妻の宋美麗を米国に派遣し、これらの財宝類をメディアや政治家たちにばら撒き、また国民党が日本に勝利した暁にはと、支那国土の欧米への切り売りの空手形を大量に切っていました。

当時の日本人に買収は効きません。
一方欧米では、代々続く植民地の支配層の貴族や、その貴族らをスポンサーとする政治家たちにとって、日本の躍進はまさに目の上のたんこぶであり、しかも日本に敵対する支那人と仲良くすれば、巨額の財宝や将来の支那国土での利権を手に入れられる状況となっていました。

よく、支那の宣伝工作によって日本は追い詰められた、という話を聞きますが、宣伝は日本もしていたのです。

ただ、常に真実を誠実に語るだけの日本に対し、支那国民党は、とにかく「いま自分たちの立場がよくなりさえすれば良い」という思考で、嘘八百を並べ立てるとともに、西洋人たちの欲望を刺激したわけです。

単に宣伝工作の問題ではなく、こうした「国を売ってでも欲望をくすぐる」という不誠実な悪に、まさに米国は飲み込まれ、対日戦争の準備をすることになり、結果、日米ともに大量の戦死者を出す結果となりました。

上にご紹介した文は、タウンゼントの『暗黒大陸 中国の真実』のごく一部の抜粋ですが、この文だけでも、相当ショックを受けた人もいるのではないかと思います。
ちなみに、糞尿を作物の肥料として活用するということは、日本でもごく普通に行われていたことです。

ただ違いがあるのは、日本では、支那のように回収した糞尿をそのまま畑に蒔くのではなく、深い穴である肥溜めに糞尿を入れ、そこで発酵させて、良質な土にし、これを肥料として畑に撒いていました。

本当は、発酵させて畑に撒いた方が衛生的でもあるし、肥料としても役立つのです。

ところが支那では、これができない。
なぜできないかといえば、畑はいつ暴徒たちに襲われて、作物を根こそぎ持っていかれるかわからないから、深々と肥溜め用の穴を掘ることができない。
仮に掘っても、万一そこに暴徒の誰かが落ちようものなら(昔は日本でも子供などがよく落ちたものです)、報復のために一族全員皆殺しに遭いかねない。

だから、集めてきた糞尿は、そのまま畑に撒き、裸足の足で土と混ぜ合わせてこねくりまわすしかなかったのです。哀れといえば、とんでもなく哀れなことです。ですが、これがウシハク国というものです。

女性の服装が、綿でできた黒の半長パンツと、何度も洗いざらして色の抜け落ちた上着しかなかったというのも、同じ時代の日本では、相当、貧しい人達であっても、現実にもう少しましな服装をしていたことを考えれば、いかに支那の民衆が虐げられていたかわかります。

ですから、当時大陸に渡った日本人は、軍人さんも民間人も、畑の収量を少しでもあげ、みんなが安心して作物をつくり、少しでも清潔な暮らしができるように、支那人たちの指導をしていました。けれど、申し訳ないけれど、現実には意味がなかったのです。

それは、日本が最終的に戦争に敗れたからということではありません。どんなに教えても、どんなに快適な生活環境になるように指導をしても、日本人が去れば、また元の木阿弥に戻ってしまうのです。それが支那です。日本とは歴史、伝統、文化が違うのです。

支那が貧しかった理由のひとつに、作物の収量に対して人口が多すぎる、という問題がありました。昭和初期のことです。
日本は、稲塚権次郎博士が、従来の品種の5倍もの収量のある小麦(農林10号)を支那に持ち込み、終戦後もまる二年支那にとどまって、その栽培指導をし続けました。
これは蒋介石の依頼があってのことです。

支那では、日本からもたらされた新種の小麦によって、なるほど小麦の収量は支那全土で約3倍になりました。
「これで、みんなが腹いっぱい食えるようになる」というのは、日本人の甘い見通しでした。支那では小麦の収量が増えた分、そのまま人口が増えたのです。

大東亜戦争開戦前の支那の人口は4億5千万人です。それがいまでは15億の人間がひしめいています。そしてその多くは、年間所得が30万円にも満たない貧しい人々です。

いかなる道徳も、社会システムも、それは人間が作るものです。
人々のアイデンティティの基礎になる国の歴史がとんでもないものであったり、捏造であったり、あるいはそもそもアイデンティティの基礎になる教育そのものが奪われたりしていれば、人間はただの動物になります。そして動物が相手では、いかなる道徳も社会システムも、まともに機能などしません。

そして人間に危害を加える恐れがある動物たちがひしめきあっているところには、人間は近づかないのが、実は一番良いのです。

セオドラ・ルーズベルト・ジュニアは、米国の第25代副大統領であり、第26代大統領、そして大東亜戦争開戦時の第32代米国大統領であるフランクリン・ルーズベルトの遠縁にあたる人です

そのセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、昭和12(1937)年10月に支那の視察から帰ってきて、『サタデー・イブニング・ポスト誌』に、支那で婦人が実際に見た事実を述べています。

突然私達は叫び声を聞いた。それは不機嫌なわめき声に変わっていった。私達のすぐ下で、ひとかたまりの群衆が激怒した暴徒と化し、大声で叫びながら、5人の日本人を追っていた。
4人はうまくバスの中に逃げ込んだ

奇妙だが、中国人は日本人を引きずり出そうとしなかった。
ひとりがよろけて落ちた。彼らはそこに襲いかかった。

それから彼は、血だらけになるまで蹴られた。殴られた。踏みつけられた。肋骨が折れ、顔がどろどろと血まみれだった。

そこに白いターバンのシーク教徒の交通警察官が南京路の交差点からムチを持ってやってきて、暴徒をうさぎのように追い散らした。それから救急車を呼んだ。暴徒がまた集まってきた。
あきらかにやり返しに来たのだ。

私はあの日本人が死んでいると確信した。
しかし、担架に乗せられたとき、彼の手が動くのを見た。

貧しい支那の民衆に同情し、彼の国で農業指導や教育などにあたった結果がこれです。そしてセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、この事件の目撃をしたのは、通州事件などが起きたあと、そして日本軍によって南京城にいた国民党が追い払われ、南京の治安が回復した直ぐ前の出来事です。

そして、そういう民族性を持った支那人たちが、いま、南シナ海に軍事施設を作っているだけでなく、東シナ海にも海上ヘリポートをすでに10機以上建設しているのです。
その場所は、尖閣諸島のすぐ近くです。
そして日本国内には、人民解放軍が兵士達が、いまやウヨウヨいる、という状況です。

私は、支那人が全部悪いとか、韓国人が全部おかしいとか言う気はさらさらありません。そういう意味での差別には断固反対です。まともな人達もたくさんいるからです。

ただ、同じ日本人同士の親しい友人であっても、やはり、違いはあるものです。
早い話が、隣の家と我が家では、家風が違います。
ましてや国や民族や言語が違えば、その風俗習慣も、歴史伝統文化も、まるで異なるものであるのは当然です。
それを、あたまから「日本人と同じ」として、違いを理解したり区別したりすることさえも否定してしまうのは、それは傲慢です。

他国には、他国の文化があるのです。
たとえば南洋のある島では、男性同士が親しくなった時、たがいの下半身を撫で合うという習慣をもった民族がいるそうです。

普通の日本人なら、まさに「たまげて」しまいそうな風習ですが、彼らにとっては、それはそれで意味のある立派な風習です。日本式の礼がただしくて、その民族の礼は間違っているなどと、どうして決め付けることができるのでしょうか。

アフリカには、親しみを込めた挨拶に、たがいに唾をかけあうという風習をもった民族があります。これまたびっくり仰天ですけれど、彼らにしてみたら、体を接してキスをすることのほうが、よっぽど異常に思えるのだそうです。

日本人はよく風呂に入りますし、温泉とか大浴場とか大好きです。
けれど、国や民族によっては、風呂もシャワーも、一生に何度か経験する程度という民族もあります。おとなりの支那では、民衆は起きているときの服装のまま寝るのがあたりまえです。
パジャマに着替えるということが、奇妙に思えるそうです。
危険が迫った時に、着替えなければ逃げれないからです。

民族ごとに、違いがあるのです。
そういう「違いがある」ということを、ちゃんと認識して、お付き合いをする。そこにある程度の距離感は、これはむしろ人間関係を円滑にしていくのに、必要なことです。なんでもかんでも受け入れれば良いというものではありません。

国家と国家のお付き合いでも同じことです。
そこを、つまらないヒューマニズムで混同するから、ルーズベルト夫人が見た日本人のような被害者が続出するのです。

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