賠償金放棄し講和結ぶ

画像の説明 ポーツマスは決裂寸前だった

明治38(1905)年7月20日米国北西岸のシアトル港に着いた外相、小村寿太郎の一行はそのまま大北鉄道の汽車に乗り換え、ニューヨークに向かった。日本の勝利が決定的になった日露戦争の講和について、ロシア側と談判(交渉)するためだった。

5日間の米大陸横断の旅だったが、3日目かの朝、列車が山の中の駅に着くと、線路脇に日本人らしい男5人が日の丸を持って立っている。

十数キロ離れた森林で働いている日本からの移民たちだ。小村の一行が通ると聞き、夜を徹し歩いてきたのだという。小村は「達者で働いてくれ」と声をかけたが、その目はぬれていた。遠くから祖国を思う気持ちがヒシヒシと伝わってきたからだ。

小村の秘書官として随行していた本多熊太郎が『魂の外交』などに書き残し、吉村昭氏の『ポーツマスの旗』にも出てくるエピソードである。

日本は5月の日本海海戦の歴史的勝利により、ロシアの海軍を壊滅状態に追い込んだ。だがその陸軍は満州(現中国東北部)北部に健在だったし、余力もあった。これに対し、日本陸軍の兵力補充は限界に達していた。

このため政府は早期講和を目指しており、日本海海戦終結から4日後の6月1日には早くも米国のセオドア・ルーズベルト大統領に斡旋(あっせん)(仲介)を申し入れた。

実はこの米国の斡旋による早期講和は、開戦時から日本が描いていたシナリオだった。このためハーバード大学留学以来、ルーズベルトの親友である貴族院議員、金子堅太郎を開戦直後に訪米させ、頻繁に接触させていた。

自ら「日本贔屓(びいき)」を任じていたルーズベルトは6月9日には、日露両国に講和を勧告、会議の場所として米国大西洋岸のポーツマスを提供した。

小村は日本を代表して会議に臨むため渡米したのだ。だがロシア側にはまだ戦争を続ける意志があるとの情報もあり、講和の行方は厳しい。小村の肩には日本の命運が重くのしかかっていた。それだけに、移民たちによる日の丸での出迎えは身にしみたのだ。

小村とロシアのセルゲイ・ウィッテ元蔵相を首席とする交渉は8月9日に始まった。日本側が12項目の講和条件を示し、それにロシア側が答える形で進んだ。

このうち(1)韓国に対し日本が指導、保護、監理する権利をロシアが認める(2)日露両軍が満州から撤退する(3)ロシアの清国・遼東半島の租借権を日本に譲る(4)ロシアが満州に敷設した東清鉄道南部支線の長春以南を日本に譲り渡す-などの点では、曲折はあったものの妥結した。

最後まで残ったのは賠償金の支払いと樺太(サハリン)の日本への割譲だった。樺太については戦争末期に日本の陸軍が攻め込み、事実上支配していた。だが両方ともロシア側が拒否、交渉は暗礁に乗り上げた。

ウィッテは宿泊していたポーツマスのホテルの勘定を済ませ、9月5日発の汽船を予約、帰国する姿勢を見せた。ウィッテ自身はもともと開戦にすら反対した「講和派」だったが、本国側の姿勢が固かったのだ。

小村は逆に日本の中でも強硬な外交姿勢で知られ、戦争を続けてもいいという「継戦派」だった。彼もまた、ポーツマスを引き揚げるという電報を日本に打った。

何としても講和したい桂太郎首相らは8月28日、小村に交渉を続けるよう命じた。ロシア側も急転直下、賠償金は拒否するが、樺太の南部割譲には応じると回答、小村もこれを受け入れ、劇的に講和が成立する。

「ポーツマス条約」が調印されたのは9月5日、開戦から1年7カ月近くがたっていた。

これに対し日本国内では「勝ったのに一銭もとれないとはなにごとか」という講和反対論が起き、暴動まで発生した。だが、強気の小村でも妥協しなければならないほど、日本は戦争で疲弊しきっていたのである。

金子堅太郎の渡米

金子が後に講演などで明らかにしたところでは、金子に渡米を「命じた」のは枢密院議長の伊藤博文だった。伊藤は日露開戦直前の明治37年2月初め、自らの秘書官を務めたことのある金子を呼び「少なくとも米がロシアに加担しないよう工作してほしい」と要請した。金子がルーズベルトと親しいことを知っていたからだ。金子は「米は露に弱いから難しい」として断るが、伊藤は「生命を賭してやれ」と強く促した。実際に米国に行ってみると、ルーズベルトが歓迎するなど米国は日本に好意的で、工作は順調に進んだ。

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