報じられなかった大地震

画像の説明 昭和東南海地震、三河地震の教訓とは=

フィリピン・レイテ沖で日本海軍の連合艦隊が壊滅してから1カ月半後。開戦から4度目の師走を迎えたばかりの日本を激しい揺れと津波が襲った。1944年12月7日に起きた「昭和東南海地震」。家々は押しつぶされ、流された。犠牲者は1200人を超えた。

反戦の芽、根絶やし

「津波が堤防を越え、どこまでも押し寄せてきたんです。海辺の家は全滅だった」。三国憲(けん)さん(78)=三重県尾鷲(おわせ)市=は小高い丘から熊野灘のほうを見つめて、言った。当時は8歳。昼ご飯を食べ、友だちと遊んでいるとき、ドーンと地響きがした。「津波が来るぞ!」という地元の人の叫び声がした後、どす黒い波が押し寄せてきた。

家にいた母と18歳の兄、6歳の妹は家を出ようとして津波にのまれた。母の手を握っていた妹は波で引き離され、1週間後に沖合で遺体が見つかった。集落では20人近くが亡くなった。

戦況が悪化し、もともと食べ物が少ない中で起きた大災害。しょうゆもみそもなく、三国さんらは配給されていた玄米を海水で煮て命をつないだ。だが、こうした状況がラジオや新聞で詳しく伝えられることはなかった。

「もっと広く知らされていれば、助けようとする人がたくさん来てくれたかもしれない」。三国さんは地元の郵便局に定年まで勤めた後、体験を小学生らに語り継いでいる。

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なぜ、大地震は詳しく報じられなかったのか。

地震が起きた日、内務省警保局の新聞検閲係が主な新聞社と通信社に電話で通達を出した。「軍の施設や軍需工場などが被災し、戦力が低下したと思わせる報道をしてはならない」「災害現場の写真は載せてはいけない」……。国立公文書館(東京)に残る新聞検閲係の「勤務日誌」には、その内容が記されている。

軍事秘密の報道を禁じる「新聞紙等掲載制限令」や出版事業の廃止を国が命じることができる「出版事業令」などが施行されていた時代。ほとんどの報道各社が通達に従い、鉄道被害に触れた毎日新聞の記事など4件が国から注意処分を受けた。

当時の状況を調べた兵庫県立大准教授の木村玲欧(れお)さん(39)=防災情報学=は「国民が戦意を失わないようにするためだった」と指摘する。政府は地震の4日後には「航空工業能力の半分ほどを占める中部地方に甚大な被害」とする文書を閣議決定し、戦争への影響は極めて大きいととらえていたとみられるという。

昭和東南海地震から37日後の45年1月13日には、愛知で三河地震が起きた。内陸の直下型地震で大津波はこなかったが、東南海を超える約2300人が死亡した。木村さんは「東南海地震が別の地震を誘発する可能性についての報道も不十分だったため、国民に防災意識が深まらなかった」とみる。

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東京帝国大(現・東大)地震研究所の助手だった故・宮村攝三(せつみ)は、昭和東南海地震の直後に現地調査。東京・皇居の近衛(このえ)兵だった原田三郎さん(95)=愛知県碧南(へきなん)市=は地震の知らせを受けて帰郷した時に三河地震に遭遇し、趣味で持っていたカメラで被災状況を記録していた。だが、宮村が調査のために撮った写真は厳しい検閲で当時は公表できず、原田さんは終戦時に上官の命令で私物と一緒に燃やした。

「今じゃ、考えられんことだった。戦争はやるべきじゃない」。たまたま実家に送っていた十数枚の写真を大切に保管している原田さんは、70年前にシャッターを押し続けたカメラを手に振り返る。

歴史学者の山本武利(たけとし)さん(74)は「戦争という非常時では、国は体制を守るために秘密を広げていく恐れがある」と言い、続けた。「戦時下で言論が統制されたり、大事な情報が隠されたりした『前科』を、私たちは重く受け止める必要がある」(佐藤達弥)

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〈昭和東南海地震〉 44年12月7日午後1時36分、紀伊半島沖を震源に起きたマグニチュード7・9の海溝型地震。静岡、愛知、大阪など13府県で住宅約5万4千棟が激しい揺れで全半壊、最大約10メートルの津波で約3千棟が流された。死者・行方不明者は1223人。翌45年1月13日午前3時38分に愛知県で発生したマグニチュード6・8の内陸直下型地震「三河地震」では、約2万4千戸が全半壊し、2306人が死亡した。

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