江戸城天守閣は、ないことが誇りです

画像の説明 最近の学校では子供達に「将来の夢はなんですか?」と問う。

けれど昔の学校では、子供達に「将来の志はなんですか?」と問うた。この違いは大きい。
たとえば「大人になったら何になりたいか」というときに、
夢ならば、「はい。ボクは運転手になりたいです」と答えれる。ところが志だと、ただの運転手というわけにいかない。その職業を通じて、自分が何をしたいのか、何を実現したいのかが問われるからである。
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お話をうかがって、なるほどと思いました。
私なども、世代からすれば、「将来の夢は」と問われた世代です。夢か志か、このことは単に子供達への教育の問題というだけでなく、国政においても同じことがいえると思いました。

「未来に夢のもてる国つくり」などと言いますが、では夢とは何かといえば、それぞれがてんでバラバラです。
百人いれば百通りの夢がある。今日は晴れてほしいと思う人もいれば、今日こそは雨が降ってほしいと思う人もいるわけです。それらすべての人に満足を与える政治など、土台、無理な話です。

けれど、志は、ちがいます。
「未来に向かっての日本国としての志とは何か」
そういう視点で語り、かつ考えることが大事なのではないかと思います。

「世界が平和でありますように」とは、誰もが思うことです。
けれどそれが単なる夢であるならば、それはただの願いにとどまります。けれど「世界が平和であるために志をたてる」となると、具体的な行動が求められます。

戦前戦中の日本は、まさにそのために戦いました。
「東亜の平和」という言葉は、国や民族が、まるごと一部の国や支配層によって、支配され収奪され、有色人種というだけで収奪される。そういう世界を根こそぎ変えて、誰もが人として生きることができる世界を築く。

それが日本の志でした。
そして日本は、それを単なる夢とせず、実際に行動し、実現しました。おかげで、いまや世界から植民地そのものが消えてしまいました。植民地支配というのは、500年続いたのです。
これはすごい歴史です。それが消えてしまったのです。

「暴力はいけない」という議論もあります。
軍や警察は、暴力装置だなどと、くだらないことを言った政治家もありました。けれど、それは本末転倒の議論です。
目的と手段を取り違えている。

みんなが安心して暮らせる社会を築くために、みんなの国家が、みんなのために軍や警察を持つのです。
そのことを履き違えて、一部の人達の利権や欲望のために軍や警察が動員されることがいけないことなのです。要するに、暴力や武力を用いることが良いとか悪いとかではなくて、その志がどこにあるかが問題なのです。

怪我をさせるばかりが暴力ではないのです。
一方で武力を否定しながら、一方で札びらで人の頬をひっぱたいて支配したり自己の利得を図る行為だって、立派な暴力です。そういうウシハク者を誅するために立ち上がる。そのために武力が用いられるなら、これは志です。

武士に「夢」など必要ありません。
武士に求められるのは、常に「志」であり、行動です。
それが武士道です。

昨日の衆議院でみんなの党の松沢代議士が、「東京を文化の香りある夢のある街にするために、江戸城天守閣を再建しませんか」と総理に問題提起していました。
江戸城天守閣は、四代将軍家綱の時代に起きた明暦の大火で消失して以降、再建されずに今日に至っています。

なぜ徳川幕府は江戸城天守閣を再建しなかったのでしょう。
武門の頂点として天下に権威権勢を誇るなら、そびえ立つ天守閣は不可欠です。けれど徳川幕府は、天守閣の再建をしませんでした。

お金がなかったからですか?そんなことはありません。
当時の徳川将軍というのは、日本一の大金持ちです。
そして当時の世界にあって、日本一ということは、世界一の大金持ちでもありました。しかも通貨の発行権さえも持っています。

お金はあったのです。けれど、天守閣の再建はしていません。
必要がなかったからです。それどころか、天守閣の再建を「しないこと」こそが、必要だったのです。

徳川幕府は、もともとは戦国大名の徳川氏です。
そして家康、秀忠、家光の三代で、国内の統一はほぼ完了しました。
この段階で必要なことは、武力にものを言わせる時代から、人々が平和に安心して暮らせる時代の構築です。そういう武威を否定し平和を求めるという「志」を明確に持ったからこそ、幕府は武力の象徴としての天守閣をあえて再建せず、その経費をむしろ民生にまわしたのです。

それが4代将軍家綱の時代のできごとで、5代将軍綱吉の時代になると、生類憐れみの令が出ています。
殺すこと自体が悪だとして、猛烈な取り締まりを行ったのです。生類憐れみの令は、お犬様を殺すなというだけではありません。犬より前に、人が人を殺す、人が武力を用いて人を殺したり傷つけたりすることの一切を禁じたものです。

武士は、人と戦い、人を殺す職業です。
けれどその武士たちに、腰の刀を用いてはいけないというおフレは出せません。だからこそ、生類憐れみの令なのです。犬でさえ殺さないなら、人はもっと殺せない。

徳川幕府は、武家でありながら、武威の象徴である天守閣の再建をせず、生類憐れみの令まで出して武を当時の時代にあって極限まで否定しました。
そしてそのことが、結果として、平和な江戸時代を築き、また武よりも学問を、あるいは何のための武なのかを、しっかりと踏まえる、平和な江戸武士の時代が誕生しています。

ということは、江戸城に天守閣が「ないこと」が、私達日本人にとっての誇りなのです。松沢先生は、そうではなくて、武力を用いて他人に無理やり言うことを聞かせる、そういう時代を望んでおいでなのでしょうか。
そうでないなら、江戸城の天守閣の再建は、不要です。これが、「夢」と「志」の違いです。

まして、いまの江戸城は、明治以降、皇居になっています。
その皇居を一般の観光客が間近に見下ろすような施設を、どうして作らなければならないのでしょうか。

江戸城天守閣は、ないことが日本人の誇りなのです。

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