朝鮮半島のお話

画像の説明 朝鮮半島が歴史上に最初に公的文書に登場するのは、衛氏朝鮮(えいしちょうせん)がはじめです。

衛氏朝鮮というのは、紀元前195年頃に遼東半島の根元あたりにいた連中のことで、国ではありません。

盗賊集団です。

差別とか、そういうことではありません。それが公式史書に記載された史実です。歴史に最初に登場するのが国や民族としてではなくて「強盗団として」というのもすごい話なのですが、彼ら自身は神話が檀君で、これは強姦神話ですから、どっちもどっちです。

支那では、それ以前(紀元前403~221)の時代がいわゆる戦国時代で、有名な魏、蜀、呉(楚)や趙、斉、燕、秦、韓、櫓、宋、周、などの諸国がまさに群雄割拠して争っていました。この中に「韓」という国がありますが、これは支那の内陸部にあった国で、チベット系の遊牧民族の国です。朝鮮半島とは何の関係もありません。

それら群雄割拠の時代を統一したのが秦の始皇帝です。
その秦が支那を統一したとき、山東半島のあたりにあった燕(えん)では、国王が始皇帝によって、遼東半島のあたりに封じられたのですが、ほどなく秦が滅び、前漢が統一王朝を建て、前の国守であった燕は滅ぼされてしまうわけです。

これが紀元前202年のことで、このとき燕の末裔たちが、前漢に追われて朝鮮半島北部の遼東半島の根本あたりに住み着き、お家再興のためにと、盗賊団を形成しました。これが冒頭の衛氏朝鮮(紀元前195~108)です。
この盗賊団は、朝鮮半島を経由して漢と交易しようとする旅人を襲い、金品を奪ってお家の再興費に充てようとしていたというのですが、ところがここに不思議なことがあるのです。

どういうことかと言いますと、この当時の朝鮮半島中央部、つまり、いまの北朝鮮から韓国の北半分くらまでに生息していた部族は「濊(わい)」と呼ばれる種族だったのですが、その濊族と前漢との間で国交を示す記録は、どこにもないのです。

そもそも濊という文字からして異様です。
古代の支那では、周辺民族に対してろくな漢字を充てなかったものですが(たとえば匈(きょう)は、凶悪、倭は背の低い(小さい)人たちなど)、それなりにその民族の特徴を漢字一文字で上手に表しているわけです。
ところが、濊というのは、糞尿のことです。しかもその濊に、わざわざサンズイを充てています。どれだけ汚い不潔な民族だったのかということです。

不潔ということは、教養がなく、貧しいということでもあります。

教養も財力もなくて貧しければ、産物もありません。産物がなければ、交易の必要もありません。ということは、衛氏朝鮮にしても濊族を襲ったところで、何の利益にもなりません。お家再興のための資金稼ぎなど、夢のまた夢です。

それにそもそも衛氏朝鮮は「旅人」を襲ってお家再興の資金稼ぎをしていたと記録にあるのです。濊族は、旅人になどならないし、旅をする資力も理由もありません。

ただ生息して、食べ物を奪ったり、人を殺して食べていただけの、まるでケモノのような連中です。あとに出てきますが、前漢にしても濊族は、ただ打ち払うだけで、濊族と積極的に交流をもとうとする努力は、まったくしていません。つまり、濊族は、人を襲う大型の猿程度にしか認識されていなかったのです。

衛氏朝鮮は、なんの得にもならない猿を襲っていたのでしょうか。

まだあります。
前漢は、衛氏朝鮮に兵を差し向けて、結局これを滅ぼしているのですが、何のために滅ぼしたのでしょうか。滅ぼすには滅ぼすだけの理由があります。
兵を差し向けるということは、何らかの安全保障のための必要があったからです。衛氏朝鮮が猿山を襲って飯を食っているだけの連中なら、前漢王朝にとっては、なんの脅威にもなりません。

にもかかわらず、わざわざ兵を送っているには、兵を送っても余りあるだけの明確な理由があったからであるはずです。
こういうことについて、よく「領土野心があったからだ」などと、わかったようなことをいう人がいますが、領土野心というなら、なおのことそこに利益期待がなければなりません。期待がなければ野心もないのです。

実はこれだけではないのです。
前漢は、紀元前に漢族の築いた大国ですが、その前漢は、いまの平壌や、京城(ソウル)に、城塞を築いているのです。
これは城壁に囲まれた要塞です。そして不思議なことに、その城塞の塀の内側からは、同時の高い文化を示す遺品がたくさん出土するのですけれど、その城壁の外側からは、同種の遺品がまったく出土しないのです。

ということは、これはその平壌や京城に前漢が置いた要塞(郡庁)は、周囲にいる濊族とは、まったく交流を持っていなかったということです。そして記録によれば、その濊族は、年中、城塞を襲撃してきたとあります。

これを毎回、完膚なきまでに、要塞の人たちは打ち破っていたのです。濊族の要塞襲撃を、完全撃退していたということは、文献史料だけでなく、城外から城内と同じ遺物がまったく出土していないことが証明しています。

ということは、平壌にしても京城にしても、濊族を統治するための要塞でなかったことは明白です。では、前漢は、どうしてあえて衛氏朝鮮を滅ぼしただけでなく、平壌や京城に城塞を築いたりしたのでしょうか。

実はその答えは明白なのです。
当時、朝鮮半島の南部(いまの韓国の南半分)のあたりは、全体を伽羅(から)といいました。
その伽羅には、馬、弁、辰という三つの県がありました。

そしてそこは倭国だったのです。

倭人たちが朝鮮半島に進出したのは、7300年前の鹿児島沖のアカホヤの火山の大噴火がきっかけであったことは、地学と釣り針の出土品が証明しています。
朝鮮半島では、12000年前までは人がいた痕跡があるのですが、その12000年前から7000年前までの5000年間、人類の痕跡が絶えているのです。

これはおそらくは火を使うことで、森を燃やしつくしてしまった、それにより土地が人が住めない土地になってしまったことが理由であろうといわれています。

中東や西欧とまったく同様の砂漠化を、12000前まで朝鮮半島にいた人たちは招いてしまったのです。そして誰もいなくなった朝鮮半島の自然は、砂漠化した半島を、なんと5000年かけて、山々に緑を取り戻して行ったわけです。

そして7300年前に、鹿児島沖でアカホヤの大噴火が起こりました。
この噴火は、日本の地学上、最大の火山の大爆発で、その火山灰は、遠く東北地方にまで降り積もって、地層を形成しています。どれだけ大きな噴火だったかということです。

この火山の噴火によって、九州南部の人たちは、九州北部に難民となって流れて行きました。
ところが当時の暮らしというのは、村々が、自給自足ですから、大量の難民が来ても、食べるものがありません。そこで、この頃から、突然現れるのが、大型の釣り針です。

つまり、沿岸漁業では、たくさんの難民を含めた人たちのお腹を満たすことはできませんが、沖合に行って、大型の魚を釣ってくれば、みんなが腹一杯飯が食えるようになる。おそらく、カツオやマグロなどの漁をしたことでしょう。ほんとに、突然、降ってわいたように、この頃から大型の釣り針が突然作られるようになるのです。

九州から沖に出て漁をすれば、ときに、潮に流されてしまう人が出ます。

そしてちょうどその頃から、朝鮮半島南部に、突然、降ってわいたように大型の釣り針が出土するようになるのです。つまり倭人が入植し出したということです。

そして倭国は統一され、朝鮮半島南部も、その倭国の一部として編入されました。
朝鮮半島には、任那に日本の郡庁が置かれ、その下に中国名では馬、弁、辰、日本式の呼び名ですと比自保(ひじほ)、南加羅(みなみから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たづみ)、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)などの国名であったようです。

その倭国は、当時の東亜において、きわめて高い文化を持つ国であったことは、日本も後年支那に朝貢するようになりますが、そのときに金印をもらっていることで確認できます。

印綬というのは、オリンピックと同じで、金銀銅のランクがあり、金印をもらえるのは、特別な大国、支那王朝に匹敵するだけの大国だけです。
ちなみに後に朝鮮半島には、高句麗や高麗、あるいは新羅、李氏朝鮮などの国が起こり、それぞれ支那の冊封国として印綬を得ていますが、ずっと銅印だけです。銅印というのは、別名泥印といって、村長クラスの小国にしか与えられないものです。

こうして朝鮮半島には、倭人たちが入植し「クニ」を営むようになるのですが、それが衛氏朝鮮くらいの時代になると、日本の進んだ文物と、支那との間で交易がはじまるようになります。

まさに衛氏朝鮮は、その倭国と支那王朝との間の交易の隊列を襲撃していたわけです。

この頃の日本の名産品のひとつにあるのが勾玉(まがたま)です。
勾玉はヒスイでできていますが、ヒスイの高度は6.5です。これは鉄の5.5よりも硬いものです。
鉄器がなかった時代に、どうやってヒスイの原石を磨いて加工し、勾玉のような工芸品ができたかというと、ガラスの原料となる石英を細かく砕いて、その粉で、原石を磨いて、あのカタチを作っていたようなのです。

実際に試した人がいるそうなのですが、計算上、ひとつの勾玉を磨いて作るには、だいたい2年から3年、ひとりの大人が、毎日朝から晩まで、ヒスイを磨き続けなければならないそうです。
そしてそんなことが可能なのは、平和で安定した社会に日本があったからに他なりません。

支那の大陸が、春秋戦国となり、相次ぐ戦乱に揺れる中、日本では、芸術品とも呼べる工芸品がさかんに造られていいたわけです。

大和朝廷は、三国志に出て来る魏にも、ヒスイを贈っていますが、その数はたったの3個です。
どれだけ当時、勾玉が貴重な高級品であったかわかろうというものです。そうした隊商の安全を確保するためには、欲しい側が、安全確保のために、郡庁や城塞を築きます。だから、平壌や京城に城塞が支那側の手によって築かれたのです。

そして時代が下り、鉄器が使われるようになると、朝鮮半島の南部、つまり倭国だったあたりでは、山から鉄が産出することがわかりました。

倭人たちは、そこで鉄を掘るのですが、労働をすれば、倭人たちはちゃんと賃金を払い、飯を食わせ、屋根のあるところで、労働者を寝かせます。怪我をすればちゃんと手当もする。
そのため、濊族たちも、その鉄堀現場で労働をしはじめるようになります。

こうして濊族と次第に血が混じり、倭人と濊族の混血児たちの国として生まれたのが新羅です。それに漢人の血も混じった人たちが百済になりました。そして新羅も百済も、朝鮮半島南部の伽羅の北側で国を営み、倭国に朝貢する国となりました。

ところが、新羅は、やはり濊族の血なのでしょうか。倭国を裏切り、突然、百済に攻め込みます。慌てた百済が倭国に救援を求めると、あろうことか新羅は唐から10万の援軍を呼び、結果、百済は滅ぼされ、また伽羅の地も、新羅に併呑されることになりました。

こうして日本は、朝鮮半島から完全撤退し、国を閉ざすことになったのです。

かわいそうなのは、取り残された百済人や倭人たちです。
朝鮮半島では、自分たち朝鮮族のことを韓族と言いますが、韓という字は、ハングルで書くと、漢と同じ字になります。つまり韓族という呼び名は、実は自分たちは漢族であると言っているのと同じなのです。

ところがその韓族は、自分たちのことを「カラ」とも呼びます。
そして「カラ」というときは、なんだかほっこりとしたやさしさのあるあたたかみを感じるのだそうです。
朝鮮半島における「カラ(伽羅)」は、はるか昔に滅んでなくなってしまっている国ですが、それでも、倭国の一部であり、倭人であった頃が、あれから二千年が経った今でも、もしかすると彼らのDNAの記憶として残っているせいなのかもしれません。

こうした説明をすると、
「いやそんなことはない。朝鮮半島には衛氏朝鮮よりも前に、箕子朝鮮(きしちょうせん)や、檀君朝鮮(だんくんちょうせん)があったではないか」という人がいましたが、これこそ大爆笑です。

「箕子朝鮮(きしちょうせん)」というのは、紀元前1122年から紀元前194年、つまり衛氏朝鮮が誕生するまで、約千年続いた朝鮮王朝だというのだけれど、そもそも「朝鮮」という名称は、明の洪武帝(こうぶてい)から李氏朝鮮が与えられた名前で、これは14世紀の出来事です。

では、三国志魏志伝に書かれた「箕子朝鮮」は何かというと、これは遼東半島にいた鮮卑(せんぴ)の一族のことを指します。つまり、朝鮮濊族とは何の関係もない、遊牧民の王朝です。
もっというなら、朝鮮半島の北側に、たまたま「箕子」という遊牧民の鮮卑族がいたから、これを濊族だったと強弁しているだけのことです。
鮮卑は、遊牧民であり、家畜の食べる草を求めて、常に移動する人たちです。その鮮卑が、遼東半島のあたりまできていたというだけのことで、これは王国ですらありません。

さらに檀君朝鮮(たんくんちょうせん)に至っては、建国されたのが5011年前というのですが、これは明治時代に朝鮮半島で捏造された神話です。

当時、明治維新による近代化を成し遂げ、日清戦争にも勝利した日本には、支那からたくさんの留学生がやってきました。当時の日本は、神武天皇以来2500年を皇紀として使用していました。

これに影響を受けた支那人留学生たちが、じゃあ、自分たちの国にもそういう歴史を作ろうじゃないかということになって、突然、降って湧いたように言い出したのが「中国5千年の歴史」です。
日本が2500年だから、とりあえずその倍くらいにしとけ、と言い出しただけのものです。

そしてこれに刺激を受けた朝鮮の学生たちが、中国が5000年なら、俺たちはそれよりも11年早く、5011年の歴史にしよう、と言い出して捏造したのが壇君神話です。

なぜ+11年にしたのかわかりませんが、同じ嘘でも、「日本の二倍にしとけ」という、ある意味気宇雄大な支那に対し、たった「+11年」という「せこさ」は、いかにも濊族らしいといえるかもしれません。

要するに、「箕子朝鮮(きしちょうせん)」も、「檀君朝鮮(たんくんちょうせん)」も、捏造でしかないのです。
そして歴史上、朝鮮半島に、最初に登場する国が、泥棒国家の「衛氏朝鮮」であり、これを漢が滅ぼしたというのが歴史の事実でしかないのです。

時代はこれよりもずっと後になりますが、遣隋使、遣唐使の時代、毎回大型船を4〜5艘仕立てて、日本の文物財宝、特に日本は古来、世界有数の金の産出国でしたから、大量の金などを積み込んで、日本は使節を支那に派遣していました。
ところが往復の成功率は、2〜3割程度です。
あとはみんな途中で船が沈められたと、みなさまも学校で習ったと思います。

けれどそんなに海の旅が危険なら、朝鮮半島を陸路で北上すれば良いだけのことです。
ところが東シナ海横断ルートなどという、外洋のど真ん中を突っ切るような危険な航海をしてまでも、ついぞ、朝鮮半島を陸路で使節を派遣するということは行われませんでした。

これが何を意味するかというと、シケにあって遭難する危険があったとしても、朝鮮半島を陸路で行くよりは、はるかに、海路の方が安全性が高かったということなのです。

遣唐使、遣隋使の成功率の低さが、外洋船舶の造船技術が未達だったなどと、アホな説を唱える学者がいますが、弥生時代の日本産の黒曜石の分布などをみても、日本は日本海を経由して満洲あたりにさえも、盛んに交易をしているのです。数千年も前から、日本は海洋ルートで、北は青森から南は沖縄、台湾、フィリピン、ベトナム、遠くインドにまで、盛んに海上交易をしているのです。

時代をもっとさかのぼれば、縄文時代には南米のエクアドルまで交易の足を伸ばしていたことが、魏志倭人伝に書いてあります(水行一年の先にある黒歯国は倭国の領土)。

つまり、それだけの造船と航海技術を日本は持っていたのです。
にも関わらず遣唐使遣隋使の航海が危険だったというのは、もはや人為による不成功原因しか考えられないのです。
そして旅人を襲って利得を図るというのは、紀元前2世紀の衛氏朝鮮もさりながら、大東亜戦争終戦直後の朝鮮半島において、多くの日本人女性が酷い目に遭わされたり、財物を奪われたり、それこそ、着ているものをふんどしまで剥がして奪ってしまう濊族の行動に、そのまま現れています。

さて、倭国の影響を受けた濊族の一部が、百済を興し、新羅を興しました。
そしてこの両国は、日本に朝貢し、日本の技術を導入することで富を貯えました。そして両国は、国力を養ったものの、結局新羅が裏切って支那と結び、百済を滅ぼしたうえで、高句麗も支那の軍事力を借りて滅ぼし、新羅王朝を形成しました。

その新羅も、やはり国を裏切って支那と結んだ高麗によって滅ぼされました。その高麗も、支那と手を組んだ李氏朝鮮に滅ぼされました。そしてずっと朝鮮半島は、支那の属国とされ続けてきました。

代々の支那の王朝は、李氏朝鮮王から収奪をするだけです。
その朝鮮王は、部下の両班から収奪するだけです。
その両班たちは、庶民から収奪するだけです。
ところが産業もなけば特産品もない。
献上できるのは、女たちだけです。
だから、朝鮮半島では女性はまさに性の道具としてしか扱われてきませんでした。

そんな哀れな状態に、明治にはいって、やっとのことで日本が支那と手を切らて独立させてあげたのに、今度はロシアと組もうとしたり、朝鮮の独立だといって関東大震災で火付け盗賊をはたらきました。とにかく正義や人道が理解できない。「いまさえ良ければいい」「自分さえ儲かればよい」というその場しのぎの御都合主義しかない。

どうしても日本から独立したいというから、戦後、日本は独立を認めてあげただけでなく、総額21兆円、国民ひとりあたり45万円という莫大な資産を朝鮮に寄贈してあげたのに、彼らはせっかく受け取ったその資産を、結局は朝鮮戦争に費消してしまいました。
世界のトップくらすの富のある国から、かれらはたった3年で世界一の最貧民国に堕ちてしまったのです。

やむなく日本が、あらためて国家予算の3倍のお金をつぎ込んであげて、彼らは漢江の奇跡と呼ばれる大発展を遂げますが、それも工業化とは名ばかりで、実は、日本から部品を供給してもらい、その組み立てと包装をしただけのことです。
ひらたくいえば、実際にはできあがった製品を袋詰めしかしていないのに、「ウリたちの国の生産物だ」「ウリたちは工業国だ」と見栄を張ったわけです。

そして儲けた金は、なんと世話になった日本に対する反日工作に、全部遣ってしまった。
本来なら、国家インフラの整備のために、その儲けた金は遣われるべきだったのに、使い道が世話になった日本への裏切り工作資金です。

あきれ果てます。
それでいま、三たび経済の破綻に瀕し、また日本に助けてほしいと言い出しかねない状況です。これが個人なら、どうみても、ただの極道者です。

日本人は、へんにやさしくて、韓国の人たちも「同じ人間じゃないか」と、すぐに思いたがるし、困っている人がいれば、なんとかして助けてあげたいと同情してしまいがちです。

けれど、これだけはいえることですが、民族のもつ精神構造というのもは、それぞれがそれぞれごとに、その国の自然環境や政治経済環境と決して無縁ではないのです。

古来、何の資源もなく、山々も植林をしないから禿げ山、自然環境を壊すだけ壊して、何も手当せず、政治というのは、庶民から財を巻き上げることだとしか考えない。
そういう環境の中で、彼らはすくなくとも二千年間生き残ってきたわけです。

お隣の朝鮮族というのは、顔かたちが仮に私たちとよく似ていたとしても、その内側にあるのは、厳しい言い方になるけれど、残念ながら、まるで映画「バイオハザード」に出てくるゾンビ(汚穢族)の大軍でしかないといえるかもしれません。

もちろん個体差はあります。
積極的に真人間になろうと努力しているまっとうな朝鮮人がいることも事実です。しかし、そのまっとうな朝鮮人も、国に帰れば、その家族を穢族の人質にとられているわけです。

そして、その汚穢族が、実は、なにひとつ日本に教えてくれたことなどないのに、「俺たちが兄だ、俺たちが日本にすべてを教えてやったのだ」と言い張り、それをあろうことか、学校の教科書にまで仕立てて子供たちの教育に使っているという恥知らずなことを、平然とやってのけています。

日本は、そういう朝鮮族のいかがわしさに愛想をつかしたからこそ、9世紀(894年)には、国交を断絶し、国としては明治の開闢まで、ずっと長い鎖国政策をとってきたのです。
(民間交易や将軍クラスの交易はありましたが、天皇による国交は明治まで一切ありません)。

私たちは、そういう歴史を直視し、同時に、海外においても、そういう歴史を日本人なら誰もが堂々と展開できるだけの知識を、日本人の常識として、あるいは世界に向けて真実の常識として、定着させていかなければならないと、私は思います。
なぜならそれが事実だからです。

歴史がどうあれ、出自がどうあれ、日本人としてあるいは人として、民族の別なく、郷に入っては郷に従い立派に生きて行こう、真人間になっていこうとする人であれば、私たちはそれを受け入れ、同胞として一緒に仲良く生きて行こうとします。あたりまえのことです。

けれど、史実を歪め、嘘をまき散らし、人々に害を与え続けるならば、たとえ付き合うことがどんなに経済的にメリットがあろうが、それは付き合うべき相手とはいえません。
これもまた、あたりまえのことであろうと思います。

ちなみに経済という語は、もともとは経世済民からきています。
経世済民とは、「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」ことです。
いまではすっかり所持する貨幣の多寡が経済の意味になってしまっていますが、これさえも、もとをたどせば江戸時代までは米が経済の中心でした。

いまはお金持ちというのは、お金を沢山持っている人のことを言いますが、江戸時代までは、米をたくさんもっている人が経済力のある人でした。

人間が食える量なんてのは、金(gold)と違って、限りがありますし、お米はただほっておいたら腐ったりネズミの餌になるだけですから、それを使わなければならない。そして飢饉など、いざというときにお布施米としてそのお米を供出できる人が「経世済民力のある人」でした。

貨幣がなかったわけではなくて、貨幣ではなく、そういうことを大切にして、千年以上の長い年月にわたって国づくりをしてきたのが日本です。

わたしたちはそういう国の歴史、先人たちが築こうとした国の歴史をもういちど謙虚に学びながら、国の体制や国交の在り方について、もういちど抜本的に考える。そういう時期にきているのではないかと思います。

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