「アドラー心理学と「和の国」の子育て」

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■1.「しっかり勉強して、世のため人のために尽くせる人間になりなさい」

先日、福岡のある保育園で保護者向けの講演をさせていただいた。そこでは石井式の漢字教育[a]を実践されており、4、5歳の幼児たちが先生の示す漢字カードに元気な声で「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」などと唱和している姿を見た。こういう子供たちが立派に成人して、明日の日本を支えてくれるだろうと思ったら、嬉しくなって涙が出そうになった。

保護者も熱心な方が多く、1時間お話をしたが、5~60人の方々が床の上に直に座り、4~50人の方々が廊下にまで立って、真剣に聞いてくれた。

話の中で、知的障害者が従業員の7割を占めるという日本理化学工業の事例を紹介した。同社では近所の施設から依頼されて、知的障害者2人に作業を体験して貰ったのだが、いかにも嬉しそうに仕事をする。

「会社で働くより施設でのんびりしている方が楽なのに」と社長の大山さんは不思議に思ったが、この疑問に答えてくれたのが、ある禅寺のお坊さんだった。曰く、幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」。この幸せとは、施設では決して得られず、働くことによってのみ得られるものだと。

この事例のあとで、保護者の方々に問いかけた。子どもを幸せにしたかったら「しっかり勉強して、一流大学に行き、一流企業に入りなさい」と言うよりも、「しっかり勉強して、世のため人のために尽くせる人間になりなさい」と言うべきではないか、と。

■2.他者の幸福のために努力すること

幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」というお坊さんの指摘は、現代心理学でも「利他心は人間の本能で、それが発揮されると幸福感をもたらす」と裏付けられている。そこから、子育てにおいても「一流企業に入れるよう」と子供の利己心を刺激するよりも、「世のため人のために」と利他心を引き出す教育方法の方が良いはずだと考えた。

心理学の創始者の一人で同様の主張をしたのが、オーストリアの精神科医・心理学者のアルフレッド・アドラーだ。はじめはフロイトとともに心理学の研究をしていたが、根本的な人間観の相違から袂を分かった。

アドラーは自著のなかで、フロイトの「人間は性欲動を満たそうとする快楽原則に支配される」という人間観を批判して、「他者の幸福のために努力することが、共同体感覚を持った人間にとって、真の『快楽原則』である、と反論している。[Hoffman, 7255]

両者の人間観の違いは根本的だ。フロイトの暗い、宿命論的な心理学に対して、アドラーの心理学は崇高で明るい。アドラー自身も社交的な人間で、友人たちとウィーンのカフェで毎晩のように夜遅くまで語り合っていた。

一時は社会を救うためにマルクス主義に傾斜したが、ロシア革命の現実を目の当たりにして、社会を変革して人々を救済するには育児と教育によるしかない、と考えるようになった。そこで研究だけでなく、カウンセリングや教師の育成に一生を尽くしたのである。

■3.「共同体の中で価値ある存在になりたい」という欲求

アドラーは、人間は共同体の中で生まれ育つことを重視する。

人類の歴史上、完全にひとりで孤立した人間というものはいません。人類が発展できたのは、人類が共同体となり、完全を目指しながら理想の共同体へ向けて努力していたからです。

これは人間はもともと「群生生物」、すなわち群れの中で力を合わせて生き延びてきた、という進化人類学の定説と一致する。

その共同体の中で「価値ある存在」になりたい、という基本的欲求を人間は持つ。これは共同体を維持・発展させるための群生生物としての本能だ。そこで、子供をどのように「価値ある存在」になるように育てるか、が教育上の重要課題となる。

「共同体の中で価値ある存在になりたい」という子供の欲求を正しく充たすアプローチとしてアドラーが主張しているのが、子供がお手伝いをした時などに「ありがとう」と感謝の言葉を伝える、「嬉しい」と素直な喜びを現す、「助かったよ」とお礼の言葉を述べる、などである。

それによって、子供は自分が他者にとって「価値ある存在」になれることを実感し、その方向に向けて、さらに努力しようとする勇気を持つ。

子供の「価値ある存在」になりたいという欲求に正しい方向性を与えるのが「共同体感覚」である。それは同じ共同体に属する他者を「仲間」と感じる所から始まる。そう感じるからこそ、仲間が困ったり、苦しんでいる時に、それを感じとり、何とかしたいと思う気持ちが生ずる。他者への貢献は、この「共同体感覚」によって正しい方向付けがなされる。

■4.「価値ある存在」になりたいという欲求を正しい方向に導く共同体感覚

「勇気づけ」ではなく、甘やかされた子供はどうなるか。他者から与えられる事に慣れた子供は、他者に依存しつつ、他者を「自分のために何かをしてくれる存在」と見なす。これでは共同体感覚が育たない。

共同体感覚を欠いた「価値ある存在」になりたいという欲求は、他者を自分に奉仕させ、虚栄心を満足させようとする方向に働く。こういう子供が大人になると、地位や名声を求め、他者への思いやりのない、自己中心的な人間になるのだろう。

また、幼児の頃に甘やかされて、途中から親に構って貰えなくなると、子供は親を自分に向けさせようと、非行に走ったり、不登校になったする。あるいはリストカットまでして、自分に奉仕しない事への復讐をする。どちらにせよ、自己中心的な姿勢である。

逆に、叱られたり、罰を与えられてばかりだと、子供は家庭や学校で自分の「居場所」を見つけることができず、自分は「価値ある存在ではない」と思い込み、それが劣等感となる。この場合でも健全な共同体感覚は育たず、「他者のために何かしてみよう」という勇気は生まれない。

家庭や学校は、共同体の中に生まれついた子供が、やがて「他者のために価値ある存在」に育つための場所だ。そこでは子供たちを他者のための思いやりや親切を行うよう勇気づけ、それが多少なりともできた時に、感謝や喜びの言葉によって、子供自身が「価値ある存在」に近づけたことを実感できるようにする。

こういう体験によって、子供の心に共同体感覚が発達し、それが「価値ある存在」になりたいという欲求を正しい方向に導いていく。アドラーはこれこそが本来の教育だと考えた。

■5.「日本人は確かに児童問題を解決している」

興味深い事に、江戸時代の教育は、アドラーの理想とそっくりであったようだ。明治初期に来日して東京帝国大学で教鞭を執った生物学者エドワード・モースは、当時の日本の子供について、こう観察している。

世界中で日本ほど、子供が親切に取われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。
彼等は朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、その家の家内的の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、店番をしたりする。彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、すねている子や、身体的の刑罰は見たことがない。

子供達は「家内的の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、店番をしたり」と、お手伝いをして、「満足して幸福そうに働」いていたという。たとえ親から特別な感謝の言葉は貰えなかったとしても、自分たちの手伝いを当てにされていることから、家庭内で「価値ある存在」である事を実感できたろう。

またモースは「日本人の母親程、辛棒強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない」とも言う。当時の母親は子供たちに深い愛情を注いでいたようだ。しかも、いろいろ仕事をさせることで、甘やかしはしなかった。そういう環境で育った子供たちは、自己中心的にすねたり悪さをする事もなく、親に「身体的の刑罰」を受けることもなかった。

家庭の中で「価値ある存在」であると実感できた子供は、健全な共同体感覚を発達させ、他者への思いやりを持つ。「日本人の子供程、行儀がよくて親切な子供はいない」とモースが言うのも、このためだろう。

我が国の先人たちは、アドラー心理学が登場する前から、それを実践して効果を上げていた。「日本人は確かに児童問題を解決している」とのモースの結論は、その証言であろう。

■6.「処を得る」という理想

明治以降の我が国の教育も、アドラー心理学と極めて親和性の高い理想のもとで行われた。まず、五箇条の御誓文とともに、明治天皇が国民に発せられた御宸翰(お手紙)には、「天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」(すべての国民がひとりでもその処を得られない時は、みな私の罪であるので)という一節がある。

「処を得る」とは、正しくアドラーの言う「居所を見つける」「共同体の中で価値ある存在」になる、という事である。それは一人ひとりの国民が、それぞれの多様な個性・適性・能力を十二分に伸ばして、それぞれの家庭、職場、地域、国家という共同体の中で、貢献する「価値ある存在」になる事である。

そこで自分が貢献をしているという実感こそが、幸福な人生への道であった。さらにその幸福な国民の貢献により、国家社会は豊かに発展し、西洋諸国の侵略も防いで、自由と独立を守る事ができたのである。

■7.アドラー心理学から見た『教育勅語』

「処を得る」という理想への具体的な道筋となったのが、教育の国家方針として発せられた『教育勅語』であった。そこに語られた12の徳目は、そのままアドラー心理学の文脈で解釈することができる。

まず、

(1)父母ニ孝ニ(父母に孝養を尽くし)、
(2)兄弟ニ友ニ(兄弟仲良く)、
(3)夫婦相和シ(夫婦は仲睦まじく)、
(4)朋友相信シ(友とは信じ合う)

の前段4箇条は、家庭や交友の日常生活の中で、共同体感覚を発達させる事を目標としている。その過程で、自らが「価値ある存在」である事を実感する。これはアドラーが考えた、人間としての健全な成長への最初のステップである。

次に、

(5)恭倹己レヲ持シ(人に対してはうやうやしく、自分自身は慎み深く)、
(6)博愛衆ニ及ホシ(博愛の手を社会に及ぼし)、
(7)学ヲ修メ業ヲ習ヒ(学問を修め、業務を習い)
(8)以テ知能ヲ啓発シ(それによって知識・能力を発展させ)
(9)德器ヲ成就シ(人徳と才能を磨き)

の中段5箇条は、職場や地域など、より広い共同体の中での他者に貢献できるよう、態度や能力を身につける。

その上で

(10)公益ヲ廣メ世務ヲ開キ(公共の利益を広め、世のための努めを果たし)
(11)國憲ヲ重シ國法ニ遵(したが)ヒ(憲法を重んじ、法律に従い)
(12)義勇公ニ奉シ(義と勇を振るって公のために尽くす)

と、国家社会の共同体の中で、「価値ある存在」としての生き方を示す。それは国民一人ひとりが幸せな人生を歩むための道であるとともに、国民が力を合わせて幸福な共同体を創り上げる道でもあった。こうして育った明治の先人たちが、わずか60年ほどで日本を五大国の一つにのし上げるという、近代世界史上の奇跡をもたらしたのである。

■8.アドラー心理学と神道的世界観

アドラーは、自らの心理学を「進化を重視し、人間のすべての努力は、完全を目指す努力という進化のなかにあると考えています」と述べている[アドラー、314]。すなわち、人間が共同体のために「価値ある存在」になろうという本能的欲求を持ち、それが共同体感覚に導かれて、力を合わせてより高次の共同体を築いていく。それが人間の進化の過程である、と考えた。

アドラーはさらに「人間は共同体感覚を発達させつづけて進化するのですから、人間の存在は『善である』ことに強く結びついていると推定できます」とも言う。

こういうアドラーの人間観は、もう我が国の神道の世界観そのものである。神道では人間には神の分け命が宿っていると考え、それを引き出して、和の世界を実現することを理想とする。そのような神道的世界観から生み出された我が国の伝統的教育が、アドラーの教育の理想に極めて近いものであった事も偶然ではない。

ただ、残念なのは、戦後教育において、共同体のために貢献するという人間本来の生き方が否定され、その結果、教育の目標が「しっかり勉強して、一流大学に行き、一流企業に入りなさい」というような自己中心的なものに堕落してしまったことである。

禅宗の坊さんは幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」とし、アドラーは「幸福とは貢献感である」と説いた。それをもう一度、思い出す事が、「和の国」の教育再建への近道だろう。

                                       

(文責 伊勢雅臣)

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