「徳川家康と大阪経済」

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家康が行った行動は、現代風に言うならば、コンゴなどの資源原産国が、西欧商業国と戦って勝利して、原産国中心型の世界体制を築いたようなものです。

これはすごいことです。世界で、同様のことを成し遂げ、成功した国は、他にないのです。

徳川家康が豊臣家を滅ぼした(戦った)意味について書いてみようと思います。

家康が、関ヶ原の戦い、その後に続く大阪冬の陣、夏の陣で徳川家康が豊臣氏を滅ぼしたことは、誰でも知っていることです。
ところが、どうして家康がそうまでして豊臣家を滅ぼしにかかったのかという点になると、たいていの解釈がこれを単に家康の名誉欲ととらえて、「家康が天下を欲しがったため」としています。

本当にそうなのでしょうか。

家康が征夷大将軍であった期間は、わずか2年です。
もし家康が望み通りに天下を得たというのなら、どうしてせっかく念願の征夷大将軍になったのに、これをたった2年で手放したのでしょうか。

1600年に関ケ原の戦いに勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に就任しています。
しかしわずか2年後の1605年にはこれを返上し、将軍職を息子であり秀吉の血統である秀忠に将軍職を譲っているのです。

亡くなったのは、それから11年目の1616年のことです。
将軍になりたかった、天下を取り、武家の棟梁として征夷大将軍になりたかったという論では、家康が2年で将軍職を返上した理由の説明がつきません。

さらにいえば、
大阪冬の陣は関ヶ原の戦いの14年後です。
大阪夏の陣は、その翌年(1615年)、つまり15年後です。

大阪にいて秀吉の後を継いだ豊臣秀頼が天下を治める器量がなかったからだという論もあります。

関ヶ原の戦いを扱った多くの小説などが、その論を取っています。
しかし我が国において、トップというのは、いわば名誉職です。
それを支えるブレーンが優秀であれば足ります。
秀頼の配下には、もともとの秀吉の部下たちが勢揃いしています。
天下の政治に困ることはありません。

歴史は、出来事の前後関係を論理的に説明するものです。
その意味において、器(うつわ)云々は、小説としてはおもしろいかもしれませんが、それは歴史ではありません。

ではなぜ家康は関が原を戦って征夷大将軍となり、また将軍となった後に大坂の二つの陣を戦うという選択をしたのでしょうか。
実はここに、国学を愛した家康ならではの行動があります。

家康は、早くから林羅山を徳川家の師範としました。
林羅山の思想は、一般に儒教であったと説かれますが、すこし違います。
多くの儒者が、チャイナの儒教をただありがたがったのに対し、林羅山はどこまでも国学の上に立って儒教を選択的に摂り入れる、という考え方をした人です。

つまり、どこまでも国学が先にあります。

その国学において、もっとも大切なことは「おほみたから」である天下の百姓たちが豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことにあるということは、当ブログをお読みの方なら、すでにご理解のことと思います。

一方、大阪方、つまり秀吉が用いた政治手法は「全国の物流と商流をすべて大阪に集中する」というものでした。

たとえば刀を作るには、鉄が要ります。

その鉄の産地の人たちは、直接刀鍛冶にものを売ってはいけません。
できた鉄を大阪に持ち込むのです。
ですから鉄を使って刀を作ろうとする刀鍛冶たちは、直接鉄の生産地と取引するのではなく、大阪で鉄を求め、これを自分の住む土地に持ち帰って刀を作るわけです。

刀ができると、刀鍛冶は刀を、やはり大阪に持ち込みます。
刀を売る業者の人は、大阪で刀を仕入れ、これを地方に持ち帰って販売します。

要するに、すべての物流と商流が大阪を中心に回る仕組みになっていました。

つまり大阪一極集中方経済運営が図られたわけで、秀吉はその大阪商人に税をかけることによって、莫大な富を築き、その富をもって全国の大名たちに号令したわけです。

このあたり、実に秀吉の政治の上手さが光るものといえます。

一方、小田原の北条攻めの際に、愛知県の岡崎から江戸という、箱根の山の向こう側の交通の要衝からもはずれた沼地に飛ばされた家康は、江戸城の普請を進める一方で、すぐに関東全域の征圧に乗り出しました。

当時の江戸は広大な湿地帯が広がる沼地ですが、なぜ沼地かといえば、そこに利根川、荒川、隅田川、多摩川などの大きな河川が流れ込んでいるからです。

家康はこれを逆に利用し、江戸城を中心に、西は多摩川、東は利根川、荒川、隅田川を結ぶ運河(小名木川)をつくりました。(この時代には利根川は江戸湾に流れ込んでいました)

こうすることで、天候の影響を受けずに川を使って、またたく間に軍勢を関東全域に送ることができるようにしたわけです。

(もともとはそれぞれの河川は、いったん海に出なければ川をさかのぼって軍勢を派遣することができなかったのですが、海は荒れたら、その間、軍はまったく動きがとれません。そこで海岸線よりも内側に運河を作ることで、城にいる兵を、瞬時(はちょっと大げさですが)に関東の奥地にまで送り込めるようにしたわけです。)

家康のこの機動力の前に、関東の奥地にいた豪族たちは、短期間のうちに家康に従うようになりました。
さらに余勢をかって、家康は東北地方の諸大名たちも調伏していきました。

関東の奥地から東北にかけては、当時、多数の金山・銀山がありました。
家康は、そうした金山・銀山を次々と支配下に収めていきます。

ところがここに問題が生じるのです。

採掘した金銀は、秀吉時代の経済の仕組みでは、すべて大阪に運ばなければ「富」にならないのです。
そして現代の国際社会でもそうですが、原料産地というのは、常に買い叩かれる立場となります。

家康は、急がずに、採掘した金銀を、もっぱら貯め込んでいきました。
そして秀吉の没後、関が原を戦って豊臣家の大阪一極集中を崩すと、すぐに佐渡の金山、岩美の銀山を手中に収めました。

この二つの金山、銀山は、それまでの採掘地とは比較にならないほど多くの金銀を得ることができます。

しかし、大阪一極集中経済体制のもとでは、これは現代の資源国と西欧社会の関係のようなもので、徳川家は単に金銀を掘削しているというだけで、富にはなりません。

加えて、経済中心の社会体制のもとでは、国学にいう天下の百姓(おほみたから)の経済は、いっこうによくなることはありません。

それでも、太閤殿下(秀吉)の存命中であれば、秀吉自身が百姓(おほみたから)の出自であるという社会的な絶対の信用があります。
たとえ経済が大阪一極集中であったとしても、農家が秀吉のことを悪く思うことはないし、秀吉自身も、たいせつな国のたからは、農家であり産地であるということをちゃんとわかって政治の運営を行うという期待があります。

話せばわかるのです。

けれどその秀吉が亡くなり、切れ者とされた秀長(秀吉の弟)も亡くなると、残るのは、経済の大阪一極集中体制だけになります。

すると、関東以北は、金銀という宝の山を持ちながら、いっこうに民の暮らしは良くならず、家康もまた、金銀を単に手にしているだけで、それは宝の持ち腐れとなり、金銀を用いて公共事業としての河川の堤防作りや新田の開発をしようにも、その金銀は「使えない」ものとなってしまうわけです。(使うなら、その金銀はいったん大阪に持ち込まなければならない仕組み)。

つまり、民の安寧のために戦って豊臣式大阪一極集中経済を改めるか、戦わずに宝の持ち腐れに甘んずるかという選択になるわけです。
このことは、繰り返しになりますが、現代のアフリカなどの資源原産国と、西欧などの商業国との関係と同じです。

結局、家康が行った行動は、現代風に言うならば、コンゴなどの資源原産国が、西欧商業国と戦って勝利して、原産国中心型の世界体制を築いたようなものです。

これはすごいことです。
世界で、同様のことを成し遂げ、成功した国は、他にないのですから。

戦いに勝利した家康は、大阪経済は徳川の直営とし、政治は江戸、経済は大阪という体制を敷きました。

そして莫大な金銀と強大な領土、そして武力を背景に、国内秩序を再配置して、徳川300年の繁栄と安定の基礎を築いたわけです。

富は、誰かひとりが独占するものではなく、災害の多発する日本の国土において、常に非常時への備えと、民政のためにある。

このことは、家康が国学を基礎に置いたからこそ生まれた発想であったのです。

この国学の基礎となっているのが、飛鳥時代から奈良時代にかけて編纂された古事記であり、日本書紀であり、万葉集です。

これらを学ぶことは、結局の所、この日本という災害多発国家において、何が大切なのかを学ぶことです。

秀吉も偉大な人ですが、家康もまた、偉大な巨人であったと思います。

ねずさん

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