「元寇の真実を知ろう」

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元寇において、日本は元を強大な国家と知って断固戦いました。そのおかげで、いまのわれわれがいます。
先の大戦と同じです。
私たちの祖先は、私たちの国を守るために、何十倍もの兵力を持つ相手と、必死に戦ったのです。

東北地方の山間部に、「モッコ」という言葉があります。
「モッコ」というのは、ふるくから「この世の中で一番怖いもの」とされるもので、「何だかわからないけれども、とにかく一番怖いものなの」なのだそうです。

その「モッコ」は、じつはモーコ(蒙古)のことだといわれています。
元寇の恐怖が、東北の山の中で、いまでもこのような形で語り継がれています。
それほどまでに蒙古襲来は、鎌倉時代における「恐怖のできごと」であったわけです。

1268年、高麗(こうらい)の使いによってフビライの書簡が九州の太宰府にもたらされました。
ちなみにフビライがこの書簡を書いたのは、実は1266年のことです。
その書簡が高麗を経由して、ようやく太宰府に届くまで、なんと2年経過していました。

どこで書簡が停滞していたかというと高麗、いまの韓国北朝鮮です。

当時の高麗は元の属国でした。
ですから蒙古と日本が戦争になると高麗は兵員や食糧を負担しなければなりません。
事大主義で、ああでもないこうでもないと、高麗の国内でどうしようかとあれこれ議論やっている間に、2年が経ってしまったわけです。

その書簡が、いよいよ大宰府にもたらされました。
太宰府は、中国・朝鮮をはじめとするアジアに向けられた日本の玄関口です。

太宰府はこの書簡に驚き、幕府をとおして朝廷に書簡を届けます。

朝廷も、書簡を見てびっくりしました。
連日会議を重ねたあげく、諸国の大きな寺や神社に蒙古が来ないように、もし来ても勝つようにと加持祈祷(かじきとう)を命じました。
いまでいったら敵が攻めて来るというので、憲法九条を死守しようという識者に命じて、戦争放棄のお経を読ませたというようなものです。

ただ当時の朝廷が偉かったのは、鎌倉幕府にも「蒙古襲来に備えよ」と命じたことです。
つまり自衛隊に、ミサイル攻撃に備えよ、と命じたわけです。
ただ残念なことに、これは「命じた」だけでした。
具体策はなにもありません。

蒙古の書簡が到着からわずか6日後、北条時宗は、若干18歳にして幕府の頂点、執権の座につきました。
幕府も朝廷と同じです。
鳩首凝議(きゅうしゅぎょうぎ)《集まって熱心に会議をすること》をするのだけれど、結論がでない。
主戦派、穏健派、中間派に分かれて、議論がまとまらないのです。

北条時宗もこの時点では、執権に就任したばかりです。
周囲は老獪(ろうかい)な政治家ばかりです。
青二才のなりたて執権の言うことなど、誰も耳を貸そうとしない。
この時点での北条時宗は、執権という名の置物にすぎなかったのです。

結局、日本側の回答が出ないまま、しびれをきらしたフビライは、何度も高麗に、日本への使者の派遣を命じました。
ところが高麗も高麗です。
天候が悪いの、海が荒れたのと理屈をつけて、途中で帰ってきてしまったかと思えば、今度は蒙古に日本との通交をすすめたりと、まるでラチがあかない。

そもそもこの日本への派兵は、高麗が蒙古に言い出したことなのです。
高麗王は蒙古に、
「高麗には何の物産もありませんが、海を渡った先には日本という黄金の国があります。むしろそちらを奪うべきです。しかもその日本は弱国で、
白村江事件のときには唐と新羅がさんざんに打ち負かしています。
蒙古の大王の威力をもってすれば日本の黄金はまたたく間に大王のものとなるでしょう」

とけしかけたのです。

ところが蒙古は、新しく国を奪おうとするときには、新たに蒙古の傘下に入り、新規に攻めようとする国に近い国の兵をその先棒とするのがならわしです。

つまり実際に日本を攻めるとなれば、高麗がその先棒をすることになる。
口では日本は弱国だと言っても、実際には日本は東亜の大国であり強国です。

つまり高麗にとっては日本と戦うことには大きなリスクがある。
ですから高麗は言を左右にして、日本との戦いを先延ばしにしていたわけです。

業を煮やした蒙古のフビライは、四度目(日本には二度目)の使者として漢人の趙良弼(ちょうりょうひつ)に命じて、日本に赴(おもむ)いて日本との交渉をするように命じます。

本来であれば、これは高麗の役目ですから、蒙古からみたとき高麗は属国になったといっても信頼に足る国とはみなされなかったのでしょう。

同時にフビライは6千人の兵を高麗に送り込みました。
日本との戦いに備えるため、また高麗に有無を言わせないためです。

6千人の兵を受け入れるというのは、高麗にとってはたいへんなことです。

彼らのために土地や人や農耕のための牛を食料として提供しなければならず、このため高麗の人々は草や木を食べて飢えをしのいだと記録に残っています。

わずか6千人の兵の駐屯で、そこまで飢えるとは、当時の高麗の国力は、推(お)して知るべしです。

太宰府に着いた趙良弼たちは「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」と迫りました。

けれど朝廷からも幕府からも、待てど暮らせど返事はありません。
4ヶ月滞在した趙良弼はいったん高麗に戻りますが、再び日本にやってきて、今度は一年間日本に滞在しました。

この滞在は、戦争準備のための日本の国力調査のためだったといわれていて、趙良弼の報告を聞いたフビライは「大変よくできている」とほめたと記録にあります。

最初の使いから6年後となる1274年1月、フビライは高麗に、日本遠征のための造船を命じました。
高麗はそのための人夫3万5千人と食糧・材料の木材を出すことになります。

このとき高麗では、民衆が労働者として使役され、無理矢理食料を提供させられたりしたことで、またたく間に民衆の生活が苦しくなり、飢(う)えて死ぬ人も多くいたと記録に残されています。

それでも高麗は、わずか十ヶ月の間に大型船三百艘、中型船三百艘、給水用の小型船三百艘、あわせて九百艘の船を作りました。
ところが、これがまた問題でした。

最近でも韓国が請け負った橋梁工事で橋が落ちたとか、できあがった高層ビルが傾いたとか、韓国製品の粗雑さは有名ですが、このことは七百年前の昔も現代も変わりません。
高麗は、船を作るのにあたり、頑丈な中国式ではなく、簡単な高麗式の船を作ったのです。

1274年10月3日、蒙古兵6千人、高麗兵2万4千人、合計3万の兵を乗せた船が、高麗の合浦(がっぽ)を出発しました。
10月5日には対馬、14日には壱岐に到着し、島民を襲いました。
当時の島民の数は、数千人でしたが、そこをいきなり3万の兵が襲ったのです。

対馬・壱岐の人々は殺され、生き残った人は手に穴をあけられ、そこをひもで通して船のへりに鎖のように結ばれて吊るされました。
壱岐対馬の島民の惨状は、想像するだに恐ろしいことです。

ちなみにこの壱岐対馬への上陸を、彼らがなぜ行ったかには、明確な理由があります。

それは「食料調達」です。
一部の島民が彼らの船の舷側に吊るされたというのは、食用の干し肉にされていたのです。

ちなみに、こうした人肉食について申し上げますと、我が国には人肉食の習慣がないために、いたずらに残酷残忍を思い浮かべる人が多いですが、これは日本が四方を海で囲まれて、人が生きるのに必要な塩分とタンパク質を海から採ることができるという幸運に恵まれているからです。

海のない内陸部に住む人達にとっては、その塩分とタンパク質の補給は、人が生きるために不可欠の栄養素で、それらは動物の肉から摂取していました。

馬も牛も羊も、塩分とタンパク質補給の重要な食物であり、同様にそれらを食べて生きた人もまた、重要な食料であったわけです。

こうして十分な食料を確保した蒙古と朝鮮の連合軍は、いよいよ19日に博多湾に集結しました。

そして10月20日には筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津あたりにも上陸を開始しました。

当時の日本の武士たちは、ほぼ全員が兼業農家です。
それまでの日本の国内のいくさというものは、おおむね次のようなものです。

「いざ鎌倉」の掛け声で、農家の地主の若様(わかさま)が鎧兜に身を固めて馳せ参じます。
家の人は心配だから若様に、小者4〜5人をつけて出征させます。
おおむね馬上の者が武士。
その周囲に四〜五人の小者という構成です。

いくさがはじまると、双方の陣地から腕自慢の者が前に出て、
「やぁやぁ我こそは○○県○○村の○×△太郎と申す。
腕に自慢のある者は、おであえそうらへ」とやる。

すると敵の陣地からも、同じく腕自慢の男があらわれて、
「我こそは□□村の◇◇と申す。
いざや尋常に勝負、勝負~~」と名乗りをあげて、一騎討ちがはじまります。

小者を含めた両軍の全員が見守る前での一騎打ちです。
これはいまでいったら、有名人のボクシングやレスリングの試合みたいなもので、ギャラリーとなる観客(この場合は戦いの場にいる武士や小者たち)にとって、名だたる武士の一騎討ちは、当時としては最高の観戦です。

双方、全軍あげて、夢中になって応援する。

なんどかそうした勝負が繰り広げられると、戦場の双方の兵士たちの興奮も最高潮に達します。

すると双方から敵陣に向けて、石投げ合戦がはじまります。
ちなみに日本の鎧かぶとは、弓矢は通すし、槍や刀も、突かれたら、刺さってしまいますが、投石は、よく防ぐ仕様です。

そうした個人試合と、投石にはじまって、大将首をあげたら、それで終わりという日本式いくさ法に対し、蒙古と高麗の連合軍は奴隷を使った集団戦です。

日本の武士が前に出て行って、
「やぁやぁ我こそは」とやると、いきなり矢が飛んでくる。

凝り性の日本人にとって、弓も矢も、凝りに凝った高級品です。
当然、弓矢を持つのは馬上の若様たちだけです。

しかも手にした武器は、先祖伝来の銘の入った逸品です。
敵の雑兵に向けて弓を射るなんてもったいない、もったいない。
雑兵相手には、小石で充分です。

なにせ小石なら、地面にいくらでもあるからです。
下が黄砂の大陸とは、まったく違った戦い方になるのは当然です。
こうしたことを無視して、無理やり東洋史(中国史)に日本史を当てはめようとすると、無理が生じて歴史が歴史でなくなります。

集団戦術の蒙古軍では、最前線にいるのは奴隷兵です。
奴隷兵の命は、ただの消耗品ですから、粗製乱造した矢を持たせ、雨あられのようにこれを射かけます。

戦いの初期には、こうした双方の軍の戦い方の違いに、兵を引いて遠巻きにするしかなすすべがありません。

ところが、です。一夜明けてみると、蒙古・高麗の連合軍の船が一艘もない。湾内を埋め尽くしていた船が一艘も見あたらない。

これが一説によると、第一回蒙古襲来で大暴風雨がやってきて多くの船が沈んだというけれど、日本側の記録である『八幡愚童記』などを見ても、嵐のことは一行も書かれていません。
そればかりか
「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」
と書いてあります。

要するに何が起きたのかというと、神風が吹いて敵がいなくなったのではなくて、そもそもが様子見に来寇した蒙古・高麗連合軍が、無抵抗だった壱岐対馬と異なり、意外に日本側が武器を持って戦いに臨んだので、驚いて帰っちゃった、というのが真相です。

高麗の歴史書である『東国通鑑』には、夜半に大風雨があったこと、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだと書かれているのですが、これはどうやら意外な抵抗を受けて逃げ帰った蒙古・高麗軍が、本国である元に報告する際に記録を捏造したのであろうというのが、最近の通説です。

なんと、かれらの捏造歴史は、いまにはじまったことではない。
以上が第一回元寇である「文永の役(ぶんえいのえき)」です。

これに対し本当に神風が吹いたのが、文永の役の7年後に起った1218年の「弘安の役(こうあんのえき)」です。

この7年の間に、幕府の執権北条時宗は、幕府の執権として悩みに悩み、尊敬する蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)という日本に禅宗を伝えに来ていた宋のお坊さんに相談しています。

蘭渓道隆いわく、
「宋は蒙古を軽く見て、だらだらと交渉している間に侵略され、国をなくしてしまった」

また蘭渓道隆の後継者である無学祖元(むがくそげん)は、
「莫煩悩(ばくぼんのう)」という言葉を教わりました。これは
「あれこれ考えずに、正しいと思うことをやりとおせ」という意味の言葉です。

北条時宗の心は決まりました。
日本を守るため、祖霊を守り抜くために、断固戦おうと心に誓うのです。

こうして北条時宗は、敵がいかに世界を手中に収める大元帝国であろうと、断固として戦い、敵を撥ね退けると決意を固めました。
その決意を固めた北条時宗のもとに、文永の役の翌1275年4月15日、元から杜世忠(とせちゅう)を正使として、日本に降伏を迫る書簡が届きました。

その内容は、
「文永の役は蒙古の恐ろしさを知らせるのが第一の目的で早々に撤退したけれど、こんどはもっとたくさんの軍隊を送る。降伏するなら今のうちだよ」というものです。

しかし「国を守る」と覚悟を決めた北条時宗は、竜の口(たつのくち)の刑場で、杜世忠一行5名全員の首を刎(は)ねしまいます。
さらに見せしめとして、その首を晒し首(さらしくび)にしました。

この時点で、まだ国内の論は、主戦派と降伏派に分かれていました。
戦っても勝ち目がないなら、さっさと降伏して元への朝貢国(属国)となるのが良いというのが、降伏派です。

しかしそうなれば、元→高麗→日本の順番になりますから、日本は高麗のさらに下位に置かれる国になります。

そうなれば、日本から民衆の暮らしを守るための政府はなくなり、民衆から収奪する外国人政府が日本を牛耳ることになります。
実際に高麗国がそうであるように、日本もまた、わずか6千人の外国人を受け入れるだけで、民衆が餓死するような国になってしまう。

鎌倉武士団というのは、農家の若様の軍団です。
農家を護るために鎌倉武士団があるのです。
その農家が、ただ収奪されるだけの農家にならないためには、断固戦うしかない。

前回の文永の役のときには、まだなりたての執権として、老政治家たちの要するを見ることしかできなかった北条時宗も、就任からわずか1年の間に、それら老獪な政治家たちよりも、日本を護る幕府武士団の執権とし
て、明確な自覚と使命感のもとに、穏健派と呼ばれる老獪な政治家たちが、ぐうの音もでないほどの強い影響力を持たなければならない。

そういうときに、都合よく杜世忠の一行がやってきたわけです。
だから、彼らを獄門さらし首にした。
この事実の前には「もはや開戦やむなし」という選択しか日本に残されなくなったのです。

ところが困ったことに、全員殺してしまったので、肝心の元の側は使者が死んだとわからない。
いつまでたっても杜世忠が帰ってこないので、元は翌1279年6月に、周福(しゅうふく)を正使とする一行を、再度日本に送り込みました。
ちなみに杜世忠も周福も漢人です。
やはり高麗は信用されていない。

時宗はこの周福一行も、博多で斬り捨てました。
杜世忠と周福が首を刎ねられたことを知った元は、怒りました。

「断固日本を討つべし」
元の腹は固まります。

一方北条時宗は、全国の御家人に命じて、博多に防塁を築きました。
この工事への参加には、時宗は一切の反論も例外も認めませんでした。
国の大事の前に、ひとたびこうと決まったら、一切の例外は認めない。
日頃は言論の自由が保証された国であっても、「いざ鎌倉」というときには、一切の言論の自由は認めない。

これが非常時の対応というものです。

平時であれば、自由な言論空間や個人の都合優先・・・つまり私権の自由でも良いのです。
けれど一旦(いったん)緩急(かんきゅう)あるときは、国事が優先となります。

そのためにはいっさいの反論も許さないし、当然、私権も制限されます。
これが実は「国家の非常大権(ひじょうたいけん)」、もしくは「国権の発動」と呼ばれるものです。

こうした平時と非常時の使い分けは、社会を営む上においては、絶対に必要なことです。

1281年(弘安四年)、元は、范文虎(はんぶんこ)を総大将とする14万の大軍を博多に差し向けました。
対する日本の武士団は、小者の数まで入れて6万5千人です。
武士だけ(若様たちだけ)なら、わずか1万の軍勢です。

つまり兵力でいえば14倍の大軍を相手に鎌倉武士たちは戦いに臨むことになりました。

大軍に対して寡兵で臨むためには、正面攻撃は理にかないません。
鎌倉武士たちは、夜陰にまぎれて敵船に火をつけたり、上陸した敵軍の将の首を射るなどの戦法を用いながら、果敢に戦いました。

一方、元軍は、あらかじめ日本軍が用意した防塁(ぼうるい)に阻(はば)まれて、なかなか内陸部までの侵攻ができない。
戦線は港内で膠着状態となります。
そして運命の7月1日がやってきます。

旧暦の7月1日は、いまでいえば8月16日頃です。
この日、北九州方面を、大暴風雨が襲いました。
港をうめつくしていた4千艘の船は、台風のまえに、ひとたまりもなく破壊されました。

なんといっても船は手抜きの高麗製です。
嵐の前にどうにもならない。

台風が去った翌2日、港には、船の残骸と無数の蒙古と高麗の兵の死体が湾内を埋めつくしました。

当時を記した『八幡愚童記』は、このときの様子を
「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記しています。

『高麗史』でも
「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入る。浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」と書き遺しています。
つまり海を埋め尽くす死体の上を歩くことができたほど、死体の数が多かったのです。

『高麗史』によれば、生存兵1万9379人です。
士官や将官などの上級軍人の死亡率7~8割、一般兵士の死亡は8~9割にのぼったという。

14万の大軍が、一夜にして2万に減ってしまったのです。

すっかり戦意を無くした范文虎らは、残った船で宋へ引き上げてしまう。
港には、置き去りにされた元の兵士が多数残されます。

日本側はたちまち生き残りの元軍兵士におそいかかります。
戦闘は7月7日まで続きました。

捕虜となった数千の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録後、ことごとく首をはねました。

残虐ななぶり殺しのような真似は日本人はしません。
殺す時は相手が苦しまないよう、いっきに首を刎ねる。
殺害したことに抵抗のある人もいるかもしれないけれど、放置をすれば彼らはあちこちで日本の民間人を殺して食べるのです。

加えて壱岐対馬での彼らの残虐行為を考えれば、当時の日本軍のやり方は、紳士的にすぎるといって良いといえます。

今でも博多周辺には蒙古塚とか首塚と呼ばれる場所が残っていますが、これらは当時元軍兵士の首を埋めた場所です。
遺体は、日本はちゃんと供養までしています。
この供養のために行われたのが、いまも残る「踊り念仏」です。

さて、こののちのお話です。

最近の歴史書では、鎌倉幕府は、弘安の役に対する御家人への恩賞が不十分だった(外国からの防衛戦だったために、恩賞を与える土地がなかった)ことから、

「鎌倉幕府は、外国からの侵略は防げたが、御家人の生活を守れなかった。このため鎌倉幕府は御家人たちの不満が募り、滅亡した」などと書いているものがあります。

全然違います。

鎌倉幕府の滅亡は、1333で、弘安の役の52年後です。
幕府は源家から足利家に移るけれど、その後1868年の明治政府樹立まで、日本は長い武家政治の時代が続いています。
なるほど鎌倉幕府は滅んだけど、日本の国体が解体されたわけでもないし、それどころか征夷代将軍が交替しただけで、武家政治はその後五百年もの長い間続いたのです。

このことが証明しているのは、つまり武家を施政者として認める風潮が我が国に定着した、ということです。
いいかえれば、元寇によって日本国内では、武家の信用が増したということです。

「文永の役」と「弘安の役」、この2つの日本史上の大事件は、わずか一万の武家で14万の大軍と対峙し、これを打ち破って国を守ったという事実を、東北地方の「モッコ」の怖さの伝説同様、武家というものが国を守る誇り高き志士たちであるという認識を深く日本人の心に刻んだ事件であったのです。

最後に、蒙古のフビライが日本に送ってきた書簡(文永の役の前のもの)の口語訳を掲載します。
是非、ご一読してみてください。


大蒙古国・国書

天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。
昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、互いに仲良くすることに努めてきた。
まして大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり、はるか遠方の国々も代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。
例えば私が皇帝になってからも、高麗が蒙古に降伏して家来の国となり、私と王は父子の関係のようになり喜ばしいこととなった。

高麗は私の東の領土である。
しかし日本は、昔から高麗と仲良くし、中国とも貿易していたにもかかわらず、一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか?
日本が我々のことを知らないとすると困ったことなので、特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝える。

これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。
我々は全ての国を一つの家と考えている。
日本も我々を父と思うことである。
このことが分からないと軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない。
日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい。

至元三年八月(一二六六年・文永三年)


相互に仲良くしようといい、一通の国書をも送らないとささいなことでケチをつけ、すべてをひとつの国であるなどと調子のいいことをいい、元を父と思えと都合のいいことまで云いながら、その一方で言うことを聞かないのなら軍を送るぞと、脅かしています。
これは、いまの中共やコリアの対日外交姿勢と同じです。

元寇において、日本は元を強大な国家と知って断固戦いました。
そのおかげで、いまのわれわれがいます。
先の大戦と同じです。
私たちの祖先は、私たちの国を守るために、何十倍もの兵力を持つ相手と、必死に戦ったのです。

また、文永の役では実は神風(かみかぜ)が吹かず、弘安の役で神風が吹きました。
そこに大切な事柄があります。

当時、ただ動揺するだけの朝廷や、幕府の閣僚に対し、北条時宗は元の使者を切り捨てることで、明確に「戦う意思」を示しました。
このため彼は、当時の多くの平和派、戦争忌避派の人たちから、反対と怨嗟の声を浴びました。

それでも北条時宗は、断固として「戦う意思」を示しました。

弘安の役で、もし日本が戦うという選択をしなかったのなら、元の大軍は、易々と上陸を果たしていたことでしょう。
そして上陸していたならば、彼らが台風で壊滅することもなかったことでしょう。

つまり何をいいたいかというと、元寇における真の「神風」は、「台風ではなく北条時宗の決断そのものだった」のではないかということです。
時宗そのものが「神風」だったのです。

そしてその堂々とした決断に、日本の八百万の神々が、台風をもって答えてくれたのです。

その後の歴史は、元も高麗も、元寇のあと、内乱に次ぐ内乱が起こり、元は明に滅ぼされ、高麗は李氏朝鮮に統治が変わり、とりわけ李氏朝鮮は、国民にとっての収奪国家としてその後の半島の発展を四百年間の長きにわたって失わせています。

日本に手を出した国は必ず滅びるのです。

ねずさん

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