「根源」に生きる

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田中清玄 ~ 「根源」に生きる

戦前の共産党委員長から、母の諌死を機に皇室護持に生きた人。

■1.暗闇に浮かび上がった母の顔

トンネルを抜けて出口に近づいたところで、突然暗闇の中から、母の顔が浮かび上がった。

常々、母は私に、
「お前が家門の名誉を傷つけたら、お前を改心させるために、自分は腹を切る」と言っていた。それをすぐ思い出して「あっ、やったな。母は腹を切ったな」って、その瞬間、そう思いました。以後、このことは私の心の中に重くのしかかって、その後の人生の道を決める上で、決定的な影響を与えました。

昭和5(1930)年2月5日、和歌山市郊外の和歌浦で、田中清玄(きよはる、せいげん)は共産党の仲間たちとともに官憲と激しく撃ち合った後、アジトに帰る途中のことだった。果たして、母親は次のような遺書を残して自決していた。

お前のような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して、自分は責任がある。また早く死んだお前の父親に対しても責任がある。自分は死をもって諫める。お前はよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな。

■2.共産主義への違和感

清玄は大正13(1924)年に旧制弘前高校に入学した。在学中にドイツ語の『共産党宣言』を読み、それから共産主義に近づいていった。昭和2(1927)年東京帝国大学に入学し、共産党に入党。前年に全国で共産党員の一斉検挙が行われ、共産党は壊滅的打撃を受けた。清玄はその再建の中心となった。

党の中枢で活動しながらも、田中の心中には「モスクワから指令される共産主義」に対する違和感が育っていた。一つは昭和2(1927)年にコミンテルンが出した「27年テーゼ」で「天皇制」廃止が打ち出されたこと。

このときにも心底で大きな違和感を感じていました。それは私だけではなく、一般の労働者やインテリの多くもそうでした。当時の労働者農民大衆は、天皇制廃止というスローガンを、無批判に受け入れることはできなかったんです。

もう一つは、スターリンのやり方がだんだん分かってきたことだった。スターリンは猜疑心が強く、自分の地位を脅かしそうな者は先手を打って殺してしまう。清玄が頼りにしていた山本縣藏は、ソ連で野坂参三に密告されて粛正された。スターリンは田中にもモスクワに来いと言ってきたが、用心深い清玄は行かなかった。

■3.共産党に対する「一番大きな打撃」

母の自決の5か月後、清玄は逮捕され、無期懲役を宣告された。五十数件も官憲殺傷事件を起こし「死刑にならなかったのが不思議」[1, p79]だったが、取り調べをした平田勲、戸沢重雄の二人の検事は「思想犯に死刑なし」を一貫して主張していた。「皇室を守るために共産党員を死刑にするというのでは、真に皇室を守ることにはならない」という持論を持っていた。

清玄の同志でやはり捕まった田島善幸は、京大の同級生たちが「卒業試験だけは受けさせてやりたい」との嘆願書を出し、それが認められて、獄中で卒業ができた。「こういうことが共産党なんかに対する、一番大きな打撃になるのですよ」と清玄は言う。マルクス主義は階級的憎悪をエネルギーとしているから、真心で接せられると、そのエネルギー自体が萎えてしまうのだろう。

看守たちとも仲良くなって、対抗野球をしたりした。京大野球部だった田島や打撃が得意だった清玄たちの受刑者チームが勝つと、看守たちは悔しがった。新聞や雑誌も読め、汁粉を作ったり鶏を飼ったりと、「入らぬのは芸者だけ」と清玄が冗談めかして言うほどだった。刑は罰ではなく、受刑者を立ち直らせるためという「教育刑主義は徹底していた」と清玄は言う。

清玄は獄中で共産党への訣別宣言をする。その過程をこう語っている。

スターリンに対する批判を通じて、最後はマルクス主義、共産主義との訣別に進んでいくのですが、その過程で私自身が考えたのは、結局のところ、マルクス主義が西洋合理主義の申し子であり、その西洋合理主義は一神論のキリスト教とギリシャ文明を母胎にした混合造形であるということでした。・・・

八百万の神といいますね。この世に存在するあらゆるものが神だという信仰ですが、この信仰が自分の血肉の中にまで入り込んでいて、引きはがすことはできないと。そうしてその祭主が皇室であり、わが民族の社会形成と国家形成の根底をなしているということに、私は獄中において思い至ったのです。考えて考えて、考え抜いたあげくの結論でした。

■4.「自分の進むべき道はこれだ」

受刑中に出会ったのが、講話に来た玄峰老師だった。その時、清玄は「日本をああしたい、こうしたい」と語ったが、じっと聞いていた老師は最後にこう言った。「あんたはけったいな人やなあ。自分自身が何であるか分からなくて、どうして人のことが分かるんや」

返す言葉もなく黙っている清玄に老師は一冊の本を差し入れてくれた。白隠禅師全集だった。最初は何がなにやら分からぬまま、十数回も繰り返し読み通し、やっと「自分の進むべき道はこれだ、玄峰老師から学ぶしかない」と確信するに至った。

無期懲役だったが、皇太子殿下(現・上皇陛下)のご生誕と紀元2600年で2回の恩赦を受け、昭和16(1941)年4月29日に出所できた。すぐに静岡県三島の龍沢寺へ行って、玄峰老師に「修行をさせてください」とお願いした。その年に大東亜戦争が始まったが、老師は清玄を脇目もふらずに修行させた。

戦況が不利になりつつあった昭和19(1944)年の秋頃から、老師は沼津に何度か通っていた。清玄は途中まではついていったが、その先はどこに行っているのか、教えてくれなかった。

ある時、戻ってきた老師が「貞明様(弊誌注: 大正天皇のお后)も今上様(昭和天皇)も、日本の運命をいかい(ひどく)心配してござるぞ」と独り言のように言った。沼津御用邸に避難されている貞明皇太后に会われているな、と分かった。

■5.生死を乗り越えた人々

昭和20(1945)年3月末、老師は鈴木貫太郎と会った。海軍大将であり、昭和天皇の侍従長も務めた人物である。老師に付き添っていた清玄はお茶を出したりしながら、二人のやりとりを聞いていた。

当時、鈴木は東條英機退陣の後の首相就任を求められていた。「武人、政治に関与すべからず」という軍人勅諭を金科玉条として生きてきた鈴木は迷っていた。老師は言った。

あなたは純粋すぎる。しかし、今はそういう人こそが必要だ。名誉も地位もいらん、国になりきった人が必要だ。あなたは二・二六(事件)で、一度あの世に行っている方だ。だから生死は乗り越えていらっしやる。お引き受けなさい。ただし戦争を止めさせるためですよ。

老師の言葉に従って鈴木は首相となり、8月9日と14日の御前会議において、昭和天皇から「自分の身はどうなっても」とポツダム宣言受諾の御聖断を引き出し、終戦を実現した。

8月14日に、清玄は玄峰老師から総理宛の手紙を届けに官邸に行った際、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣に出くわした。阿南は御前会議の決定通り、陸軍全体の暴発を抑えた人物だった。阿南は「私は老師にはえらいお世話になった。くれぐれも阿南が感謝しておったとお伝えください」と、頭を深々と下げた。

お顔の色がなんともいえず透明な感じで、俗気というものがこれっぽっちもない。あれが仏の顔というのだろうね。真夏ですよ。これは死ぬ気だなとすぐに分かった。翌日未明には、もう腹を切られたわけですからね。

昭和天皇、鈴木首相、阿南陸相など、生死を超えた人々の手によって終戦は実現した。

■6.陛下に申し上げた3つのこと

敗戦直後の10月、清玄は『週刊朝日』に「天皇制を護持せよ」との一文を寄稿した。諸民族の複合体である日本が大和民族を形成できたのは社会的融合の中心になっている天皇制があったからだ。あらゆる物を取り入れ共に生きるという古来からの真正な神道、これこそが日本の進むべき道だ。今こそ天皇制を護持せよ、と書いた。

たまたま玄峰老師と親しくしていた菊池盛登氏が禁衛府(後の皇宮警察)の長官になっており、この一文を陛下にお目に掛けた。12月頃、菊池氏に呼ばれて「陛下にお会いできることになったから、平服で着てくれ」との連絡があった。生物学御研究所を拝観している時に、陛下にたまたまお目に掛かった、ということにするという。

清玄は12月21日に昭和天皇に拝謁した。清玄は「陛下に弓を引いた共産党の書記長をやり、今日では根底から間違っておることが分かりました」と切り出し、「二千数百年間、日本を統一融和させてきた皇室に深く感謝し、陛下にも心から敬意を表します」と述べた。そのうえで、清玄は陛下に3つのことを申し上げた。

一つは、
「陛下は絶対にご退位なさってはいけません。軍は陛下にお望みでない戦争を押し付けて参りました。これは歴史的事実でございます。国民はそれを陛下のご意思のように曲解しております。陛下の平和を愛し、人類を愛し、アジアを愛するお心とお姿を、国民に告げたいと思います。摂政の宮を置かれるのもいけません」
ということ。当時、退位論が盛んでしたから、摂政の宮をおけという議論もあった。もう一つは、
「国民はいま飢えております。どうぞ皇室財産を投げ出されて、戦争の被害者になった国民をお救いください。陛下の払われた犠牲に対しては、国民は奮起して今後、何年にもわたって応えていくことと存じます」
ということ。三つ目は、
「いま国民は復興に立ち上がっておりますが、陛下を存じ上げません。その姿を御覧になって、励ましてやって下さい」
というものだった。

陛下は「う―ん、あっ、そうか。分かった」と、びっくりしたような顔をされて、大きく頷(うな)づかれた。清玄は、陛下の「水晶のように透き通ったお人柄と、ご聡明さ」に打たれて、思わず「私は命に懸けて陛下並びに日本の天皇制をお守り申し上げます」と約束した。

■7.昭和天皇の3つの実行

清玄の3つの提案はすべて昭和天皇により実行されている。

すでに昭和天皇は9月27日のマッカーサーとの会見で、「(日本の)すべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する(連合軍)諸国の採決に委ねるためお訪ねした」と述べて、マッカーサーを感動させていた。退位などによってご自分は助かろう、などというお気持ちはかけらもなく、あくまで天皇としての全責任を全うしようとされた。[b]

皇室財産については、マッカーサーとの別の会見で皇室御物の目録を渡され、これを代償に国民を餓死から救って欲しいと依頼された。これにも感動したマッカーサーは「かならず食料を本国から移入する方法を講ずるから、安心されたい」と答えた

第三の国民を励ます事に関しては、8年半をかけて沖縄を除く全都道府県を回られた。昭和天皇に励まされた国民が力を合わせて、戦後復興に立ち上がった。

昭和天皇がこれら3点を実行されたことが、我が国が戦後の混乱を乗り越えて、復興に邁進できた大きな要因であった。

昭和天皇の3つの御行動が清玄の提言に従ったものなのか、昭和天皇ご自身でも考えられていたことなのかは不明である。ただし、「水晶のように透き通ったお人柄と、ご聡明さ」で国民の安寧を願われる昭和天皇と、「あらゆる物を取り入れ、共に生きる」事が日本の進むべき道と喝破した清玄が、まったく同じ考えに辿り着いたとしても不思議ではない。

■8.「根源的な」生き方

田中清玄は、その後、吉田茂から中曽根康弘までの歴代首相のみならず、トウ小平、スハルト、アンドレ・マルロー、ハイエクなどの世界の錚々(そうそう)たる人物と親交を結び、様々な分野でひたすら日本のために尽くしていく。常人には信じられないほどのスケールの大きな人生を歩んだ。

清玄と2年近い間インタビューを重ね、それを[1]としてまとめた大須賀瑞夫氏は、「解題」で清玄の特徴の一つは「極めてラジカルな人物である」ことを挙げている。

この場合のラジカルとは、極右、極左などという過激派の意味よりは、字義本来の「徹底的」あるいは「根源的」ということに近い。そしてそれは彼の生涯を貫いていることがわかる。

「ラジカル」の語源は「ルーツ(根)」だ。清玄がマルクス主義に違和感を覚え、ついには「この世に存在するあらゆるものが神」で、その祭主が皇室であり、日本国家の形成の中核をなした、という「根っこ」に辿り着いた考え方は、まさに「根源的」である。そこから来る湧き出る真心が世界の錚々たる人物の共感を呼んだのではないか。

清玄ほどのスケールは無理でも、我々も我々なりの「根源的な」生き方を目指して行くことはできよう。

                                    
  (文責 伊勢雅臣)

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