「本来、権力と責任は一体です」

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本来、権力と責任は一体です

困ったときは原点に帰ることとは、よく言われることです。
原点回帰することで、私達は犯罪対策についても抜本的な見直しが必要なときにきていると思います。

女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人が再犯で逮捕されました。
性犯罪というのは、性癖を伴うものです。
従って強姦癖のある者は、娑婆に出てきたらまた同じ犯行を繰り返します。

ところが警察は、事件が起きてからでなければ動けないし、一昔前まで強姦は親告罪で被害女性が自分で強姦されましたと訴えでなければ警察は動いてくれませんでした。

警察は警察で、人を逮捕するということは重大なことだから、それが本当に強姦といえるのか、強姦でなかったということを前提に、根掘り葉掘り被害者に質問する。

これに耐えきれる女性は、決して多くなかったのです。

一方、女子高生コンクリート詰め殺人事件のように、強姦致傷どころか殺人という重大犯に対して、少年で反省しているからという理由で量刑を軽くし、結果として短い服役で娑婆に出てきて、その後は「俺は事件の実行犯だ」と女性を脅して強姦をし続けた馬鹿者を放置した裁判官も弁護士も、何の責任も負わない。

これまた異常なことといえます。

たとえば裁判官は、冤罪事件などを起こせば出世に響くといわれています。

つまり犯人でない人を犯人だとして判決したら、(これもいけないことですが)、ただ出世に響くだけです。

では、犯人が再犯を繰り返し、しかもそれが重大犯であったら、裁判官には何かペナルティがあるのかといえば、まったくありません。

つまり、刑事事件において、罪を軽くしたり無罪放免すれば、責任を問われることはないけれど、重い判決を下して冤罪だと騒がれると、裁判官は出世に響くというわけです。

これはおかしなことです。

そもそも世の中が安全で安心して人々が暮らせるように、法で罪が定められて裁かれるのです。

にもかかわらず、世の中の安全と安心をむしろおびやかせば出世でき、世の安全と安心を守ろうとすれば叩かれるのです。

ちょっと考えれば誰でも気がつくことですが、これは明らかにおかしな仕組みです。

弁護士に至っては、犯罪を犯した者について巧妙に言い訳をつけて無罪を勝ち取れば、有能な弁護士として大儲けできます。

しかし、そのことによって世の中の多くの人々に不安を与え、世間の安全や安心を脅かしても、なんの罪にも問われないし、何の責任も負いません。

こうしてみると、どうも裁判官も弁護士も、というよりいまの司法の仕組み自体が、悪人をのさばらせることにばかり注力していて、まるで普通の日本人の普通の生活には何の責任も負わないという、きわめて非常識な存在に見えてきます。

あべこべなのです。

そもそも冤罪が問題視されるほどまで、犯行を行う者をのさばらせておいたこと自体が、社会的に見てマイナスです。

これは火事に例えれば、いつ大規模火災が発生してもおかしくない状況を、まるで手付かずのまま放置しておいて、いざ大火災が起きて、街中が丸焼けになった後で、放火の犯人探しをしているだけなのと同じだからです。

たとえ放火があったとしても、ボヤでおさまり、絶対に大火災に至らないように日頃から準備し、かつ、放火魔のような者は、放火を始める前に逮捕し、説諭し、罰金を課すべきなのです。

まだ放火しているわけでもなく、「疑いあり」というだけですから、この場合、せいぜい3000円の過料で済みます。

冤罪だと大騒ぎすうるほどのものでもない。

これが江戸時代ですと、その過料は、犯行をしそうだという本人だけでなく、疑われた人物の両親、親戚、住んでいる長屋の人たち、長屋の大家さん、地主さんまで、過料の対象です。

要するに、過料など受けたくないなら、自分たちの小さなコミュニティの中で、犯罪者を出さなようにちゃんと気をつけろ、ということです。
長屋自体が処罰されるのも、そのような不埒(ふらち)な輩(やから)を、江戸に住まわせるな!ということです。

また、もし実際に重大犯が起きたらどうなるかといえば、その町の治安を預かる奉行は切腹です。

当然です。

重大犯が起きないように、奉行にはありとあらゆる権限が与えられているのです。

それが実際に事件が起きたのなら、権限に等しいだけの責任をとってもらう。当然のことです。

ひるがえって現代日本ではどうでしょう。

犯罪を取り締まる警察署長も、犯人の弁護をする弁護士も、量刑を間違えて軽くしてしまって世の治安を乱した裁判官も、人を逮捕したり弁護したり裁いたりする権限を持っていながら、その権限に等しい責任は、まったく問われません。

つまりそれは無責任だということです。

はっきり言ってしまえば、いまの日本では、責任を問われない無責任警察が人を逮捕し、無責任な弁護士が犯人の弁護をし、無責任な裁判官が判決を下しているわけです。

そしてそのことに誰も疑問すら抱かない。
それこそ洗脳です。

無責任社会です。

社会が無責任社会なら、犯罪は野放しになります。

それでも多くの日本人にはDNAに染み込んだ良心がありますから、平穏な生活を送ろうと努力しますが、そうでない人たちにとっては、日本は犯罪し放題の犯罪天国です。

それはまるでソドムやゴモラと同じです。

日本はイザナキとイザナミの昔から、「よろこびあふれる楽しい国」を希求し続けた国です。

そしてそれは、誰もが豊かに安全に安心して暮らせる社会の実現によってもたらされます。

従って、日本社会の根幹となる価値観は、
民衆が豊かであること
民衆が災害や戦乱や犯罪から安全であること
民衆が安心して暮らせる世の中であること
に尽きます。

政治はそのために、責任を持って行われるものです。

ちなみに「世襲」というものが、まるで悪のように戦後言われていますが、奉行にしても、裁判官や警察署長にしても、権力がある分、それに等しい責任を負担するのです。

殺人事件が起きたら奉行が切腹ということは、いまで言うなら、管内で殺人事件が起きたら警察署長は死刑というのと同じです。

誰だって死にたくはないですから、それこそ必死で治安維持に当たる。

しかしいざというとき、従容(しょうよう)として死ぬという覚悟は、幼い頃から私心をなくするという教育を受けてこなければ、現実問題として、なかなかできることではありません。

まして切腹なら、自ら腹に刃を当てるのです。

だからこそ覚悟の人には、幼少時からそのための教育を受けてきた人になっていただくというのが、もともとの世襲の意味です。

成り上がり者には、欲や執着があるから、なかなかできることではないからです。

厳しいことを申しましたが、困ったときは原点に帰ることとは、よく言われることです。

原点回帰することで、私達は犯罪対策についても抜本的な見直しが必要なときにきていると思います。

それはあくまで、私達一般の民衆の、安全と安心のためです。

ねずさん

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