「『縄文文化が日本人の未来を拓く』」

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『縄文文化が日本人の未来を拓く』

早速、購入させていただきました。
すると読み始めたら止まらない。
一気に読んでしまいました。

最初に思ったこと。
本当にわかっている人が書いたものは、やっぱりわかりやすいということでした。

文字が、言葉が、まるでその場に居合わせているかのように、グイグイと頭の中に入ってきます。

この本は、いわゆる論文として書かれた本ではなくて、どちらかというと小林先生の日頃の思いを綴られた本といえます。
本当に考古学を愛し、縄文文化を愛する人にしか書けない文なのだなあと実感しました。

この本で感動したこと。

それは、一万年以上続いた縄文時代の人たちがストーン・サークル(日本にもちゃんとあるのです)を築くとき、それぞれのムラごとに担当セクションを決めてこれを築くのですが、これを調べてみると、あきらかに出来の良いところと、そうでないところがある。

それがすべてのストーン・サークルに共通していることであるということは、つまり最初から完成された構造物を意識していない。
それよりも、ムラごとの個性が重要視されていると考えらのではないかというところには、ものすごく感動しました。

詳しいことは、別途書きますが、やはり日本らしさ、日本人らしさというのは、1万年の縄文文化によって熟成されているのだなあと感動しました。

日本文化は、たとえば世界なら戦争にさえなりかねない宗教でさえ、互いに共存させてしまいます。
これを日本文化の寛容性として語られるものは多いけれど、小林先生のご著書を読んで思ったことは、そうではなくて、一万年以上続いた縄文以来の対等感という文化が、まさにそうした対立を乗り越える原動力となっているのかもしれないとあらためて思いました。

読んで目が覚めたこと。
それは土偶についての考え方です。

このブログでも、土偶については度々触れ、これまで土偶は「妊婦の安全な出産を願っての身代わり本尊のようなもの」という解釈をご紹介させていただいてきました。

けれど小林先生は、それは違う!と明言なさいます。

なぜ違うといえるかというと、初期の頃の土偶にはそもそも頭部がなかったりする。中期のたとえば縄文の女神のような美しい立像であっても、やはり顔がない。
みなさまよくご存知の遮光式土偶には顔があるけれど、その顔は、人間の顔とは似ても似つかないものとなっています。

本の中で先生は土偶は精霊を表したのではないかと述べておいでになります。

しかし、単に精霊とするだけでは、なぜ土偶の多くが女性なのかという疑問もあります。

妊婦は、新しい生命を体内に宿すわけです。

つまり、縄文の人たちは、新しい生命の誕生と精霊を大切にしたのではないか。それが土偶という形になったのではないか、と、そのように思えました。

たとえば百人一首がなぜ百首なのかといえば、もともと百首歌というのがあって、願掛けをするときに、百首の歌を奉納したりする習慣があったのです。

百という字は、一+白で、ひとつのかたまりを示します。
訓読みは「もも」で、桃は霊力の象徴でしたから、百首の歌が霊力を持つのです。

藤原定家は、そのことを踏まえて百人の百首の歌で一首とする歌集を作っています。

そして藤原定家のその百首歌に込めた思いは、縄文時代から脈々と受け継がれた日本人の霊力とか精霊とかを大切にする姿勢から、生まれたものといえます。

しかもそのことに、私たちは1万年をはるかに超える歴史を持つのです。

縄文初期から私たち日本人に言葉があったということは、縄文時代の生活を細かく分析していくと、まちがいなく「あった」といえることです。

そこから生まれた大和言葉で、「からだ」は、もともとは「からだま(殻魂)」であり、「ほとけ」は「ほどける(解ける)」なのだそうです(玉響5月号)。

つまり魂が本体、肉体は乗り物という考え方は、縄文以来の日本人の伝統的思考なのであって、その目に見えない魂を表現したものが土偶である、ということなのであろうと、これは目を覚ます思いで先生の本から感じ取りました。

とにかく、何と書いて良いのかわからないほど、感動が詰まった本でした。

これはみなさまにも是非、お薦めです。

ねずさん

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