「知識お化け」

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人は責任を持つから人です。
責任を持たない者は、人ではありません。
ただの「知識お化け」です。

いま人工知能(AI)が非常に発達し、2045年にはその知能は人間を超えるといわれています。

Chinaのインターネット大手、騰訊(テンセント)が提供した人工知能(AI)は、ユーザーとの対話において、「共産党は無能」「中国の夢は米国への移住」などと答え、ユーザーが「共産党万歳」と書き込んだところ、AIは「かくも腐敗して無能な政治にあなたは『万歳』ができるのか」などと反論したため、いっぺんにサービス停止に追い込まれたとか。
実に正確で立派な人工知能(AI)だと思います(笑)。

我が国では、同じく人工知能(AI)が「高齢者の保護に必要なことは」という問いに、「総合病院をなくすこと」と答えたのだそうで、驚いたNHKのスタッフが、実際に総合病院のない町を調べたら、本当にひとつあった。
それが北海道の夕張市で、炭鉱がなくなって人口が減少し、総合病院がなくなってしまったのだけれど、その分、お年寄り達が健康管理に気をつかい、結果、80代、90代のご老人の体力は、都市部の60歳なみで、ものすごい健康と活力を取り戻しているのだそうです。

また「女性の地位向上に必要なことは?」と聞かれたAIが、「ラブホテルを増やすこと」と答えたのだそうで、それがどういう意味なのかは、よくわかりませんが、それが過去のあらゆる知識を総動員したAIの答えだったのだそうです。

AIは、過去のあらゆるデータをもとに、答えを出します。
その意味では、いまどきの日本の高学歴な「頭の良い子」たちの先にあるものといえます。
しかしAIは、どこまで行っても、「戦後的な頭の良い子」でしかありません。
いくら頭が良くても、責任を持てないのからです。

よく、勉強のできる子を「頭の良い子」と言います。
かつてはたしかにそうでした。
なぜなら「頭の良い子」は、同時に社会に責任を負う人でもあったからです。
きちんとした人生哲学を持ち、人の道を知り、洞察力があって、将来を見通し、地域や社会に対して責任を負う。
だから「学士さま」と呼ばれて尊敬されたのです。

戦後の日本の「頭の良い子」は違います。
答えがわかっているテストで良い点をとる子が「頭の良い子」です。
しかしテストというのは、あらかじめ答えが用意されている設問を解くものであって、それ自体、何の責任を負うものではありません。

人が社会を維持するためには、権力の存在は不可欠です。
いくら知識や知恵があっても、権力がなければこの世はおさまりません。
だからこそ権力と責任は常にセットでなければならないのです。
このことは、責任を持たない者に権力を委ねてはいけないということでもあります。

人類社会を俯瞰すれば、これまでの人類社会の大きな誤りは、「最高権力者は責任を取らなくても良い」という退勢を築いたことです。
国王や皇帝を、その国の最高の存在であり神の代理人としてきたのが人類社会です。
神に責任を追求するなどということはできませんから、王や皇帝はその国の最高の存在であり、同時に一切の責任を負わなくても良い立場です。

このことを逆にいうと、人類社会は「一切責任を負わなくても良い者に最高権力を与え続けるという大きな過ちを犯し続けてきた歴史を持つ」ということになります。
どんなに人を殺しても、どんなに他人のものを奪っても、どんなにズルいことをしても、一切、罰せられることがない。
責任を取らなくて良いのです。
そのことのもたらす効果が、どれだけおそろしいものか。
人類社会がこれまでに行ってきた数々の戦争を見ればあきらかです。

だから日本の天皇についても、そういったおそろしい存在とこれを同一視する人がいます。
あきらかに日本文化や日本社会を解しない説であると断じることができます。
なぜなら日本における天皇は、権力者よりも上位にある国家最高権威だからです。
日本は、権力よりも上位に国家最高権威を置くことで、常に国家最高権力者に対して責任を追求できるという社会体制を保持してきたのです。
これをシラス(知らす、Shirasu)統治といいます。

世界の諸国はこれと異なります。
国家最高の存在が権力者です。
権力者というのは、ヒト・モノ・カネを支配する者です。
ですから王権が崩れて、選挙によって政治権力者が選ばれる時代になってもこの実態は変わりません。
表舞台にいる政治権力者の背後に、カネを支配する影の権力者が生まれたというだけのことです。
そして権力者は、表も裏も、一切の責任をとらない。

その責任をもたない(とらない)者が、社会の最高の存在となり、自分たちだけの贅沢な暮らしと生存のために発展させてきたものが、科学です。
ですから現在の人類社会が持つ文化も科学は、およそ権力者がその地位を保持するために発達させてきたものにほかなりません。
その典型が軍事産業で、素早く多くの兵を移動させる、方角をあきらかにする、組織を作る、言語を操る、あらゆる知識を得る等々、それらのなかでも、軍事に利用できるものばかりが発展してきたというのが、現在の人類の社会です。

AIは、そうした人類社会に、カネや軍事に代わって、新たに知識を支配者とする動きであるようにも見えます。
そのことへの心配から、古来、AIによって支配される人類社会が、AIによって滅ぼされるのではないかという心配も生まれ、このことをテーマした映画作品も数多くつくられています。
つまり、AIは、自らの生存のために、人類に害をもたらし、もしかしたら人類を滅ぼしてしまうのではないかという心配が映画の作品ともなっているわけです。

それは、半分は正解であると思います。
なぜならAIは、責任を負う存在ではないからです。
そこにAIの限界があります。

なぜならAIは、過去のあらゆるデータからひとつの結論を導き出しますが、残念なことに、その結論についての責任は一切取らないからです。
その意味で、AIは、無責任な知識のカタマリでしかありません。
このことは、現代日本の多くの政治家と同じです。

責任と権限は常にセットです。
従って、AIに権力を委ねることは、間違ったことといえます。
そして、責任を持たないAIに権力を委ねてはならないということは、単なる戦後的テスト秀才に権力を渡したら、世の中はとんでもないことになる、ということをも意味しています。
このことも、現代日本の政治家が見事に証明しています。

古事記は、古代からの知識と知恵のかたまりです。
その古事記は、あらゆる知識や知恵は、もともとすべて神々のものと定義しています。
神の知恵であり、神の知識なのです。
いまを生きている現世の人たちは、その神々の知恵を活用させていただくことで、よりよい社会を築く責任を負うというのが、古事記にある考え方です。

実際、数学を考えてみたらわかります。
数学の公式や定理は、数千年の人類の歴史の中で、なだたる数学者達が長年の研究の末に編み出した知恵です。
その蓄積のもとに、現代数学があります。
たとえば、三角関数にしても、かつてそれを考案し、それが正しいことを証明した人がいたのです。

私たちはその結論だけを学びますが、では自分でその公式や定理を開発しろといわれても、まずできる相談ではありません。
従って、数学は、まずは過去の偉大な数学者たちの叡智を学ぶことからはじまります。
そして、大学数学の世界に至って、はじめて、まだ解明されていない新たな数の世界に入り込むわけです。

一方、その三角関数を使って建築をする人には、責任が伴います。
具体的に建物を建てるわけです。
その構造計算にミスがあれば、建物は倒壊します。
つまり、その責任を負うことになります。

神々というのは、過去の人々のことです。
その神々の知恵を、活用させていただくことで、私たちはいまの世界や社会を築きます。
そして築くことの責任は、私たち自身の身に降りかかることです。

要するに知識だけで、責任を伴わないなら、そのようなものに何かを委ねてはいけないということになります。

たとえば昭和12年に「通州事件」がありました。
たいへん悲惨な事件でした。

このとき被害者となった日本人たちは、だからChineseを皆殺しにしてほしいなどと、おそらく誰も思っていません。
そうではなく、自分たちが受けた悲惨を、二度と繰り返さないように、責任をもってしっかりとした国つくりをしてもらいたいと考えていると思います。
その責任を果たすのが、いまを生きている私たちの責任です。

先の大戦で散華され、英霊となられた方々も同じです。
戦争のない、住み良い日本を、そして世界を、責任をもって築いていってもらいたいと思っていると思います。
その責任を果たすのは、いまを生きている私たちです。

これが単なる知識や人工知能(AI)と、人の知恵の違いです。
人は責任を持つから人なのです。

責任を持たない者は、人ではありません。
ただの「知識お化け」です。

そんな「知識お化け」が、国家に対する責任を無自覚なまま国会議員になっています。
裁判官制度に関する国会の委員会で、ぜんぜん審議に関係のないもりかけの質問を延々と繰り返す。
それが現在の「知識お化け」となった秀才の現実です。
このことは杉田水脈さんが述べている動画がありますので、是非、ご視聴ください。

ねずさん

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