「民族」

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民族という言葉を政治的に最初に利用したのは「平和に関する布告」のレーニンです。

そのレーニンが、民族自立ではなく、単に共産党の一党独裁、もっというなら、単にレーニンの独裁政権を打ち立てようとして、共産主義さえも利用しただけであったことは、いまでは、世界中の誰もが知ることです。

民族というのは、文化的特徴によって他と区別される集団のことだと一般に思われています。
ところがこの言葉、実に定義の曖昧な言葉で、
1 政治的共同体の色の濃い「ネイション(nation)」等を指すのか、
2 同一の文化や習俗を共有する集合体としての「エスニック(ethnic)」を指すのか、
実は非常に曖昧です。
だから政治的に利用されます。

たとえば沖縄では、琉球民族の独立云々を反日左翼の人たちが口にします。

ところが反対運動をしている人たちのほとんどは、沖縄県外からやってきた左翼、在日、コリアン等です。

彼らは沖縄をネイションにしたいのでしょうか。
そうだとすれば、それは沖縄の人たちが決めることであって、県外の人等の介入は「余計なお世話」です。

あるいは彼らは沖縄を「エスニック」と考えているのでしょうか。
しかし沖縄が「エスニック」なら、全国各地どころか、ちょっと古い伝統が残っている町では、道路一本隔てただけで方言が異なったりしています。

また、江戸時代なら、武士と町人では話す言葉が違いました。
男と女では、使う文字も異なりました。
もっといえば、現代日本でも、男には男言葉があり、女には女言葉があります。これはエスニックであって、互いに独立すべきものなのでしょうか。

ネイションなら、まだわかりやすいのです。
それは、どこに国境を敷くかというだけの問題だからです。

けれどもエスニックになると、では、沖縄が好きで沖縄にやってきた人は、同一のエスニックなのかそうでないのか。
県外の人がもとから沖縄にいる人が結婚して子が生まれたら、それは沖縄人なのか、日本人なのか、県外にいる沖縄人は日本人か沖縄人か等々、これは決めようがないのです。

それを無理に決めようとするなら、それは殺し合いになります。
世界中に広がる民族紛争は、まさにこれによって起きています。

このように、なんとなくイメージできるけれど、実は内容や定義が曖昧な言葉が政治的に使われるときというのは、他に目的があるときに限られます。

そもそも民族というのは、一般論としては、
「言語や社会的価値観、宗教とその信仰、食習慣、生活慣習などの文化的特性を共有する、あるいは歴史を共有する集団」などと定義されます。

しかしそれは単純化して言えば、そこに所属しているという帰属意識を持つ集団であるというだけのことです。
この場合、実は血筋はまったく関係ありません。

では沖縄で反日活動をしている人たちが、沖縄への帰属意識を持っているのかというと、実はそうではない。

彼らにあるのは、ただ「反日」への帰属意識であって、実のところ、沖縄県民がどうなろうと知ったことではないというのが、彼らの立場です。
それで琉球民族の自立だの琉球国の独立だのと口先だけは威勢が良いのですから、始末が悪いわけです。

私は、民族よりも、国家を優先して考えるべきであろうと思います。

最近の世界の趨勢も、この方向です。
日本なら、天皇を国家最高権威とするシラス国であること。
このことを社会的価値観として共有する国こそが日本国であり、また日本人としての国籍を保てる者であるというように定義すべきであろうと思っています。

もちろんそう思わない人も、日本には住むことでしょう。
その人達も日本に住むのですから、納税の義務を負います。
これは、日本に住むということは、日本国家のインフラの利益に預かるということですから、当然です。

しかし、日本人としての社会的価値観を共有しないなら、彼らは日本人ではありません。そして日本人でない人たちには、たとえ成人に達していたとしても、選挙権は与えるべきではありません。

要するに日本人であるかないかは、税金を払ったか払ってないかではなく、日本人としての社会的価値観を共有しているかどうかにあるのだと思います。

その意味で、いま、そしてこれからの日本に必要なことは、まずは「日本人として共有すべき社会的価値観とは何か」ということを、国家として明確にしていくことです。

ここが出発点です。
そこに忠誠を誓う者が日本人です。

もっと簡単に言うなら、天皇を国家最高権威と仰ぐ、知らす国の臣民であるという自覚を持つ者が日本人です。

逆にいえば、反天皇、反日本を標榜するなら、それは日本国民ではない。
日本国民でないなら、選挙権も取り上げるべきです。なぜなら、ギリシャの昔から、国民とは国家のために命を捧げる覚悟を持った者と規定されているからです。

もちろん日本に住んでいる以上、日本人であるなしを問わず納税の義務を負います。

しかしそれは日本人だから納税の義務を負うのではなく、日本に住んでいるから負っているだけのことです。
現行憲法の記述の、これもまた大きな問題点です。
税金を払うから日本人ではないのです。
税金を払ったらその国の人というのなら、我々が海外旅行して買い物のときに消費税を払ったら、その国の民になってしまいます。こんなバカげた話はありません。

いま、憲法論議が盛んになりつつあります。

しかし、憲法がその国の国家の根幹を定めるものであるというのなら、憲法論議の前に、我々の住む日本とはどのような国なのかということを、日本国民共通の概念にしていかなければなりません。

そしてこれに異を唱える者たちを、国会やメディアから追放していかなければなりません。

それをいかに平和的に実行するか。
それこそが、いま、日本という国家に求められている最大のテーマであろうと思います。

その意味で、日本の改革を、私は単に左翼とか右翼とか保守とかいう従来の枠組みではなく、左翼や右翼が生まれるよりも、もっとずっとはるか昔からある日本という国のカタチを、まずは日本人として、互いにしっかりと理解していくことが大事だと思っています。

これは言い方を変えると、シラス(知らす、Shirasu)という言葉の普及です。

日本の名目経済成長率は、
・1980年代=138国中下から28位
・1990年代=150国中最下位
・2000年代=188国中最下位
・2010年代=190国中下から15位
です。

戦後の焼け野原から、いっきに世界の経済大国の仲間入りを果たした日本は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか。

日本人としての自覚と誇りを取り戻す。
それは、日本を実は経済だけでなく、根底から支える根幹にあることであると申し上げたいと思います。

ねずさん

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