「異説ありの黒船来航」

画像の説明 ペリーの黒船、実は1年前に予告 幕府は対策取らず

「黒船」という言葉には、日本人が初めて見た蒸気軍艦への恐れと強い関心が伝わってくる。日本を開国させた歴史的事件として語られる米国ペリー艦隊の来航。だが、知られていない事実も数ある。

1853年7月、ペリー艦隊が姿を現した江戸湾では、黒煙を吐いて走る異国船をひと目みようと、「黒船」見物ブームが起きたという。艦隊は突然やってきたと多くの人が受け取ったが、実は幕府は1年前に来航を予告されていた。

52年7月、長崎・出島のオランダ商館長が「別段風説書」と呼ばれる文書を長崎奉行に提出した。毎年、オランダ領東インド政庁が海外情報を記した書面を作成し、商館長を通して幕府に渡していたもので、そこに米国政府が日本に使節を送る計画が示されていた。

東京大学史料編纂(へんさん)所の松方冬子准教授によると、予告文には、その重要性を強調すべく丸印がつけてあったという。風説書に添えて、オランダ東インド総督の書簡と日蘭(らん)条約草案の抜粋もあった。

「条約締結で米国に先を越されまいとするオランダの焦りが読み取れる。だが、外の脅威を過大に伝えて日本から譲歩を引き出そうとする常套(じょうとう)手段だという見方も幕府にはあった」と松方准教授。

幕府は海防関係の諸大名らと内々に対応を協議したが、財政難のため防衛強化は行われなかった。

■小笠原の父島、植民地化計画も

もし、幕府がペリーの要求に応じず、下田や箱館(函館)を開港していなかったらどうなっていたのか。

ペリーは琉球王国に港の確保を説く意見書を米国政府に提出し、大統領の裁可を得ていた。小笠原諸島父島の植民地計画もあった。

対メキシコ戦争(1846~48年)に勝利した米国は、太平洋岸に領土を拡大。対中国貿易を増やすため、カリフォルニアと上海を結ぶ北太平洋横断航路を計画した。

海上交通の要衝にある琉球王国は、薩摩藩の支配を受ける一方、中国王朝にも朝貢していた。

53年5月、那覇に初来航したペリーは半ば強引に首里城を訪問した。調査隊が各地に派遣され、石炭の試掘や土地の測量、天文観測などを実施し、将来米国船が寄港する際に役立つ情報を集めた。

隊員らと住民とのトラブルも起きた。『琉球国評定所文書』によると、53年12月、恩納村で隊員1人が通行中の人々を銃撃し、男女3人を負傷させた。

洞富雄ほか編『ペリー日本遠征随行記』付録によると、54年6月、那覇で酒に酔った水兵が女性を刃物で脅して強姦(ごうかん)し、怒った住民たちに石で殴り殺されている。

著書『ペリー来航』で琉球の事件について記した横浜開港資料館の西川武臣副館長は「現在の沖縄問題の原点はペリー来航にある」と主張する。

■蒸気機関車や電信実験を公開

54年、再び黒船で来航したペリーは幕府と日米和親条約を結ぶ。58年、米、蘭、露など5カ国と修好通商条約が結ばれ、59年に横浜、長崎、箱館が開港すると、日本に欧米の品々が本格的に入ってくるようになった。西川副館長は「ペリー来航をきっかけに次の時代の動きは始まっていた」と指摘する。

再来航したペリー艦隊は幕府への献上品として米国の工業製品を横浜村(横浜市)に陸揚げした。

『ペリー艦隊日本遠征記』などによると、現在の神奈川県庁付近に1周100メートル以上の線路を敷設し、10分の1大の蒸気機関車が試運転した。

また、横浜村の応接所から現在のJR桜木町駅付近の約1キロの地点を電線で結び、電信の送受信の実験も公開した。さらに随行カメラマンが500枚近くの銀板写真を撮影。

現存する6枚は日本最古の写真とされる。西川副館長は「西洋社会の工業化をみせつけることで、日本に鎖国の時代の終わりを悟らせようとしたのではないか」と推察する。

■ペリー、陸路も使い帰国

任務を終えたペリーは艦隊の指揮権を次席の士官に譲り、一部陸路を使って米国に戻っている。

1854年9月、まず船で香港からスエズに到着。鉄道でアレクサンドリアへ向かい、再び船で地中海を渡ってイタリアのトリエステに上陸。鉄道に乗り換えてウィーン、ベルリンを経てオランダのハーグへ。

船でイギリスに渡ってから大西洋を蒸気船で横断した。ニューヨークに戻ったのは、55年1月のことだった。

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