「戸籍」

画像の説明 中国人民にとって極めて重たい「戸籍」の意味を初めて感じた瞬間

"世界の工場"化と農民工の台頭で、現在の戸籍制度が現実にそぐわなくなってきたのがきっかけのようです

十数年前、私が北京の大学で学んでいた頃、比較的仲が良かった一人のクラスメートがいた。学者肌の彼は、南西部に位置し、全中国のなかでも貧しい地域の一つである貴州省の出身であった。彼は本来哲学を学びたかったが、彼が大学受験に臨んだ年、北京大学哲学部は貴州省から学部生を募集していなかったために、あえなく国際関係学部を受けたという話をしてくれたことがある。

中国人民にとって戸籍というものが何を意味し、どれだけ重たいものであるのかを初めて、身近に感じた瞬間であった。戸籍は中国語で「戸口」(フーコー)という。仮に彼が北京、あるいは他の比較的発展した土地の出身であったならば、同大哲学部は彼に門戸を開いていたであろう。意思や能力ではなく、しかも家庭の経済力とも異なる次元で、一人の人間の運命が左右されてしまう。

それが中国なのか。

日本で生まれ育った自分からすれば、想像の世界でも具現化できないような環境のなかで同世代の中国人たちは生きているのだと感じさせられた。

1958年以来、中国の戸籍は農業戸籍と非農業戸籍に二分されてきた。どちらの戸籍を持つかによって受けられる権益や待遇は異なる。一般的に「農村戸籍」とも呼ばれる前者は主に、それぞれ区画された農村において「責任地」と呼ばれる農業を行うための土地と、「住基地」と呼ばれる居住用の土地を集団的に所有する権益を有している。一方、一般的に「都市戸籍」とも呼ばれる後者は主に、教育、医療、雇用、保険、住宅などに関わる社会福祉分野における待遇面で有利に立ってきた。

戸籍という制度を通じて都市部と農村部の出身者を行政的に区分けするやり方の背後には、両部のあいだのヒトの流動性を未然に防ぐという、当時の為政者たちによる政治的考慮もあったとされる。

“世界の工場”化と農民工の台頭で 戸籍制度が現実にそぐわなくなってきた

1992年、改革開放政策を加速する働きをもたらしたといわれる鄧小平による「南巡講話」を経て、特に時代が21世紀に入り、"世界の工場"としての中国にますます注目が集まり、内陸地域における農村部から沿岸地域における都市部に"安価な労働力"が大量に流入してくるようになるに連れて、これまで二元的に管理してきた戸籍制度が現実にそぐわなくなっていくようになる。

全国31地方自治体が戸籍改革を検討

「農民工」と呼ばれる存在の"台頭"である。農村出身で、農業戸籍を有したまま都市部へ出稼ぎに来ている労働者のことである。特にリーマンショック前の輸出主導型の経済成長を支えたのはまさに、市民としての公共サービスもまともに受けられず、低賃金で朝から晩まで働き続けた農民工たちであった。

現在、都市部における常住人口は約7.5億人とされる。李克強首相の公の場における発言によれば、そのうち、非農業戸籍(都市戸籍)を持たない層、即ち農民工は約2.5億人いる。この世界国別人口ランキングでも4位にランクインするほどの"流浪の民"たちの存在をどう処理するか。より踏み込んで言えば、彼・彼女らにどのような権益や待遇を与えることが、中国経済社会の持続的な発展を実現することにつながるのか、しかも政治的安定を脅かさない前提で。

私が中国国内で観察していた限り、特にリーマンショック後から2012年秋の"政権交代"をまたいで、共産党内部や中国世論の間でも、このテーマがより現実味を帯びる形で浮上していった。

習近平・李克強政権に完全移行して約1年4ヵ月が経った2014年7月、中央政府に相当する国務院は《戸籍制度改革をより一層推進することに関する意見》を公布し、都市部と農村部を統一的に登記・管理する制度の構築を呼びかけた。《意見》によれば、農業戸籍と非農業戸籍の区別がなくなり、統一して「居民戸籍」と登記されるシナリオが示された。

中央政府の呼びかけで全国31地方自治体が戸籍改革を検討

中央政府による呼びかけを受けて、全国31の省・直轄市・自治区は各自の事情に照らし合わせつつ戸籍改革のスキームを検討しはじめた。そして、2016年9月19日、北京市が《戸籍制度改革をより一層推進するための実施意見》を正式に公布したことを以て、31すべての地方自治体が農業戸籍の廃止を前提とした戸籍改革方案を打ち出したことになった。「我が国において半世紀以上続いた"都市民"と"農村民"という二元的戸籍制度が歴史の舞台から退去することを物語っている」(新華社2016年9月21日配信記事)。

「農業戸籍の廃止」は先週の中国世論のなかでも特に目立っていたが、本稿では以下、今回の改革案を受けて、中国社会が未来に向かって進んでいく上で、そのベクトルや中身を占う上で、私なりに考えるインプリケーションを3つに絞りつつ考えてみたい。

一つ目に、中国共産党の今期指導部が「改革」の二文字を重視し、実際の政策・行動によって社会の変革を推し進めていく決心を持っていること、そしてその意志が一定程度において各地方にまで浸透していることが挙げられる。

"李克強色"と"習近平色"がにじみ出た改革案

あらゆる改革の中でもその難易度と進め方という観点から比較的難しい分類に入ると思われる戸籍制度改革であるが、現政権が重視する都市化政策、産業構造の転換、不動産政策などとも直接的にリンクしてくるため、改革のプロセスが複雑化するのは必至である。そんな中で、中央政府が指令を出し、各地方がそれに応える形で戸籍制度改革の方向性を一致させたことは評価できる。

社会の弱者たちに優先的に手を差し伸べる "李克強色"と"習近平色"がにじみ出た改革案

先週、本件を巡って騒がしくなる世論を眺めながら、私はこの改革のスキーム案が現政権の特徴を如実に表すものであると感じた。都市化政策と戸籍改革を同時進行で進めつつ、中国経済が持続的に発展していくための社会構造を整備するというのは李克強首相が就任以来、いやそれ以前から高度に重視してきた事柄である。今回の改革には、北京大学で「農村の工業化」をテーマに博士論文を書いた"李克強色"がにじみ出ている。

一方で、"習近平色"が出ていることにも目を向けるべきだ。今回の改革案を受けて、農民が本来農業戸籍を有していたが故に持っていた権益を放棄しなくなるのではないかという議論が巻き起こったが、これに対して、新華社が9月23日に配信した特集記事《31の省が農業戸籍を廃止:私たちにどう影響するか?》によれば、「居民制度の執行は農民の財産を剥奪するためではなく、農民に平等な身分と待遇を与えることが目的であり、農民の財や富の価値は保持されるか、増幅される」とある。同記事は、今回の改革案が公共サービスの均等化、および農村における貧困層や退職した農民を支えるべく社会保障システムを統一させることを目的としているとも指摘している。

今後の実施状況を見てみないとなんともいえないが、今回の改革案が、農民工を含めた農業戸籍保持者に対する待遇を改善するための措置であることは比較的明白である。逆に、都市戸籍をすでに持ち、都市部で生活している人間からすれば、教育、医療、交通、住宅、雇用などを含め、農民たちの平等参画により、公共サービスの提供過程が圧迫される可能性があり、これまでよりも激しい競争環境に置かれ得るという点においては、むしろ嫌がる傾向にあるのかもしれない。ここに、2020年までにいまだ7000万人いるとされる貧困人口を撲滅するという政策目標を含め、社会の弱者たちに優先的に手を差し伸べようとする"習近平色"が色濃くにじみ出ていると言える。

二つ目に、今回の取り組み自体は画期的であるが、打ち出された改革案がどのように実施されるかという点においてはまだまだ不確定要素が存在し、相当期間、おそらく2020年くらいまで状況を観察し、初めて公正な評価が可能になるであろうということが挙げられる。

9月21日、新華社は評論記事『農民から居民へ:身代わり後平等を見る必要がある』において、一文字違うだけでも天と地ほどの差が出ると評価しつつも、次のように指摘している。

「しかし、文字の変化から実質の変化に至るには多くの努力が不可欠であり、これからの政策において関連部門が力を合わせて協力していく必要がある。例えば、農民が居民になった後、雇用、教育、医療、社会保険、住居などの面において、いかにして都市居民と平等な公共サービスと権益を得るのだろうか?また、都市と農村における公共インフラ建設の財政投入をどう一体化し、農村における不足を埋めていくのか?農村居民が農業戸籍廃止後に心配する農村の土地問題に対して、農村土地改革をどのように進めていくのか?いかにして土地の権利をめぐる制度の構築を通じて農民が土地から収益を得られるようにし、現代化発展の果実を公平に享受できるようにするのか?」

「農業戸籍の廃止」は「人民の移住が自由に」とはならない

ここで一点指摘しておかなければならないのは、「農業戸籍の廃止」=「農民を中心とした人民の移住が自由に」とはならないということである。日本のように、A地からB地に引っ越す過程で、住民票を移せば即時的にB地の住民になり、公共サービスを受けられるという身分的待遇を得られるわけではないということである。

前出の国務院による《意見》は、「2020年までに1億人前後の農業移住人口、およびその他の常住人口が都市部で戸籍に入れるよう努力していくこと」と要求している。この1億人前後というのは全国各地を足してという意味である。

ある省都(日本の県庁所在地に相当)の人口が800万人、うち100万人が当省の戸籍を持っていない外地戸籍を持った人間だったとしよう。この100万人のなかには、農村から来ているいわゆる「農民工」もいれば、例えば地元は他の省であるが、この地で大学教育を受けたために残ったなどという外地都市部出身の人間などもいる。これらの人間を含めて、2020年までに約1億人を都市部の戸籍に入れると言っているのである。

とはいっても、数量的には「農民工」が多数を占める傾向にあるため、本稿がフォーカスしている、これまで農業戸籍を持っていた層が、改革の主な対象となるというわけだ。

《意見》は、各地方自治体に対し、外地戸籍所持者が現地戸籍に入るための条件として「都市部社会保険加入年数が5年を超えてはいけない」と規定している。これに対して、各地の呼応には差異が見受けられる。例えば、安徽省は3年、河南省は2年と基準を定めた。この年数が短ければ短いほど、外地戸籍所得者の受け入れに積極的であると論理的には解釈できる。

この点に関しては、中国当局も十分に自覚しているように見受けられる。

「人民の移住が自由に」とはならない

注目される北京を例に見てみよう。2015年、北京市の人口は2170万人(うち農村人口293万人)であるが、同市は2020年までの人口増加を2300万人以内に抑えること、2020年の時点で、ダウンタウンに相当する主要6区(北京市の行政区画は全16区)の常住人口を2014年と比べて15%減らすという目標を定めた。また、経済構造の転換という観点から、同市が必要とするハイエンド人材を国内外から積極的に迎え入れるべく制度設計をしていくなどとも謳っている。

今後改革方案が実施されていく過程で全国各地での取り組みに"格差"は生まれるか

私が注目している不確定要素として、今後改革案が実施されていく過程で、全国各地のスタンスや取り組みにどのようなギャップ、より日本的に言えば"格差"が生まれるかという点である。その格差が、各地方の事情や、地方間の差異を正視しつつも、中央集権国家としての体裁を保たなければならない中国共産党にとっての一つの統治リスクになりうるかもしれないという意味である。

これに関連して、湖南省にある《長沙日報》が9月21日の評論記事『農業戸籍の廃止は第一歩でしかない』で指摘しているように、農業戸籍と非農業戸籍の区別と同様、あるいはそれ以上に問題となっているのが戸籍を巡る地域格差である。

「現在、一部の主要都市では、現地戸籍と外地戸籍の人間が享受できる公共資源、社会福祉のギャップはとても大きい。これが、外来人口が現地戸籍に入るべく大量に押し寄せるという一方通行の流動現象につながり、相当する都市は外来人口の現地戸籍加入への門戸を狭めざるを得なくなっている。実際に、戸籍加入を制限するだけでは供給矛盾を根本的に解決することにはならない。肝心なのは、地域間格差を縮小し、地域発展のアンバランスさを解消することである。そのためには、市場原理に頼るだけでは足りず、政策が貧しい地域や中小都市に傾斜した政策を打ち出していくことも必要であろう」

農業戸籍と非農業戸籍の区別廃止という画期的な改革案が、全国的に、よりバランスの取れた発展を推し進めるためには、各都市間の発展格差を縮小させるための政策が同時に図られる必要があるのは言うまでもない。

三つ目に、今回の改革案が、近年低迷が懸念される中国経済の安定的成長にどのような"起爆剤"をもたらし得るかという点に関しても、少なくとも2020年くらいまで様子を見てみないとなんとも言えないことが挙げられる。

習近平・李克強両首脳を含めた中国共産党指導部としては、今回の改革案を通じて、共産党政権の核心的支持基盤である"無産階級"の権益を守りつつ、2.5億人にまで膨らんでいる農民工たちへの待遇を改善し、彼・彼女らの労働者・消費者としての潜在力を存分に発揮させることで、中国経済の持続的成長を後押しするための起爆剤にしたいと考えていることであろう。

農民工の潜在性は「眠れる獅子」中国経済を支えるための隠れた戦力

私自身、感覚レベルではあるが、都市部で生活する農民工たちが、住居、医療、福祉、教育、雇用といった分野で、都市民と同様の待遇を受けられるようになれば、これまでよりも安心・安定して働くことが可能となり、そこから生まれる余力を消費に還元し、世代を追うごとに良い循環が生まれていくように思う。2.5億という規模があるだけに、その潜在性は軽視できないし、中国経済を支えるための隠れた戦力であり、「眠れる獅子」とも言えるかもしれない。

一方で、農業戸籍を廃止したからといって、そういとも簡単に農民たちが都市部に流れてくるかどうか。私は少なくとも懐疑的である。近年における私の感覚と観察からすれば、今回の改革案の公布によって、農民たちが「これで都市部に移住しても都市民と平等な公共サービスが受けられる。さあみんなで行こう!」とは必ずしもならない。

インターネット世論などを通じてあらゆる"都市病"の存在と蔓延は農民たちにも伝わっているし、内陸部や農村部自体が産業化の傾向にあり、農民たちもそこから収入を得やすくなっているという事情もある。地元を離れれば、家族や親戚と離れることになるケースが多い。何より、彼ら・彼女らには、近代制度がどう変わろうと、「農民でいるからこそ土地を持ちえている」という伝統的、あるいは封建的とも言える観念がいまだ根深い。

参考までに、今年4月に政府系シンクタンクである中国社会科学院が、中西部においてどれだけの農民が都市部に移住したいと思っているかに関する調査を実施したところ、11.83%が「とてもしたい」、21.73%が「比較的したい」、17.45%が「ふつう」、24.82%が「あまりしたくない」、24.13%が「まったくしたいとは思わない」と答えている。

全国で地域間格差を縮小させ農村部の現代化政策などの多次元策が必要

沿岸都市部が内陸農村部からの"余剰労働力"を吸収するという発想、およびその実行可能性自体が転換期を迎えている背景の下で打ち出された戸籍制度改革である。あくまでも現段階における「頭の体操」に過ぎないが、都市部の人口急増や公共サービスの圧迫といった懸念事項に考えをめぐらしても、「農民工」らが一気に都市民になろうと押し寄せることにはリスクが伴う。

現実的に思えるのは、全国各地で「都市」と呼べる地域を増やし、そのために必要な産業政策やインフラ整備に取り組み、地域間格差を縮小させつつ、農村部における現代化政策にも取り組み、逆に都市部からの移住人口を増やしていくような、地域対地域、沿岸部対内陸部、都市部対農村部という多次元でバランスの取れた、故にリスクが軽減され持続可能な経済社会構造を構築していくこと。

今回の戸籍制度改革案の公布がそのための一つのきっかけにな
ればいいのではないか。現時点ではそのように考えている。

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