「植民地」

画像の説明 欧米による植民地支配は、被植民地にされた有色人種は、国や民族ごと支配し収奪され、人権が認められず、ただひたすらに隷属させられ、それによってときに支配された側の国や民族が、人口の8〜9割を失なわせました。

だから、植民地支配は「ゆるされざる暴挙であった」というのはよく語られることです。

しかし、実はそうばかりではないということも、わたしたちは理解しておく必要があると思います。

もちろん植民地支配には負の側面がたくさんあります。しかし、それが「いけないこと」であったかというと、必ずしもそうとばかりはいえない側面があるのです。

先に結論から申し上げますと、植民地支配というものは、支配した側にもそれなりの理屈はあるし、支配された側にも、支配されて然るべき必然があったということです。それは銃のことを言っているのではありません。

かつて、欧米列強は、有色人種を植民地支配しましたが、それには3つの理由があります。
「お金のため」、「神との関係」、「安全対策」です。

1 お金のため

大航海時代に植民地支配に入っていったのは、南米を征服したことで有名なフランシスコ・ピサロにあるように、いわゆる海賊のような連中、食い詰め者、犯罪者などが、一攫千金の財宝を求めて遠方に航海し、その土地にあるモノを片端から収奪したことに始まります。

鉄砲や大砲を持った彼らは、少数で火器を持たない国や民族を事実上制圧できたわけです。

そして巨額の財宝を手にした彼らは、国王にも優遇されるようになったし、さらに贅沢な暮らしを手に入れるためには、もっと多くの財を、当該国から掠奪するようになりました。

このあたりは、みなさますでにご理解のことで、これ以上詳しく説明するまでもないものと思います。

2 神との関係

欧米の、特にキリスト教では、人は神の子です。
単純に図式化すれば、この世は「神>人>獣」によって構成されています。

神は、人や獣に対して生殺与奪の権を持ちます。人は獣に対して生殺与奪の権を持ちます。だから人は、牛や豚を殺して食べて良いと解されます。

では、人と獣の違いは何かといえば、神との契約の有無です。
人は神と契約しているから人です。神との契約のないものが、獣です。

ということは、神との契約のない異教徒は、人の形をしていても獣です。

獣は抵抗したり、人に害をなせば、いくら殺しても構いません。

同様にいくら人の形をしていても、それがたとえばバンパイヤ(吸血鬼)や、リカント(狼男)などは人ではありませんから、いくら殺しても罪になりません。

神との契約のない異教徒は、バルバロイ(Barbaroi)であり、バーバリアン(Barbarian)であり、人の皮をかぶっただけの「獣(けもの)」です。

人を殺せば殺人罪ですが、獣を殺すのは、必要な殺処分であって罪になりません。

十字軍の遠征も、大航海時代における植民地支配も、その後の列強諸国による植民地支配も、この思考の延長線上にあります。

ちなみに黒人奴隷は、すこし意味が異なります。
もともと、たとえば古代ローマでは、10万の市民を養うためには、20万の奴隷を必要としました。

奴隷となる人達は、戦争捕虜であり、あるいはキリスト教徒であったりしました。つまり白人たちでした。

ちなみにあくまでも奴隷になることを望まない人達は、ひたすら闘いぬくしかありません。

イタリアにある「サンマリノ共和国」は、日本に次いで世界で二番目に古い都市国家ですが、ここは西暦301年にローマ帝国の迫害を逃れた聖マリーノが建国した国です。

古代ローマはとっくに滅んでなくなっていますが、サンマリノ共和国は、いまでもレッキとした国家です。

このような次第ですから、捕虜が、身分を得て奴隷から脱出することも多々ありましたし、奴隷たちが船と航海術を手に入れれば、悲惨な境遇を離れて危険な航海にも喜んででかけたし、それによって財宝を手に入れれば、お金の力で身分を買うこともできたわけです。

そして大航海時代に入ると、黒人たちが奴隷としてしきりに送られるようになりました。

簡単な話、白人奴隷の下に、多数の黒人奴隷を置けば、白人は事実上、奴隷の地位から脱出できるわけです。加えて、白人は奴隷であっても神の子です。黒人たちは異教徒であって、獣人(バーバリアン)です。

バーバリアンは、殺して退治し殲滅するか、養蜂よろしく使役して蜜を作らせる道具とするかのどちらかです。

この思想が、植民地支配の思想です。
簡単にいえば、国ごと養蜂場にしたのです。

3 安全対策

獣は「しつけ」なければ、人と同居はできません。
ところが獣ですから、ときに抵抗し、白人たちに害をなす(殺す)者も現れるわけです。

一方で白人たちは、現地の支配者となって2代目、3代目と世代を重ねてくると、現地に広大な地所を持ったり、多数の現地人を配下に持ったり、そこで布教をしたりしているわけです。
その人達の命が脅かされるわけです。

これを現地にある国家がちゃんと取り締まれるなら、現地の社会システムに、その抵抗者たちの処分を委ねます。

けれども多くの有色人種国家では、国王は自分とその近習の贅沢が保障されていれば良く、自国の民のことなど考えません。
まして民こそが大御宝という発想も思想も社会システムもありません。

つまり、白人に害を及ぼす者を取り締まる意思も能力もありません。

たとえばどこかの国で英国人が殺されても、その国では国王は、そんな末端のことなど預かり知らないというわけです。
当時の世界の多くの国では、国王は君臨し支配するだけで、国家国民に対する対外的統治責任という考え方はまったくない。
ところが西洋人たちにとっては、狭いヨーロッパ社会の中で、王たちが互いに責任のとりっこをしてきた長い歴史を持っているわけです。

そのために何度も戦争までしてきた歴史を持っています。
つまり国内で起きた犯罪については、その国の王が対外的に責任をとるということが、あたりまえの常識としています。

ところが、アジア、アフリカの多くの諸国には、その考え方がありませんでした。

国民が白人に何か害をなしたとしても、それは害をなした本人の責任であって、統治者が対外的にその責任を負うなど、まるで考えられないことだったのです。

ですから白人たちは、自分たちの安全保障のために、アジア、アフリカの諸国を、ヨーロッパさながらに、国境を決めるしかありませんでした。

このエリアは英国が、こっちのエリアはフランスが、このあたりはオランダが、というように、担当エリアを決め、たとえばフランスの担当するエリアで英国人が殺されたら、フランスがその責任を負うようにしました。

現地の支配者たちが、ちゃんとした責任能力を果たさないなら、彼らが一定の範囲を決めて、その範囲内について、彼ら同士で互いに責任を負っていくしかなかったのです。

これが「コロニー(colony)」であり、「コロニー」を日本語に訳したものが「植民地」です。

誤解をおそれずにいうなら、要するに現地に住む人々が獣であり、獣のボスが人への責任を果たさないから、人が代わりにそのエリアの統治をしたのが「植民地」です。

ですから、植民地支配には、「植民地にしなければならない」、「支配しなければならない」理由がちゃんとあったわけです。

そしてその植民地という社会システムは、なんと世界で約500年にわたって、通用してきました。
ヨーロッパの大概の国よりも、古くて長い歴史を持ったのです。

そのことが、有色人種諸国の民衆にとって、果たして幸せなこといえたかどうかはわかりません。

白人たちが教育を与えなかったというけれど、白人たちがやってくる以前から、現地では民衆への教育など行われていなかったし、資源や財宝を奪ったというけれど、もともとは現地で王を名乗る者が、民衆から収奪をし続けてきていたわけです。

一方的に奪い、収奪する王も、外からやってきた白人も、その意味では民衆からみたら、実は何も変わらないという現実があったわけです。

そして収奪者である王の一族も、その内部ではドロドロの権力闘争や殺し合いが行われていました。

極端な言い方をすれば、奪ったり奪い合ったりしているだけだし、王朝が変わるたびごとに、無秩序な掠奪や破壊行為が繰り返されていたわけです。

それなら、秩序が完成した白人国家に、その国の伝統的美術品や貴重な遺跡の遺品を運びこんで、そこでしっかりとした文献資料も整えて研究した方が良い。そういう価値観が生まれても、実はそれは何ら不思議なことではないし、むしろ、そのほうが余程、良いことといえたかもしれないわけです。

実際、全部とはいいませんが、日本が比較的早い段階で統治をすることになった国では、なまじの善政を布いたがために、いまだに混乱が長引いています。

いまだに欲望のままに人を騙し、嘘をつき、収奪し略奪し、買収し、インチキをし、強弁をすることがあたりまえであって、いたずらに勝てば官軍という、おかしな価値観のままでいます。

まさにこの世の地獄そのものといえますけれど、その地獄を、すくなくとも人の世に変えようとし、その変わったことを受け入れたまっとうな人達は、戦後、きわめて残忍な方法で皆殺しにされてしまっています。

まさに、獣人国家そのものであるわけです。

最近思うのですが、人の形をしていても、昔の人がよく言った「人の皮をかぶった獣」というのは、実際に世界には、あるわけです。

そしてそういう獣たちが支配する国家もあるわけです。

民族自決や、自由と平等は、すくなくともある一定の人としての共通すべき価値観を持つ者同士でなければ、成立しえないというのが、やはり現実であるようにも思えます。

人には人としてのルールがあり、人の営む国家があります。
同様に、獣には獣のルールがあり、獣の王国があります。
獣に人のルールを当てはめても、人も獣も困るだけです。

冒頭に「植民地支配というものは、支配した側にもそれなりの理屈はあるし、支配された側にも、支配されて然るべき必然があった」と書かせていただきましたが、いくら人のカタチをしていても、実際にそこで営まれている社会が猿の社会と大差なければ、やはりそこに進出した「人」は、その地域では、獣を相手にするように、その地域を支配しなければならなかったわけです。

これは当然のことです。

厳しいことを書くようですが、植民地支配されたということは、植民地支配されたほうが都合が良いことがたくさんあったということでもあるのです。

逆にいえば、いま「日本にかつて植民地支配された」と言っている国がありますが、そういう国は、自らの国を日本よりも劣った獣の国であったとを認めているということになります。

それを「日本に植民地にされた。ウリたちは被害者ニダ」と声高に主張するということは、国際的に、自分たちは猿であったと認めたことになります。

冗談じゃないです。
日本は、その国の人々を、人間だと思ったからこそ、併合したのだし、その地の人々を日本人にしたのです。

そういうことが理解できないなら、やはり獣です。
これは差別ではなく、区別です。

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