2018年11月1日よりタイトルをWCA(世界の時事)に変更しました。
「言葉」
日本語の大きな特徴として男女による言葉遣いの違いがあります。
「楽しいわね」
「うん。楽しいぜ」
と書けば、どちらが男でどちらが女とわざわざ注釈しなくても、どっちが男でどっちが女かわかります。
ところが最近、特に反日色が濃いと言われるテレビにおいて、そのドラマなどで使われる言葉が、かなりおかしなものになってきています。
女性が男性語を使い、男性が女性語を使うのです。
「お前たち、捜査を実施してくれないか」
「あらまあ、捜査するのよね」
どうみても上が男言葉、下が女言葉です。
ところが、番組では、上のセリフが女性、下が男性のセリフです。
メディアですから、認知不協和を誘うことで、話題性をさらおうとしているのかもしれません。
しかし、やはり良くないものは良くないのです。
これは反省事項でもあるのですが、私たちが小学校の頃は、夏休みの宿題というものは、「やるのがあたりまえ」であって、やらないとか、提出が遅れるというのは、思いもつかないことでした。
この世に夏休みの宿題をやらない子供がいるというのは、まったく想像を超えたことで、それはほとんど「この世にトイレをしない人がいる」というのと同じくらい、ありえないことだったのです。
夏休みの宿題の提出は、昔は8月21日の全校登校日と決まっていたし、その日までに宿題は全部済ませて提出する。
9月1日の二学期の始まりの日に持っていくのは、8月31日までの「夏休みの日記」だけです。
先生からそのようにしなさいと言われれば、その通りにするのがあたりまえで、それ以外の別なやり方など、この世に存在しないことでした。
だからまれに病気などで、8月21日に夏休みの宿題の提出が間に合わない級友がいれば、仲間たちみんなでその子の家に押しかけて行って、その子の宿題の仕上げを手伝ったりたりということもありました。
それが普通だったし、普通以外は、ほんとうに思いも及ばない、ありえないことだったのです。
その「ありえないこと」が、「非常識」と呼ばれましたし、夏休みが始まる前に「宿題なんてなければ良いのに」なんていう子があれば、親からもみんなからも、
「世の中には、言っていいことと悪いことがある」
と、叱られるいうよりも、むしろ糾弾されたものです。
ところが、決して他人のせいにするわけではないし、なんでもかんでもメディアのせいにするというわけでもないのですが、オバケのQ太郎や、パーマン、ドラえもんなどのテレビ漫画で、主人公ののび太や、正ちゃんが、宿題をしない、提出しないで先生に叱られるけれど、ただボヤくだけで、宿題は結局未提出のままでいるわけです。
結果、テストは0点、成績はビリ。
もちろん漫画ですから、当時の子供たちは、漫画の世界のことだからと笑って観ていただけです。
でもなんとなく、その「テスト0点、成績ビリ」というのが、「かっこいいこと」のような雰囲気が現れ始めていました。
ところがあれから半世紀、いまでは、宿題をまともに提出する子供自体が少なくなっているといいます。
テレビ漫画の世界だけにしかありえなかった「テスト0点、成績ビリのかっこよさ」の方が、すっかり常識化し、まじめに宿題をやる子のほうが、ありえない子になってしまっているといいます。
それは極端なことで、そんなでもないよと信じたいです。
けれど、提出物がまともに提出されない子というのが、どこの学校でも確実に増えている。
人気番組の「8時だよ全員集合」でも同じようなことはありました。
毎度おなじみだった教室シーンです。
先生役のいかりや長介に、子役の加藤茶や、志村けんは、まったく従わない。従うことがあたりまえの時代だったですから、その「従わない」姿が面白くて笑いを誘いました。
このように、ありえないことをお笑いなどのネタにすることを「認知不協和」と言いますが、あれから50年、いまでは、あの全員集合の教室シーンが、小学校の日常の風景と化しています。
先生が教室を維持できないのです。これは大問題です。
さきほど、
「冗談でも、言っていいことと悪いことがある」
と書きました。冗談だから、お笑いだからと、なんでも済ませてしまうことが、結果として社会や、社会によって形成されている人々の暮らしを破壊する。
長い目で見ると、これはとてもおそろしいことだと思います。
昔、ある漫才師が、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とコントを飛ばしました。それを本気にして、赤信号の横断歩道に飛び出す事案が急増しました。
結果、朝晩の通学の時間帯には、父兄が交差点に黄色い旗を持って立つことになりました。
パーマンが流行した頃、同級生が、校舎の二階から、風呂敷を首にまいて、窓から外に飛び出しました。
幸い、下の花壇に落ちたので、怪我はなかったのですが、本人は、パーマンのように空を飛べる夢を観て、本当にできると確信して、その行為に及んだものでした。
まさに、「冗談でも、言っていいことと悪いことがある」のです。
そういう過去の日本の情況からすれば、いま意図的なのか、ただの認知不協和による話題作りのためなのかは知りませんが、日本語の男言葉、女言葉を、意図的に壊すという作業は、おそらく半世紀後の日本語を、大きく塗り替えてしまうことになるのではないかと危惧されます。
そもそもこうした男言葉、女言葉が、意図的に壊されている背景には、テレビ局の要職に、日本人でない、日本文化を理解しない人たちがずいぶんといることが原因だと、局の方から聞きました。
なるほど韓国には、日本語にあるような男言葉、女言葉はありません。
「食事に行こうか」
「いきたいですわ」
などという、言葉による男女の違いがもともとないのです。
そもそも「どちらが上か」以外には、一切が関係ない社会です。
上にまつられる人は、先生どころか、「先生様」です。
下は、ただ黙って言うことを聞けばよいという社会ですから、男言葉女言葉など、そもそも不要なのです。気に入らなかったら殺すだけです。
人として対等という前提があるから、「役割」の必要が生まれるのです。
「身分」として固定され、それが圧倒的な力による支配と隷属の関係になっているのなら、役割語の必要はありません。
役割語というのは、落語などを聞くとよくわかるのですが、
町人「へい、旦那、おはようさんです」
男性「おお、熊か。よく来たの。こっちへ来て座りなさい」
女性「あら熊さん、おひさしぶりだこと」
ご隠居「こら、熊!、その服装はなんじゃ!」
などと使い分けられます。
「〜じゃ」という言い方は、なんだかちょっと偉い人が使う言葉で、これは江戸に幕府を開いたときに、関西から土木の技術者の親方や、設計などの知識人を大量に呼び寄せ、彼らが関西語を話したことに由来します。
要するに、男と女、社会における所属カテゴリーによって、それぞれに言葉の使い分けがあり、なかでも代表的なのが、男言葉、女言葉であるわけです。
要するになぜこのような言葉の性差が生まれたかというと、これがまた実に日本的です。
日本では、男も女も、あるいは武士町人も、すべては人として互いに対等な存在です。
人として対等な中で互いの役割を果たしていこうとします。
ですから、兄弟であれば、弟は「◯夫」と呼び捨てにされますが、兄は常に「お兄ちゃん」と呼ばれます。
人としては対等ですが、兄には兄としての役割を果すための自覚が常に求められるからです。
これと同じで、男は男としての、女は女として、互いの特徴を活かして、子や孫たちが幸せに暮らせるようにしていく。
そのために、「男は男らしく、女は女らしく」と育てられたのです。
そしてこのことがあるから、男女の言葉の違いも生まれてきたわけです。
こうしたことは、人々が奴隷として支配され、収奪されているだけの社会には、絶対に育まれません。
人として対等だから、意図して役割語が育まれるのです。
上下と支配、支配と隷属の関係だけなら、役割語は不要です。
なぜなら、命令には服従しかなく、そこに言葉上の役割語は必要ないからです。
言うことを聞かなければ、殺すだけです。
まして、男言葉、女言葉など、まるで必要性がない。
歴史的にないから、日本語に性差があるということが理解できない。
だから、日本語にも必要が無いのではないかと、彼らの文化(といえるのかどうかは知りませんが)をゴリ押しする。
そしてそういうものが、いつのまにかクリエイティブだと、すり替えが行われています。
とんでもない話です。
それは、コリエイティブであって、クリエイティブとは対極にあるただの「文化痴呆」です。
その結果、番組中の男言葉、女言葉が、完全に崩壊してしまっています。
テレビは、一面において、文化の担い手でもあります。
そのテレビが、日本の文化をまるで理解しようとせず、むしろ日本文化の破壊に一役買っているということは、これはあってはならないことです。
男言葉で喋らせたら、せっかくの美しい女優さんも台無しです。
美しい女性には、美しい言葉が似合うのです。
テレビ局の経営陣には、もっとしっかりしていただきたいと思います。
ちなみに、ウチの孫が行く小学校では、親が大金持ちでとびきり成績の良い子供たちの家には、テレビ自体が置かれてないそうです。
ほぼ在日の方のお宅なのですが。