「日本を取り戻すとは」

画像の説明 「日本を取り戻す」という言葉がよく使われます。

けれど、その「取り戻すべき日本とは、どのようなカタチをしているのか」となると、決まった姿が提示されていません。
保守系の論壇でも、それぞれの方が、それぞれに異なったイメージを持っているようです。

たとえば「日本を取り戻す」とは、道義国家を取り戻すことだ、という方もおいでになります。

けれど、では「道義国家」とは、どのよなカタチをした国家なのかというと、これがよくわからない。あるいは、取り戻すというのは、どの時代の日本を取り戻すのか。

戦後の高度成長の時代を言うのか、戦前の大日本帝国時代を言うのか、江戸日本を言うのか、戦国時代なのか、奈良平安の昔なのか、人によってイメージはまちまちです。

こうした示すべき未来像がまちまちであるという点は、ちょっとだけ共産主義にも似ています。

共産主義は、ユートピアの建設を理想とします。

けれどそのユートピアがどのような姿をしているのか、具体的にどんな司法制度があり、労働者がどのように守られるのか、行政はどのように行われるのか等々は、マルクスの昔から、まったく不明のままです。

つまり共産主義は、ユートピアという言葉によって、受け手それぞれに勝手なイメージを抱かせることで、権力者が受け手である民衆を利用主義的に利用する主義でしかありません。

ところがそんな共産主義が、ユートピアのひとことで、すでに150年間も世界に影響を与え続け、いまなお「共産党」という政党が生き残っているわけです。おそろしいことです。

その意味では「日本を取り戻す」という標語も、受け手それぞれに勝手なイメージを抱かせ、閉塞感を打破する勢いを生むという点で、世界史的な影響としては「ユートピアの建設」という標語に及ばないかもしれないけれど、たいへん良い影響を与えている言葉であると思います。

その「日本を取り戻す」について、私は「天皇のシラス国のカタチを取り戻すことだ」と思っています。

実はこれはたいへんなことで、そもそも「シラス」という言葉が、いまではすっかり、日常用語から外れてしまいました。

戦前戦中は、大日本帝国憲法第一条が「大日本帝国は万世一系の天皇これをスメラヒ、シラス」でしたから、シラスは常識用語でした。

ところが戦後は国体を意味する言葉から大きく外れてしまっています。ですから「シラス国を取り戻す」ためには、まずは「シラス」という言葉そのものを常識化していく運動が必要になるわけです。

「天皇のシラス国」という言葉を取り戻すということは、国民が天皇という国家最高権威の「大御宝(おおみたから)」としての地位を得ることを意味します。

これは「国民主権」などよりも、もっとはるかに現実的で、国民にとって益のあるものです。なぜならシラス(知らす、Shirasu)は、人類が考案し得る究極の民主主義を実現する言葉だからです。

いくら主権在民と言ったって、実際の政治には政治権力者が必要です。ところが政治権力者が誕生した途端、その政治権力者が自己の利益のために平気で民衆を私的に支配し踏みにじる。

どこかの都議会と同じです。
ドンである政治権力者の独裁を許せば、結局は、その独裁者の周辺だけがウシハク贅沢三昧となり、都民は事実上見捨てられてしまうわけです。

そして見捨てられた都民がひとりのリーダーのもとに立ち上がって、都知事を出せば、その初登庁のその日から、新知事は、既存の独裁勢力との対立と闘争を余儀なくされてしまうわけです。

東京都については都民、国政なら国民、都民も国民も誰も対立など望んでいません。

対立ではなく、都民、国民の誰もが豊かに安心して安全に暮らせる社会を望んでいます。

早い話、ドンが都議会に初当選してから今日に至るまで、いつ関東大震災級の地震が来るかわかならい東京で、いまだに自衛隊、警察、消防の合同演習が行われない。

いざとなったら自衛隊に出動願わなければならないのに、その自衛隊出動依頼と、都庁の緊急体制に関する条例さえもできていない。

誰のための政治を行っているのでしょうか。
そしてその都議会は、前都知事が名札をハングルに変えることに、異議さえも述べていません。

どこから資金を得て、誰のための政治を行ってきたかは、この一事を見てもあきらかといえます。

このように書くと、またまた私を差別主義だとか言い出す人たちがいそうです。

それは違います。
そういうことを言って対立しようとする心と行動が、争いを生むのです。

対立の極地にあるのが、テロであり戦争です。戦争のために戦争をする国はありません。

太古の昔から、戦争は常に平和のために行われてきました。だから戦争は、正義と正義のぶつかり合いでした。

どちらも正義と言いながら、共に協力しあうことができず、正義のために対立しています。

正義という名の対立が争いを生んでいるのです。

沖縄平和公園などで、ボランティアの方が、子供たちに場内の案内をしています。そこでは戦争反対を唱えながら、とにかく日本を憎むことを教えています。

その憎しみが戦争を生むことに、なぜ彼らは気付かないのでしょうか。

悪は、善があるから存在するのです。
右手が左手を悪だといい、左手が右手を悪だというようなものです。

両方が喧嘩をはじめたら、人は不自由で仕方がないです。

ところが現実には、同じ人のおなじ体でありながら、右手と左手が対決し、どちらが上かと競い、競い勝った側は支配者となって支配された側から収奪を行おうとします。

右手が左手から収奪し、左手が右手から収奪する。そしてどういうわけか、収奪している側が、差別されたといって騒いでいるのがいまの日本です。

古事記では、私利私欲、つまり人の持つそうした欲心こそが、悪鬼悪神だと説かれています。

そして欲望にまみれた娑婆世界を、狭蝿なす、騒々しい世界と表現しています。

そしてこれに代わる世として、互いに助けあい、協力し合い、みんながそれぞれにみんなのために働く、「モノつくり国家」を目指すのだということが、天孫降臨の章などに明確に書かれています。

そしてそういう世界こそが、高天原の統治をそのまま中つ国に応用したものであると説いています。

高天原の最高神は、天照大御神です。
その高天原の統治が、天照大御神のシラス統治です。
その高天原から、「高天原と同じ統治を行え!」と降臨されたのが天照大御神の孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)です。
そして邇邇芸命の直系のご子孫が天皇です。
だから日本は天皇のシラス国です。

いまの日本人が天皇の御存在のありがたさを否定することは、私たち自身が高天原と同じ統治を否定することになります。

否定するとどうなるかというと、私たち自身が、天皇のおおみたからであるという地位を捨てることになります。

天皇のおおみたからでないなら、支配者、権力者は、下にいる者を私的に支配することができます。

すると、下に居るものは不条理を押し付けられることになります。

不条理に耐えられない者は、上と対立し、対決しようとします。
つまり、上下の対立がはじまります。

下にいる者の中には、上に取りいって、進んで上の配下になろうとする者がいます。

すると、同じ下同士が左右に分かれて対立するようになります。

こうして起こるのが、右手と左手の対立です。

そして人々は、無限の対立闘争の世界に陥っていくことになります。

その先にあるものは、何十万人、何百、何千万人が犠牲になる戦争と粛清です。

だからこそ、私たち日本人は、上古の昔から、神々の直系のご子孫である天皇を、国家最高の権威とし、その権威のもとに、民衆をおおみたからとするという選択を行ってきたのです。
これを広く知らしめるから、知らす国です。

つまりシラス国の住民というのは、このことを知る人たちであるということです。

知らない人が「外人」です。外の人です。
言葉を返せば、人の外にいる人です。
おおみたからとして、人間としての尊厳を認められている。
その尊厳を持つのが、おおみたからです。

その尊厳を否定したり拒否したり、あるいは理解できない者は、人ではない。
だから外人と書きます。
つまり日本人の外の人ということです。

ところが戦後70年が経過し、現行憲法のもとで、日本がシラス国を知らず、むしろ支配と収奪、上下左右の対立と闘争を好む、まるで過去の日本では想像もつかないような民度の低下が起きています。

シラス国というのは、天皇統治のありがたさを知国のことをいいます。

私たちが外の人ではなく、内の人になるために、知国を、もっと常識化していく必要があるのだと思います。

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