「千年の恨み?」

画像の説明 数年前、韓国で「対馬は千年前から韓国領だ」という内容の小説『千年恨 対馬』がベストセラーになりました。

実はこれを受けての朴槿恵大統領の発言が「千年経っても恨みを忘れない」です。

ところがまさに千年前、日本を一方的に侵略し、日本人を虐殺したのは、朝鮮半島の人々だったのです。元寇よりも250年も前のことです。

寛仁3(1019)年3月27日、突然壱岐に、50余隻の高麗船がやってきました。ひとつの船はだいたい15メートルくらいで、その船に約60人ずつが分乗していました。

島に上陸した彼らは、百人くらいで一隊をつくり、先頭の20~30人が斬り込み隊、後ろの70~80人が弓や盾を持ちました。

彼らの持つ矢は4~50cmの短いもので、楯も射通すほどの貫通力がありました。

彼らは、上陸と同時に民家に襲いかかったのです。
そして牛馬を盗み、切り殺して食い、老人や子供たち、抵抗する男を殺し、女を犯し、生き残った者たちを船に拉致しました。

記録に、彼らは「牛馬を切っては食い、また犬を屠殺してむさぼり食らう」と書かれています。

船上で彼らは病人を簀巻きにして海に投げ入んで殺しました。
これは彼らに「病人を食べると病気になる」という食習慣があったからです。

つまり船上に拉致したのは、人を食材にするためだったということです。

暴徒上陸の知らせを受けた国司・壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて征伐に向かいました。

しかし敵は三千です。衆寡敵せず皆殺しにされてしまう。

理忠を打ち破った賊徒は、壱岐の真ん中にある国分寺(嶋分寺)まで攻め込みました。

寺には常覚という和尚がいました。
気丈な和尚は、僧侶と地元住民たちを指揮して応戦しました。
そして賊徒を三回まで撃退しました。

しかし賊徒たちは猛攻をあきらめません。
やむなく常覚和尚は、ひとり島を脱出し、事の次第を大宰府に報告に向かいました。

残された僧侶たちは必死に戦いましたが、最後には全滅し嶋分寺は全焼させられてしまいました。女子239人、男子若干名が捕虜として連れ去られました。壱岐島で生き残った者は、わずか35人だけでした。

千年前の事件でありながら、このようにひとりに至るまで正確に記録が残されているということには、注目が必要です。

支那朝鮮の戦記等では、数万人から数十人に至るまで、死傷者等の数が常にあやふやです。

つまり、ひとりひとりが「人」として認識されていなかったということです。

たとえは悪いですが、家畜が殺処分となれば、その数は何頭とはっきりわかります。

しかし野良犬が道端で大量死しても、その数は、数十頭とか数百頭と言われるだけで、正確な数は多くの場合わかりません。
これと同じで、大陸や半島では、人が人として扱われていないから、何人とわからない。

さて、4月7日には、対馬からも大宰府に「対馬危急」と知らせが届きます。
このときの対馬守遠晴の報告です。

  ***
対馬に刀伊国の者が五十隻あまりの船でやってきた。
彼らはて殺人・放火をはじめた。
彼らは隼のように迅速で数が多く、
とても対抗できない。
壱岐は壱岐守理忠が殺害され、ほぼ全滅である。
彼らは博多警固所と目と鼻の先の
能古島まできている。
  ***

大宰権帥の藤原隆家は、知らせを受けるとすぐに京の都に緊急事態を伝える飛駅便を飛ばしました。

そして同時に応戦のための非常招集を九州各地の豪族たちに呼びかけました。

翌8日、賊徒が筑前・怡土郡(福岡県西部)に上陸しました。
彼らは山野を制圧し、牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたうえ、おびえる男女を追いかけて、4~500名を捕らえて船に乗せました。

また数知れない米穀類が略奪されました。
戦力の不足した藤原隆家は少数の精鋭を率いて、個別撃破を狙い、敵の不意をつく戦法で応戦しました。

その隆家の戦法に、賊徒は崩れ、この日の夕方には、海に逃れて能古島に去りました。

9日の朝、賊徒は藤原隆家の本体がある大宰府警固所を襲撃してきました。しかし武装を整えた隆家の軍勢の前に、逆に賊徒たちが追い詰められ、生き残った者は、再び能古島に帰還しました。

そして・・・・
神風が吹きました。

10日、おりからの強風で、波浪が激しくなり賊徒たちの船が足止めになりました。賊徒たちは身動きができません。
この隙に、隆家のもとに、続々と九州各地からの援軍が到着します。

11日午前6時頃、朝凪を利用して賊徒たちが、再び大宰府に上陸してきました。
隆家は、援軍とともにこれを迎え撃ち、上陸してきた賊徒たちを完膚なきまでに撃退し、敵の生き残り二人を逮捕しました。
一人は傷ついた男、一人は女でした。

13日、賊徒は肥前国松浦郡の村里を攻めてきました。
ここでは前肥前介・源知という武将が待ち構え、族を殲滅しました。ここでも敵の生存者一人を逮捕。

こうしてついに賊徒たちは、恐れをなし、半島に帰国しました。

帰国途中、高麗がこれを待ち伏せ、戦力の減った残りの賊を全滅させました。また日本人捕虜270人を助けて、日本に送り返しています。

この事件で、当初日本側は何者が攻めてきたのかまるでわかりませんでした。逮捕した三人の族は、三人とも高麗人でした。
彼らは、「自分たちは高麗を襲ってきた刀伊に捕らえられていた被害者だ」と申し立てました。

ほんとうかどうかは、わかりません。
古来、捕まると脱糞までして嘘八百を並べるのが半島人の特徴だからです。

この事件の被害は、記録されただけでも、
殺害された者  365名
拉致された者 1289名
殺された牛馬  380頭
家屋焼失     45棟以上です。
とくに女子供の被害が目立っていました。

肉は、女子と子供の肉が旨いのだそうです。

ちなみに拉致された1289名のうち、高麗によって保護され帰国できたのは270名です。
これはつまり、残りの千余名は船上で殺された、ということです。

時の日本政府は、この事件を「刀伊(とい)の入寇」と名づけました。

刀伊というのは、この時点ですでに滅んでいた渤海国の人々を指します。つまり刀伊に国はありません。

一方、実際に襲ってきたのは、高麗人(半島人)です。
けれど時の日本政府は、高麗国と事を構えたくないという配慮から、この事件を「刀伊の入寇」と名づけています。

ちなみに最後のところで、高麗人たちからなる刀伊を、高麗が滅ぼしたとあることに、矛盾を感じた方もおいでかと思います。

それは国という概念を、日本を基準に考えるからです。

近代以前の世界の諸国の王朝は、多くの場合、いわばヤクザの親分が王を名乗っているようなもので、その縄張り(国境)も、明快なものではありません。

王の眼の届く範囲が国であって、国境地帯など王の影響力の薄い地域では、領民にも王国の民という観念はありません。

とりわけ朝鮮半島の場合、王や貴族たちは領民からもっぱら富や食を奪うだけの存在でしたし、領民の側にも国家意識など毛ほどもないし、そのような教育さえもまったくなされていません。

要するに高麗は、最初は賊徒たちに手も足も出ないから放置していたけれど、日本から逃げてきた賊徒たちはすでに弱っていたのでやっつけた、というだけのことです。

これが千年前の事件です。
明らかに対馬も壱岐も、日本の領土です。
高麗の領土であったことなど一度もありません。
またいまある韓国と当時の高麗に、政権としての連続性もありません。

むしろ千年前から壱岐対馬に対して、乱暴狼藉を働いてきたのが半島人であり、もっぱら日本も、壱岐対馬の人々も、これにたいへんに迷惑をしてきたというのが、実態です。

実は先日の倭塾で、日本にはもともと天国や地獄という概念はなく、天国にあっても地獄にあっても、そこには善もあれば悪もある。

つまり、善悪は紙の裏表のようなもので、善の裏に悪があり、悪の裏に善があり、両者は常に同時に存在しているというのが、日本の古くからの考え方であるというお話をさせていただきました。

これは国単位でも同じことで、善なる国であれば、必ずその近くに悪い国があります。善の国が大国なら、必ず悪の国も大国となります。なぜなら善悪は紙の裏表だからです。

このようなことを書くと、まるで私が排外主義者であるかのように思う人がいるかもしれません。そうではありません。

事実を事実として学ぶことと差別は違います。

事実から目を背けずに、より良い未来を築いて行くことこそ大事なことです。

なぜならそれは、悲惨を繰り返さないということだからです。
目を背けるだけなら、悲惨は何度でも繰り返されます。
泥棒に入られたのなら、その事実を認めて、次からは泥棒に入られないように、家にキチンと鍵をかけることです。

悪は必ず隣り合わせにあるのです。

紙の裏表です。
高麗は、刀伊の残党を逮捕し、拉致された日本人を送り返してくれました。

襲ってきたのも半島人なら、既に刀伊が壊滅に近い状況にあったとはいえ、最後に正義を行使してくれたのも半島人です。

強いものに従うという習性を持った人たちが世の中にはいます。

ならば、正義を貫くためには、強くあることです。

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