「隠ぺい」

画像の説明 旧ソ連(現在のウクライナ)・チェルノブイリで発生した史上最悪の原発事故から26日で30年。

当時、ソ連政府はリクビダートル(事故収束作業員)と呼ばれる約80万人もの兵士や消防士らを事故処理に投じた。深刻な事故の実態が隠蔽され続けるなか、ずさんな安全管理のもと作業を行った彼らの多くは今も、病を抱えた体で当局や社会の無関心と戦っていた。

「鎮火まで現場を離れるな」

「当時20代だった私が、どれほどの責任を負わされたか分かりますか」

1986年4月に事故を起こしたチェルノブイリ原発4号機では、その約1カ月後に再び火災が発生した。当時のゴルバチョフ政権が公にしなかった、この火災の消火作業に携わったグトコフ氏(59)は今年4月、モスクワ市内での講演で学生らにそう語りかけた。

消防隊員は最初の事故で6人が死亡。「鎮火まで現場を離れてはならない」との規則を守ったからだという。

グトコフ氏は放射線から部下を守るため、規則を破り、交代で消火を行った。その結果、部下らは「被曝で後に発病したが、すぐに死ぬことはなかった」という。グトコフ氏自身も心臓の病を抱える。

講演後、グトコフ氏に「自身の体を守るような装備などはあったのですか」と聞くと、「何にもなかったよ」と答え、首を振った。

15数えて現場から離脱

「まさに地獄だった」。収束作業を撮影するため、事故1週間後にチェルノブイリに入った映像プロデューサーのシネルニコフ氏(78)は、高線量の原発の屋根の上にいた作業員の姿を思い出し、そうつぶやいた。

同氏はリクビダートルらの支援組織「チェルノブイリ同盟」のモスクワ支部で幹部を務める。

「彼らは線量計をつけていなかった。15を数えて、現場から離れるということを繰り返していた」と、ずさんな作業の実態を証言した。

シネルニコフ氏は、原発の屋根の上にあった原子炉内から飛び散った黒鉛を、消防士が手で除去する作業も目撃したという。

シネルニコフ氏は当初、取材のために事故現場に入ることは許されなかった。そこで同氏は「プラウダ」紙上に記事を書き、当局に現地に入らせるよう要請した。

その記事を、後に「グラスノスチ(情報公開)の父」と呼ばれたソ連共産党の重鎮、ヤコブレフ氏が注目し、事故現場に入ることが実現したという。

公開を禁じられた映像

ただ、撮影された映像は、ソ連国内では翌87年までは公開が禁じられた。

ソ連政府は当初、事故発生を公表しなかったが、北欧諸国が放射線を検出した後にようやく認めた。しかし、ソ連は事故に関わる多くの情報をその後も隠蔽し、その陰で苦しめられたのがリクビダートルたちだった。

チェルノブイリ同盟・ロシア代表のグリシン氏(64)によると、91年3月にソ連政府が元作業員への支援を決定するまで、彼らは何の補償や恩典も受けられなかった。

「彼らの生活を奪っておきながら、病気になれば事故とは関係がないと言い張る。まさに犯罪行為だった」と、グリシン氏は当時のソ連政府の対応を糾弾する。

同氏によれば、彼らがチェルノブイリからの帰任後、次々と病気になっていく一方、当局から何の支援も得られない実態を見て、作業参加を拒否する者が相次ぎ現れ始めたという。

ソ連崩壊で生まれた「格差」

しかし、91年12月にソ連は崩壊。その構成国が独立し、リクビダートルへの対応も各国政府の手に委ねられた。今年4月にキエフで行われたフォーラムで、国際チェルノブイリ同盟のマカレンコ代表(66)は各国の支援に「格差が生まれている」と指摘した。

欧州連合(EU)に加盟したラトビアの元作業員は、政府支援が拡充されたと述べる一方、ベラルーシの元作業員は、今でも政府が事故と病気の因果関係を認めようとしないと訴えるなど、彼らを取り巻く状況には大きな開きがあるようだ。

ロシアでも2005年の法改正でチェルノブイリ原発事故被災者に特化した支援はなくなり、医療や交通、住宅などに関わる恩典は大幅に削減されたという。

前述のシネルニコフ氏は「シリアで戦闘に参加した兵士が『祖国防衛者』として扱われ、(祖国を守ったはずの)リクビダートルたちは補償を削られている」と述べ、現政権の姿勢にやり場のない怒りをぶつける。

シネルニコフ氏らによると、ロシア政府内では現在、リクビダートルらへの対応は非常事態省にわずかな人員が置かれているに過ぎず、保健省には既に誰もいないのだという。

同氏らは改善を要求しているが、政府からの反応は極めて乏しいという。

コメント


認証コード8890

コメントは管理者の承認後に表示されます。