「大国」

画像の説明 中国の史書は、倭国が国家の統合度と人口規模でずば抜けた大国であったと記している。

■1.古代中国の見た朝鮮半島

古代史の研究にはかならず出てくる「魏志倭人伝」は、西暦280年から290年頃に編纂された『三国志』のうちの『魏書』の一部であるが、この書は我が国のみならず、「韓伝」「高句麗伝」など、東アジア各地の地理、歴史、国情を伝えている。
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「高句麗伝」
国の広さはほぼ2千里四方で、戸数は3万戸である。
人々の性格は凶悪性急で、さかんに他国を侵攻し、財物を盗む。
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「韓伝」
韓は帯方(JOG注: 朝鮮半島の中西部)の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している。・・・

馬韓(JOG注: 韓の3つの地域の一つ)は、月支国など全部で50余国。
・・・馬韓の習俗は、制度がととのっておらず、諸国の都には主帥がいるが、村落が整備されず入り乱れているためよく統治することができない。
北部の帯方郡に近い諸国は礼俗をわきまえているが、遠い地域では全く囚人や奴卑のようで礼俗は備えていない。
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一方で、『魏書』は我が国に対しては、「風俗は規則正しく、婦人は淫らでなく、嫉妬をしない、盗みがなく、訴訟も少ない」などとやけに好意的である。
中国が手を焼いていた隣接地域と比較して、友好的な外交関係を結んでいた倭国への「えこひいき」もあるかと思う。

■2.東アジアの大国・倭国

「凶悪性急」などという主観的な評価は別にして、これら「倭人伝」「高句麗伝」「韓伝」などをもとに、当時の東アジアの国勢調査という形でまとめたものが、大平裕氏の『日本古代史正解』に出てくる。

それによると:

1)君主国として機能しているのは高句麗と倭のみで、半島中南部の三韓の地は村落共同体が首長をいだいているといった後進地域であること。
人口こそ、合計14万5千戸と多いが、70余ヶ国に分立している。

2)君主国としてまとまっていた高句麗(現在の満洲から北朝鮮を占める)は、人口わずか3万戸。
一戸平均5人とすると、15万人に過ぎない。

3)倭国は人口15万戸。邪馬台国に従わない周辺国家を含めると、20万戸を超える。
人口にして100万人規模である。

こうして見れば、国家としての統合度、および人口規模において、当時の東アジアで倭国がずば抜けた大国であった事が分かる。

その大国ぶりは、魏の厚遇ぶりにも現れている。邪馬台国の卑弥呼は「親魏倭王」の称号を与えられているが、これは229年の大月氏国に与えられた「親魏大月氏王」と同格で、外臣に与える称号としては最高のものであった。

遣使の二人にまで銀印青綬が与えられ、さらに銅鏡100枚をはじめ高価な品々を贈った。

倭国の使節がやってきたのは、魏が、それまで遼東半島を押さえていた公孫氏を滅ぼした翌年である。
政情さだまらぬ朝鮮半島を抑える上で、大国・倭を心強い味方と歓迎したのだろう。

■3.朝鮮半島南部に倭国の領土があった

もう一つ「韓伝」から分かることは、朝鮮半島南部に倭の領土があった、ということである。

「韓は帯方の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している」との表現から、この事が窺える。
倭との間で海を挟んでいたら、東西のみならず、南も「海をもって境界とし」という表現になっていたはずだ。「接している」とは、地続きだ、という意味である。

三韓の一つ、半島南東部で日本海に面していた「弁辰」(後の新羅の地を含む)は12ヶ国からなり、そのうちの一つ「涜廬」に関しても、再度「倭と接している」という記述がある。

さらに、「弁辰の国々からは鉄を産出する。
韓・わい(「さんずい」に「歳」)・倭が、鉄を採取している」とあり、倭人が鉄の採掘まで行っていた事が窺われる。

また、魏志倭人伝の中で、有名な邪馬台国までの行程を表現した部分で、帯方郡から海岸沿いに南へ下り、さらに東へ行くと、「其の北岸の狗邪韓國(くやかんこく)に至る」という一節がある。

韓半島の南端を、「其の北岸」と言っているのは、「倭国の北岸」という意味にとるのが、一般的な解釈である。

■4.新羅の4代目王は倭人

朝鮮最古の史書『三国史記』は、新羅、高句麗、百済の歴史を述べており、高麗王朝(918-1392)がそれまでの古史書をまとめて、1145年に完成させた。

我が国で言えばその400年以上前に編纂された『日本書紀』にあたる。

その「新羅本紀」の4代目王・脱解王初年(西暦57年)の条には、こう記されている。

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脱解はそもそも多婆那(たばな)国の生まれだ。
その国は倭国の東北1千里にある。
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倭国の中心が近畿地方にあったとすれば、その東北1千里(400キロ強)という多婆那国は新潟県あたりとなる。
脱解は多婆那国の王妃から卵で生まれたという奇怪な伝説があり、それで海に流され、辰韓の海岸に流れ着いたという。

「新羅本紀」では初代王も卵から生まれたという伝説があるので、おそらく王を継ぐにふさわしい人物だという権威付けであろう。

2代目王は脱解が賢者であることを知り、自らの長女を嫁がせ、さらに最高官職である大輔(総理大臣兼軍司令官)に任じた。

その後、14年間も大輔として活躍し、3代目の王は自身に息子が二人いたにも関わらず、脱解を4代目王に推挙した。

脱解は王位につくと、翌年には瓠公(ホゴン)を大輔に任命する。

瓠公も倭人で、瓠(ひょうたん)を腰に下げて、海を渡ってやってきたので、瓠公と称される。
なにやら浦島太郎を連想させる。

いずれにせよ、新羅は4代目王も総理大臣も日本人だった。
その後、5~8代目は3代目王の血筋に戻るが、13代目を除いて9~16代目は脱解の子孫が続いている。
これが「新羅本紀」の記録なのである。

そしてこの記録をまとめた高麗王朝は、
「伝統ある新羅から禅譲を受けた王朝」と自らを位置づけている。

■5.新羅も百済も倭国を敬仰していた

倭人が王となった事を堂々と書く「新羅本紀」には、現代の韓国人が「朝鮮が先進文明を日本にもたらした」と主張するような尊大な姿勢はまるで感じられない。

7世紀半ばに完成した中国の正史『隋書』には、こんな一節がある。
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新羅も百済も○国(倭国)を大国とみている。
優れた品々が多いためで、新羅も百済も○国を敬仰し、常に使節が往来している。
(○:人偏に「妥」、『隋書』では倭国をこう表記した。)
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先に、「弁辰」(後の新羅の地を含む)で、倭人が鉄を採掘している、という『韓伝』の記事を紹介したが、考古学の世界では、半島では3世紀になっても刀剣は鋳鉄だったが、日本列島では進んだ鍛造品が作られていたことが、明らかになっている。

鋳鉄は、溶解させた鉄を型に流し込んで作るが、伸びが無く、堅くて脆い。鍛造は鉄を叩いて成形する際に、金属内部の空隙をつぶし強度を高める。後の日本刀の工法である。

また日本独特の墓制である前方後円墳は3世紀頃から作り始められているが、半島西南端の栄山江地域には、5~6世紀に築造された10数基の前方後円墳が見つかっている。
この頃の半島南端部には、100メートル近い墓を作る倭人の強力な勢力があった。

こうした考古学上の発見と合わせて考えると、半島南端部は倭人が勢力を張り、また新羅地域にも倭人が住んで、鉄の採掘などをしていた。

進んだ技術で「敬仰」されていた倭人の一人が王位を継承したことを、新羅や高麗の人々は自然に受け止めていたのであろう。

■6.倭国の進攻

しかし倭人が王となった新羅に対しても、倭国はたびたび進攻を試みている。

『新羅本紀』によれば、紀元前50年、第一代王の時に「倭人が出兵し、辺境を侵そうとしたが云々」が最初である。

倭人の4代王・脱解の治世では、西暦59年「夏5月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した」と、倭人同士のよしみか、一度は友好関係を結ぶが、西暦73年には「倭人が木出島(蔚山市)に侵入、王は角干羽烏(かくかんうう)を派遣したが敗退、羽烏は戦死した」とある。

このような記述で、紀元前50年から364年の400年間に、12回もの侵攻があったと『新羅本紀』は述べている。

この364年の侵攻が、『古事記』『日本書紀』に伝えられる「神功皇后の三韓征伐」だというのが、[1]の著者・大平裕氏の見解である。

氏は、神功皇后が当時の半島情勢の中で果たした役割について、こう述べている。

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(神功皇后は)・・・大和朝廷の偉大な皇后であり、朝鮮半島では、倭国の権益圏内にあった伽那、加羅地方の宗主国として新興の新羅と戦い、半島中部に進出して高句麗の南下に備え、百済の支援を精力的におしすすめた人物なのです。
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当時の朝鮮半島は、新羅、高句麗、百済、そして倭国領土と、あたかも今日のバルカン半島の如くに錯綜・拮抗していた。
この地域が新羅か高句麗に統一されてしまうと、我が国は半島南部の権益を失うだけでなく、日本列島そのものにも危機が及ぶ。

地政学的に言えば、朝鮮半島は我が国につきつけられたハンマーであり、それが敵対する強国に握られることは、日本にとって安全保障上、最大の問題であった。

日清戦争、日露戦争、そしてアメリカが戦った朝鮮戦争も、すべてここに起因している。したがって、百済をバックアップして、新羅や高句麗から守ろうするのは、理に適った戦略なのである。

■7.神功皇后の新羅征討

大平氏は、神功皇后の新羅征討を次のように、簡潔に記述している。
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仲哀天皇の崩御後、神功皇后は臨月にもかかわらず神功皇后元年(362年)、対馬より水軍を進め、新羅の地に上陸して王都まで兵を進出させました。

新羅王はほとんど抵抗することなく降伏、自ら首に白い組みひもをかけ手を後ろでに縛り、土地の図面と人民の籍を封印して皇后に奉じ、
「今から以後、天地とともに長く、(降)伏して(馬)飼部(かいべ)となります。
・・・また海(路の)遠いのをものともせず、年毎に男女の調(みつぎ)を貢上しましょう」と申し出ています。
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一方『新羅本紀』には、次のように記されている。
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9年(364年)夏4月、倭兵が大挙して侵入してきた。
王はこの報告を聞いて(倭軍の勢力に)対抗できないことを考慮して、草人形を数千個作り、それに衣をきせ、兵器をもたせて吐岩山の麓にならべ、勇士1千人を斧けん(山へんに「見」)の東の野原に伏せておいた。

倭軍は数をたのんでまっしぐらに進撃してきたので、伏兵を出動させて倭軍に不意うちをしかけた。
倭軍が大敗して逃亡したので、追撃して倭兵をほとんどすべて殺した。
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紀年に2年の食い違いがあり、また勝敗の記述も異なるが、共通しているのは新羅が正面からの抵抗を諦めざるをえないほどの圧倒的な大軍を倭国が送ってきたことである。

最近、韓国教員大学の研究者たちによって、倭軍が新羅の東海岸から上陸したという研究成果が公にされている。
神功皇后の実在を疑う向きもまだまだ多いが、その問題とは別に、当時の日本が、多くの軍船で大軍を半島に送りうる、まさに「東アジアの大国」であったことは、両国の史書を見ても動かない事実である。

■8.建国記念の日に

『古事記』『日本書紀』は7世紀前半に、朝廷の統治を正当化するために創作された物語、と主張したのは、大正年間、今から100年近くも前に研究を行っていた津田左右吉である。

そしてこの見方が、戦後の自虐史観に利用されて歴史学研究を拘束し、今も初代・神武天皇[b]からここで述べた神功皇后まで十数代の天皇、皇后の実在が否定されている。

しかし『古事記』『日本書紀』を否定するばかりで、それではどのように我が国が建国されたのか、その史実を探究しないのであれば、それは歴史学の名に値しない。

その一方で、『古事記』『日本書紀』と中国、朝鮮の史書の比較研究、さらには考古学的研究が進み、古代の我が国の姿がおぼろげながら明らかになりつつある。

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