「江戸から明治」

画像の説明 会社の株主総会のようなもの?

山縣有朋の地方議会選挙制度

明治の町村会が、株主総会のようなものだったということは、明治の町村会選挙では、会社の株主総会の議決権者が自然人に限られていないのと同様に、選挙権者が自然人に限られていなかったということをご説明すれば、より理解しやすいかもしれない。すなわち、納税額がその町村の最多額納税者の上位3人よりも多い額になっていれば、会社やその他の法人、すなわち自然人でない者にも選挙権が認められていた。

さらには、そのように多額納税をしていれば、非居住者や未成年者、あるいは婦人にも選挙権が認められていた。わが国で女性の参政権が一般に認められたのは、戦後のこと。実は、フランスやイタリアでも戦後だったが、わが国の地方選挙においては、そんな形で明治の初めから、女性にも選挙権が認められていたのである。

それも、町村会が納税者という株主で成り立っている株主総会(納税者集会)だったと考えれば、「なるほど」という仕組みだった。

株主なら、会社や女性、あるいは未成年者にも株主総会での議決権は認められる。それと同様に、高額納税者なら、会社や女性、あるいは未成年者にも選挙権が認められていた。「代表なきところに課税なし」という米国独立戦争時のスローガンからしても、「なるほど」という仕組みだったのである。

山縣は、それ以外にも、もっと基本的なところで、町村会を納税者集会だと考えれば「なるほど」という仕組みを、町村会の選挙に導入した。

それは、少しでも町村に納税していれば、選挙権を認めるという仕組み。帝国議会の選挙で直接国税15円以上の納税者にしか選挙権者を認めなかったのとは、全く発想を異にしていた。

最近ではあまり聞かないが、かつて一株主運動というのがあった。問題があると思う企業の株を1株買って株主総会に出かけて行き、会社の執行部に質問する運動だ。株主総会には、1株でも持っていれば、1万株以上も持っている株主と同じように出席することができる仕組みを利用した運動だった。

地方自治を立憲制の学校にしようとした山縣の情熱

それと同様に、1円でも町村の税金、すなわち地租を納めていれば町村での選挙権がある、としたのが山縣有朋。それは、村の貧乏百姓にも相応の村入用を負担させ、その代わりに村の寄り合いに出席させて、地域のことの相談に与からせていた江戸の自治の伝統を引き継いだものだった。

直接国税15円以上の納税者に限定されていた帝国議会の選挙権者の数は、明治初年の士族の数とほぼ同様だった。直接国税15円以上の納税者が、全人口の1.1%、45万人だったのに対して、江戸時代の武士は40万戸だったのである。

それは、江戸時代の国に相当していたのは幕府というお上で、そこでの統治に参画していたのは武士で、住民の参加は認められていなかったことと平仄の合う話だった。そのような国の統治に住民の参加を認めるのは、もともと地域の自治に任されていた町村の統治に住民の参加を認めるのとは、全く異なることだった。

町村については、福沢諭吉が言っていたように「日本国民は250年の間、政権こそ窺ふことを得ざれども、地方公共の事務に於ては十分に自治の事を行ひ、政府の干渉を受けざること久し」だったのである。

ちなみに、国が帝国議会の選挙権を制限したことを、ことさらに遅れていたと言うのは、言い過ぎである。というのは、当時は西欧諸国も、王政から議会制民主主義に変わりつつあった時期で、納税額や財産の額によって選挙権を制限する制度が普通だったのである。

地方自治を立憲制の学校にしようとした山縣の情熱

そのように納税額で制限されていた国の選挙資格は、明治33年に15円以上から10円以上に、大正8年に3円以上に、というように拡大していった。大正8年の有権者数は、307万人にまで拡大していた。

そして、それが順調に行われていった背景には、最初から納税額の多寡を問わなかった、町村会選挙の仕組みがあったといえよう。お隣の中国では、今日に至るまで、選挙資格を絞った形においても一般国民による選挙は行われていないのである。日本のそのような発展の背景には、江戸の自治があったというわけである。そこには、地方自治を立憲制の学校にしようとした山縣有朋の構想があったというわけである。

ただ、山縣の導入した地方議会選挙制度には、江戸の自治よりも後退した面もあった。それは、江戸の村の寄り合いには小作人も参加していたが、明治の町村会選挙では小作人には選挙権が与えられなかったという点だ。

それは、明治政府が明治6年からの地租改正で、小作人は地租という税金を納めないことにしてしまったからである。地租改正では、地租の納税者は土地の所有者、すなわち地券を持っている地主だけにされてしまった。江戸時代には小作人も村入用という税を納めていたのが、明治になって小作人は地主に地代を治めるだけになってしまった。そして、町村会の選挙権は小作人には与えられないということになってしまった。

自ら提唱した「復選制」に見る山縣の慎重な対応

議会の起源が納税者集会だったということからして、江戸時代には村入用という税を納める小作人は、当然に村の寄り合い、すなわち村議会のメンバーだったが、明治の地租改正が小作人を納税者でなくしてしまったので、町村会への参政権がなくなってしまったというわけである。

そんなわけで、江戸の村の自治は小作人も入った村全体の自治だったのが、明治の村の自治は地主の自治になってしまった。

江戸の村の自治よりも明治の自治の方が後退してしまったというわけである。この点を指摘した文献は見当たらないが、それは明治期のインテリが町に住んでいたため、家主さんたちの5人組による自治、すなわち店借人や地借人が参加していなかった自治を当たり前だと思っていたからだと思われる。

ただ、村の小作人が村の自治に参加しなくなったという点は、山縣有朋は国が豊かになって、やがて何らかの形で小作人も税金を納めるようになれば、選挙権を持つことになると考えていたと思われる。というのは、山縣は税金を払っていない国民にも選挙権を与える普通選挙には大反対したが、国政選挙の選挙資格を国税納税額の15円から引き下げていくことには反対しなかったからである。

山縣が「普通選挙は国を亡ぼすことになる」として大反対したのは、議会を納税者という株主が集まる株主総会のようなものだと考えれば、もっともなことだった。株主総会に株主でない人の出席を認めるのが、普通選挙だと考えられるからである。株主でない人にまで出席を認めたのでは、株主総会での議論には収拾がつかなくなる虞がある。それでは会社は成り立たないというわけである。

自ら提唱した「復選制」に見る山縣の慎重な対応

さてここで、山縣有朋が導入したもう1つの面白い選挙制度をご紹介する。それは、府県会議員選挙に導入された複選制(間接選挙)という仕組み。山縣が、地方自治を立憲制の学校にしようと考えていたが、その進め方に慎重だったことを示しているのが、この復選制の導入である。

当時、町村レベルを超えて、府県に自治の制度を導入することには、政府内部に強い反対論があった。府県は江戸時代の藩、すなわちお上そのもので国と同じものだったから、そこに自治などとんでもないというのが、政府内の多くの人たちの意見だった。ところが、山縣は府県にもそれなりの自治を行わせようとした。それは、山縣が地方自治を立憲制の学校にし、やがて国政に及ぼしていこうとしていたからである。

当時、政府の多くの人たちが府県に自治が認められないとしていた実質的な理由は、当時盛んだった自由民権運動の大きな拠点が府県会で、そこに自治を導入して自由民権運動を展開されたら大混乱になるから、というものだった。

民主的な選挙制度を導入することの難しさ

ということで、当時の府県会の選挙権は、後の帝国議会選挙と同じ発想で、地租5円以上の大口納税者に絞られていた。5円以上の大口納税者は、全人口の1割程度の大地主たちだった。それを山縣は、とにかく税金を少しでも納めていれば選挙権があるとした、町村会議員たちが参加する間接選挙制度とした。納税者が直接選ぶ町村会議員を、府県会議員の選挙人にしたのである。

と言われても、よくわからないかもしれないが、要は米国の大統領選挙をイメージしていただけばわかるだろう。米国の大統領選挙では、州ごとに選出された選挙人が大統領を選挙しているが、その州ごとに選ぶ選挙人の代わりに、町村議会議員を持ってきたというわけである。

山縣は、そのようにすることによって、みだりに空論を唱えるような人を排除できる、自由民権運動による混乱を助長するようなことはないとして、政府内の反対論を押し切って、この制度を導入した。

しかしながら、ことは山縣が考えていたようには進まなかった。復選制の導入は、府県会議員の選挙人である町村会議員選挙の過熱をもたらした。アメリカの大統領選挙の予備選挙が「過熱」するのと同じようなことが、起こってしまったのである。結局、山縣は、そのようになった複選制を、明治32年には廃止して、直接国税3円以上を納める大口納税者による選挙、つまり先祖返りした制度にした。このような試行錯誤は、今日から見れば滑稽にさえ見える。しかしながら、それは山縣が地方自治を立憲制の学校にしようとした結果だったのである。

民主的な選挙制度を導入することの難しさ

実は、それまで選挙が行われていなかったところに選挙制度を導入することは、大変難しい、また、危険も伴うことである。そのことは、今日ミャンマーでまともな選挙が行われるようになるまで、どれだけの紆余曲折があり、時間がかかったかを考えればわかることである。あるいは、先の戦争の後、植民地から独立したアジアやアフリカの国々が、まずは民主的な選挙をしても、結局軍部の独裁政治になってしまった国が多かったということを考えればわかることである。

今日の日本では、選挙が当たり前になっており、いわば空気のようなものになっているが、まともな選挙制度を導入するのは本当に大変なことで、その苦労をしたのが山縣有朋だったのである。

実は、民主的な選挙制度を導入することの困難さ、危険性を指摘したのが、『アメリカのデモクラシー』という本を書いたトクヴィル(1805-1859)という人だった。

トクヴィルは、明治維新の少し前くらいの人で、安政の大獄が行われた頃に亡くなっているが、選挙について「それまで参政権を持たなかった人民にこれを与える瞬間は、疑いなく危機のときである」とのべている。

「この点はいくら言っても言い過ぎではない。自由である術を知ることほど素晴らしいことはないが、自由の修業ほどつらいこともまたない」「人民が公共の広場に集まって長を選ぶ場合には、(中略)このような選挙の仕組みから生ずるあらゆる内戦の危険にもさらされる」と述べている。

トクヴィルが賞賛した米国型民主主義の理念

トクヴィルは、地方自治が自由の精神にとって重要で、その学校とも言えるということを言っていた。「地域自治の制度が自由にとって持つ意味は、学問に対する小学校のそれに当たる。この制度によって、自由は人民の手の届くところに置かれる。それによって、人民は自由の平穏な行使の味を知り、自由の利用に慣れる。地域自治の制度なしでも、国民は自由な政府をもつことはできる。しかし自由の精神はもてない」と述べていた。

トクヴィルが賞賛した米国の民主主義

トクヴィルは、フランス革命直後の時代を生きた人物である。実は、フランス革命は、自由の精神を生み出したが、多くの殺戮も伴った。フランス革命とその後のナポレオン戦争で、490万人という犠牲者を出した。当時の世界人口10億人弱(1800年、9.8億人)からすると、とんでもない犠牲者数だった。

トクヴィルの実家も、ノルマンディー地方の大地主だったので、主な家族や親戚のほとんどが処刑されてしまった。そのようなトクヴィルは、民主主義に対して必ずしもいい印象ばかりを持っていたわけはない。そのトクヴィルが、理想的とも言える民主主義を実現している米国を見て書いたのが、『アメリカのデモクラシー』である。

そして、アメリカの選挙制度については、「アメリカは外国による征服を少しも恐れる必要がなかった。アメリカの立法者はこうした恵まれた状況のおかげで、(中略)執行権を弱く従属的につくっておけば、これを選挙制にしても危険はなかった」と述べている。

それに対して、明治維新政府が当時直面していた状況は、まさに「外国による征服を恐れる必要」がある状態だった。アジアの国々は次々と西欧列強の植民地にされていた。そのような中で、それまで藩ということで、自治が全く行われていなかった県のレベルにまで民主的な選挙制度を導入することが、いかに難しく、かつ場合によって危険を伴う作業だった

そこで、山縣が試行錯誤を重ねたのは無理もないことだったというわけである。 

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