「チベット」

画像の説明 世界の国家(南太平洋の島国を除く)は、210カ国ありました。

そしてこの200年間の間に、そのうちの60あまりの国家が消滅しています。 10数カ国は自発的に他国と合併しました。残る51カ国は近隣諸国からの軍事侵略によって消滅しました。

それらすべてが平和裏のうちに新たな国家となり、また民衆のための平和国家が建設されたというばかりであれば、それは歓迎すべきことです。

けれど現実に起きたことは、そこに戦闘があり、また武器を持たない者から虐殺され、奪われ、強姦されて殺害されてきたという事実です。

たとえばチベットは、かつて支那の西奥の広大な地域を国土に持つ人口600万人の仏教国でした。支那に清王朝があった時代、清國皇帝はチベットを仏教国として敬いました。チベットは清朝の柵封国ではあったけれど、清國の領土ではなく、かつ、清國皇帝から尊敬を得た独立国家だったのです。

そのチベットは、国民の1割が僧侶という、平和で争いのない国でした。そこに、大東亜戦争が終結した4年後の昭和24(1949)年、建国したての支那共産党の人民解放軍が押し寄せました。このときの中共政府の言い分は、「我が国領土を確定する」という、実に身勝手なものでした。

けれど、もうひとつ大切なファクターがあります。
それが「富」です。

建国早々にチベットを襲った支那共産党は、蒋介石率いる支那国民党を武力によって倒して支那での政権を樹立した政権です。なぜ国民党を倒すことができたかといえば、ソ連から武力装備の援助を受けたからです。ソ連が援助した中身は、旧日本軍から取り上げた装備です。

他人のものだから、無償で提供してもソ連は、自分の国のフトコロが痛むわけではなかったのです。

おかげで崩壊寸前にあった支那共産党は、勢力を盛り返し、支那国民党を打ち破ることができました。ところがこれには、大きな「お釣り」がありました。というのは、支那共産党が、「ソ連の援助を受けて建国」すれば、建国後にはソ連の属国にならなければならないのです。つまり支那共産党は、「支那を領土として確定」した瞬間に、その領土をソ連に捧げなければならなくなります。

なぜなら、ソ連はただ善意で支那共産党を助けたわけではないからです。ソ連から武器の供給を受けて戦った支那共産党は、ソ連から提供された武器その他の代金を払わなければ、そのままソ連に飲み込まれ、独立国ではなくなるのです。そのためには、ソ連に支払いをしなければなりません。

ここで支那という国の国情を、もう一度振り返ってみます。
支那は、清王朝にせよ、支那国民党にせよ、支那共産党にせよ、単一の政権が国土を牛耳っている国民国家ではありません。支那には大きく分けて7つの軍閥があり、それらの軍閥の下には、さらに無数の軍閥が複雑な階層を担っている、支那は古来、そういう国です。

これはたとえていえば、日本という国の中に、山口組や稲川会、住吉会、会津小鉄会、共政会など、いま21の全国指定広域暴力団がありますが、その暴力団には、さらにその下部に無数の中小規模の暴力団があり、そして日本国政府なるものが「暴力団の上に乗っかっている」そんな状況にたとえることができます。

支那国民党の総裁である蒋介石は、その支那の軍閥のひとつです。ですから蒋介石軍閥が、他の軍閥に協力を要請する(あるいは支配する)ためには、常にそれぞれの軍閥へのそれなりの見返りが必要になります。これは、支那共産党にしても同じことです。

蒋介石本人は、ただの貧乏書生だった人ですが、宋美齢と結婚した人です。妻の宋美齢の実家の宗家は、支那を代表する大金持ちです。ですから蒋介石は、資金面の不自由なく、またソ連からカネをもらう必要もなく、独自の軍閥を組織できました。

ただ、自分のいるエリアだけを支配するのではなく、支那を統一して日本と戦う(支那事変)には、他の軍閥の協力が不可欠です。そしてそのためには、巨額の富が必要となります。
そこで蒋介石は、「支那の伝統的な方法」で、この富を手に入れました。それが、清王朝の居城である紫禁城への攻撃です。

紫禁城には、清王朝が世界から集めた値段の付けられないほどの高価な財宝の数々がありました。蒋介石はこれを奪いました。紫禁城での収奪は徹底していました。
清國最後の皇帝である愛新覚羅溥儀には、英国人家庭教師から送られた自転車1台と、いま着ている一枚の服と、カビ臭い古びた玉座以外、何も残さなかったのです。

紫禁城内にあるあらゆるモノ・・・緞帳に使われていた布から、台所の調理器具に至るまで、それらは全部奪い取られたのです。

そして蒋介石は、その奪いとった財宝や家具や調度品や衣類の数々を、まるごと他の軍閥への報酬(買収資金)として遣いました。それだけではなく、対日戦線のための欧米での宣伝工作資金にもしました。

所詮は、奪いとっただけの他人の財産です。
自分のフトコロが減るわけではない。
財宝は、(蒋介石にとって)効果的に活用されたわけです。

他人のフンドシでスモウをとるとは、よく言ったものです。
「酷いことをする」と思われるかもしれません。けれどこれは、支那の歴代の王朝が王朝の交代劇の都度繰り返してきた、支那では伝統的なやり方です。それどころか、ひとつの軍閥が、皇帝の財産を奪ったとなれば、むしろ積極的に他の軍閥はその分け前に与ろうとしてきた。そのために殺戮さえも厭わないという、欲望と殺戮の歴史が、支那の歴史です。

これは、庶民生活でも同じです。
むかし、西洋の船が支那の港につくと、その船の周囲に支那の船上生活者たちが集まってきました。彼らが何をしに集まったかというと、理由は2つあります。

ひとつは、竹竿を使って外国船の窓に竿の先をひっかけ、子供にその竿を伝わらせて船内のものを盗むためです。もうひとつは、船の排水口から流れてくる残飯を、網ですくって食べるためです。ひとつの船が、うまく残飯をすくうと、子供達がその残飯に群がります。それだけでなく、近くの支那人の船が近づいてきて、盛大な食べ物の奪い合いと殺し合いが起こります。
ですから、当時の外国船は、放水してそれら支那船を追い払いました。

貧しいがゆえ、と思われるかもしれませんが、それら支那の船上生活者というのは、船を所有することができているだけ、支那では裕福な層だったのです。

そこに富があれば、食い物があれば、とにかく奪って、自分のものにする。そして富や食い物をわけることができる人は、大人(だいじん)とされてきたのです。

さて、大東亜戦争の終結後、蒋介石は毛沢東率いる支那共産党に追われました。追われた蒋介石は、この時点で、すでに紫禁城から奪い取った財宝の多くを費消してしまっていました。

つまり、共産党は、ソ連から借りたカネを払うにも、国内の他の軍閥を調略するためにも、必要なカネや財物を、すでに蒋介石から奪うことができない(蒋介石に富がない)状況になっていたのです。

そこで支那共産党が目を付けたのが、支那と陸続きにある古い国であるチベットでした。

チベットは、もともとは「吐蕃(とばん)」と呼ばれていましたが、成立したのは7世紀にさかのぼります。
そしてダライ・ラマが国を統括するようなってからも、この時点ですでに300年が経過しています。
そのチベットには数々の寺院があり、値段の付けられないほど高価な仏像があり、古い経典があります。

すでに国内の清王朝の居城である紫禁城は財宝が奪われて空(から)、それ以外の各地の城塞都市も、すでに国民党に荒らされて、場内の財宝は空(から)です。
そしてこの時点で、もっとも豊かな財宝を所持していたのが、チベットでした。

つまり、冒頭に申し上げた、支那共産党が「我が国領土を確定するため」というのは、文字通りそのままの意味なのです。
少し言葉を足すならば、「支那共産党が、自分たちがしたソ連からの借金を返して、ソ連の国土への侵略と政治介入の脅威から自分たちを護り、また支那全土の軍閥を味方につけるのに必要な支払いの原資となる財宝を、チベットから奪うこと」。
これが、支那共産党の「我が国領土として確定する」という言葉の意味です。

支那共産党は、その後、昭和54(1979)年にも中越戦争を起して一方的にベトナムに攻め込んでいますが、これまた1977年まで続いた支那国内の文化大革命によって、停滞した国内経済を立て直し、軍閥の共産党離れを防ぐために、ベトナムの財を奪いに行ったという側面を否定できません。

わかりやすく言うと、支那という国は、軍閥という名前の全国指定広域「暴力団」が地域を牛耳り、その暴力団の上に「政府」が乗っていて、その政府は、常に軍閥たちにカネや財をバラまいて彼らを豊かにしなければならない国なのです。

これは、秦の始皇帝の昔から、唐、宋、明、清、国民党、中共と名前が変わっても、その実情はかわりません。

そして、政治の支配力が弱まるというのは、政府が国内にある軍閥にカネを渡せなくなること。つまり、政府が存続するためには、周辺にある豊かな国に軍事攻撃を仕掛けて、その国の財を奪わなければならなくなるし、そうしなければ政府が生き残れない、というのが、支那という国です。

中共の「人民解放軍」がやってきたとき、仏教国であるチベットは、国防兵力を持っていませんでした。
仏教の聖地であるチベットに、軍は何百年もの間、必要がなかったのです。そこに押し込みを働いた中共の人民解放軍は、チベットで11万人の僧侶を拷問して殺害し、150万人の国民を虐殺しました。

なんと、信じられないことに、全人口の4分の1を虐殺してしまったのです。

人口の4分の1というのは、日本で言ったらちょうど就労者の人口がこれにあたります。日本では、総人口1億2千万人のうち、ちょうど4分の1にあたる4千万人が就労者です。
ということはつまり、毎朝通勤電車に揺られたり、早朝の通勤渋滞を招いている車に乗った人達全員が殺されたようなものです。

中共政府に抵抗するものは、こうして全部が殺害され、古い歴史を持つ仏教寺院は破壊され、焼尽され、若い女は集団で強姦され、そして支那共産党はチベットの財宝を手に入れ、支那国内の軍閥を抑えることに成功しました。

そして人口450万に減ったチベットに、中共政府はなんと700万人もの支那人を移住させ、昭和40年には、「民主的な方法」を持って、チベットを西蔵自治区という中共の版図に加えてしまったのです。

パンダといえば、おそらく多くの日本人が、「中国生まれの可愛い動物」と思っていようかと思う。

けれど、パンダは、もともとはチベット固有の生き物です。
国を奪い取られたチベットにいたパンダを、中共政府は「元々中国のもので~す」とばかり、支那外交の切り札として使っています。

それだけではありません。
中共政府は、チベット人たちに、チベット語を話すことを禁じ、公文書や公用語、テレビやラジオの放送まで、全部、北京語にすることを強制しています。

チベット語しかわからないもともとのチベット人達にとって、これではいきなり外国での生活を余儀なくされたも同様です。

こうしたチベットへの圧政は、いまも続います。
だから、チベットの伝統や文化を護ろうとする若い人達が、フリーチベット運動を行い、自らの命を犠牲にしてまでも中共政府に抗議し、その抗議の声を世界に向けて発信しようとして、自殺を禁じられた仏教徒であるチベット人の若い女性が焼身自殺までしているのです。

そしてその後の中共は、路線を経済政策に転換しました。
宣伝工作によって外国から民間投資を招き入れ、その投資資金で経済を活性化してきました。年間二桁の経済成長は、軍閥のフトコロを肥やし、彼らの軍備を強固にしました。

ところがその支那の経済成長が止まったのです。
そうなると、軍閥にとって、中共政権は、もはや邪魔者でしかなくなります。中共政権は、生き残るためにどうしたらよいのでしょうか。

この数年間は、粉飾決算でなんとか誤魔化してきました。
東シナ海、南シナ海の海洋資源を手に入れようともしてきました。アフリカでは世界的に禁止されている象牙の収穫を大々的に行い、ジェット旅客機に高価な象牙を満載して軍閥に配りました。

他国の領海である小笠原にある紅珊瑚を乱獲して、高価な珊瑚の装飾品に仕立てて軍閥に配ってごきげんをとりました。

けれど、そんな中共の国内工作も、もはや先が見えるようになってきました。そして、こうした状況に至った時、支那の歴史で毎度起きたのは「富を持ったところを襲って富を奪う」ことです。支那では、その歴史が繰り返されてきたのです。

いま、支那の近くにあって、もっとも富んだ国や民族は、どこでしょうか。そして米国とともに、日本が安全保障を強化しようとしたときに、もっとも反対したのは、どこの国だったでしょうか。

安倍内閣の施政について、とかく批判の声も多いようです。
保守系の方でも、安倍批判をされている方もおいでになります。いろいろな方の、いろいろな考え方があること、それ自体はとても良いことだと思います。

ただ、いま安倍内閣は、いまの日本でできる最大の政治運営を行っていると思います。できることとできないことがある。
ただ理想を振りかざすのではなく、左派、右派、いろいろある中で、いまできる最良の選択を安倍内閣はしていると思います。

私は争いを好みません。
保守という自覚もあまりありません。
保守と言った瞬間に、保守でない人と敵対する、というのでは、日本の心から外れると思うからです。

日本はいま、左派右派、保守、非保守の枠組みを越えて、みんなが力を合わせるときにきていると思っています。

なぜなら、現実の支那の脅威が、私達の日本に迫っているからです。
そのために、真実という情報の共有化が必要です。

それが「シラス(知らす、Shirasu)」国の、本来あるべき姿です。

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