「これでいいのか?」

画像の説明 自主避難者、分かれ道 福島県、住宅支援打ち切り

原発事故の被災者支援や賠償に「区切り」をつける動きが加速している。福島県は15日、政府の指示を受けずに避難を続ける自主避難者への住宅無償提供を、2016年度末で打ち切ることを決めた。帰郷を願いつつ不安を抱える避難者は戻るか、避難先で定住するかの選択を迫られる。

■避難者「逃げてはだめなのか」

「放射能に不安を感じて、逃げることすらもう許されないのか」。無償提供打ち切りを受け、40代女性はいう。女性は福島県内の自宅から1千キロほど離れた熊本県で子ども2人と避難生活を続けている。

2011年3月、自宅周辺は避難指示は出なかったが、放射線量が上がった。女性は「放射能が怖い。子どもにどんな影響が出るか分からない。避難したい」と思った。近所の人にいうと「地域の和を乱すな。怖いと言うな」とたしなめられた。

それでも翌月、5歳の長男と3歳の長女を車に乗せ、知人のいる熊本県に向かった。避難先は自宅よりかなり狭い木造平屋建て。会社員の夫は「先祖がつくった家を放ってはおけない」と残った。

子どもたちは熊本で小学校に入学した。長男は4年生、長女は2年生になった。現在家賃5万円の自己負担はないが、福島にいる夫との二重生活で出費は事故前より増えた。子どもたちが学校にいる昼間は時給688円のコンビニで働く。貯金を切り崩さないと生活は成り立たない。

「家賃まで自腹になると生活が一層厳しくなる。知事は金持ち以外は福島に戻ってこいと言っているようだ」という。だが、子どもたちが成人するまで避難を続けるつもりだ。女性は「福島が好きだし、子育てが終われば帰りたい。事故さえなければ悩まずに済んだのに」と話す。

■帰還者「いつまでも続かない」

整体師の松井知美さん(46)は4月、住宅提供を受けた山形県米沢市から福島市の自宅に戻ってきた。夫国彦さん(48)を福島市内に残し、子ども5人と自主避難していた。「家族が一緒に暮らせることが大事だと気づいた」

原発事故直後、長男はサッカー部、長女はフットベースの練習をしていた。放射線量が高い屋外で運動をさせていいのか不安だった。

一時は移住も考え、米沢市内にも整体院を開業。週3回は国彦さんが米沢市へ、残りの4日は知美さんが福島市へ、互いに通い仕事を続けた。おかげで休みがなくなった。

昨春、長女にどちらの高校に進学したいか尋ねた。「私が福島の高校に行って家族が戻れば日曜日に休めるよね」。夫婦で仕事に追われて家族と過ごす余裕がなかったことに気づいた。

今は福島産の野菜が安ければ食卓に出す。子どもたちが学校になじめるか不安だったが、小学校や保育園で一緒だった同級生たちが温かく迎え入れてくれた。

知美さんは「いつまでも続けるわけにはいかないだろう」と、住宅の無償提供終了を決めた県の判断を受け止める。

だが、自主避難して良かったと思っている。「福島にいて子育てし続けていたら、不安に押しつぶされていた」

■国の避難解除目標、県の決断を後押し

原発から遠くても放射線量が高くなったが、国や東電による事故の説明が不十分で、住民は不信感を抱いた。このため福島県は、避難指示を受けた人と区別せず自主避難者に住宅の無償提供を続けてきた。

ただ、事故から4年がたち、多くの人は県内で日常生活を送っている。県幹部は「自主避難者は(自ら避難することによって福島は危ないとの)風評を広げている側面もある」と話す。住民の多くが避難を続ける一部の被災自治体も、無償提供を終わらせて帰還を促したい考えがあった。

政府や与党の意向も、県の決断を後押しした。

東日本大震災の16年度以降の復興予算が今月正式に決まるのを前に、原発事故の被災者への支援策の打ち切りが、相次いで示されている。無償提供を打ち切る17年3月は、特に放射線量の高い帰還困難区域を除いた避難指示区域について政府が打ち出した解除目標に重なる。その1年後分までで東京電力の慰謝料の支払いも打ち切られる。

内閣府によると、被災者のために県が借り上げたアパートの家賃などにかかる14年度の災害救助費は、原発避難者を抱える福島が宮城、岩手に比べ243億円と突出した。費用を負担する国は「(自主避難者への無償提供は)いつまでも続けられない」との意向を県に伝えていた。

福島の人たちは降ってわいたような原発汚染で辛すぎる生活をさせられてきたことは誰の責任なのか?

東電をつぶしてでも賠償すべきだ・・・

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