シンガポール、団地ライフの幸福度

画像の説明 イロイロ ぬくもりの記憶

シンガポールが世界で最もユニークなものは何かと問われたら、なんと答えればいいのだろうか。

清潔な街?
金融シティー?
巨大カジノホテル?
ナイトサファリ?
マーライオン?
どれも違う。

答えは、団地生活である。国民の8割が団地暮らし。それが本当の意味でのシンガポール・ライフを理解する第一歩になる。

シンガポールにはHDBという政府運営の団地がある。HDBとは「HOUSING AND DEVELOPMENT BOARD」の略称。国土の狭いシンガポールでは、住宅政策は国家直営であり、貧富の両極端にいる人々を除き、シンガポール人はHDB以外の選択肢は持たない。社会主義国を思わせる政策だが、国土が小さく、人口が多いシンガポールにおいては、たしかにこれ以外の方法は思いつかない合理的なやり方である。

シンガポール駐在時代、知人の家にときどき呼ばれて遊びに行ったこともあるが、訪ねるのが大変だった。団地の場所までは分かっても、どの棟か見つけるまでが一苦労だからだ。シンガポール人は家に友人を呼ぶことはあまり好まず、レストランなどで忘年会やパーティーを行う傾向が強い。これはきっと、どこの家に行っても基本的に家のつくりは同じなので「お宅拝見」の楽しみがないからではないかと私はひそかに想像している。ただ、中に入ると、けっこう家具やインテリアに凝っていて、なかなか居心地は悪くはない。

団地のなかでも当然、格差はある。中心部から遠いところや狭いところは安い。広いところに引っ越し、やがて、HDBではなく、コンドミニアムと呼ばれる高級マンションに引っ越すことがシンガポール人の描く小さなドリームである。

そんなシンガポールのHDBライフが、この映画「イロイロ」のお話だ。イロイロは、フィリピンの地方の名前である。中国語のタイトルは「父も母もいない家」となっている。

父も母もいないとなると、子供しかいないじゃないかと日本人は思うかも知れない。しかし、そうではない。シンガポールにはメイドがいるのだ。この映画は、フィリピン人メイドのテレサと、シンガポールの子供のジャールーが2人で織りなす物語である。

ただ、普通に日常を生きていくだけだが、それが不思議に面白い。

シンガポール社会は、一見華やかにみえて、生きるのが大変な社会である。両親は必ず共働きでHDBのローンを返す。メイドも裕福だから雇うわけではなく、家にいないから育児や家事を任せるしかなくて雇っている。

メイドは、政府指定のいくつかの国からしか雇うことができない。必要な場合は仲介業者に連絡をすればすぐに手配してくれる。二大勢力は、フィリピン人とインドネシア人だが、フィリピン人は英語ができて、家事もうまいというもっぱらの評判なので、コスト=手当が少し高くなる。

だいたい1カ月につき5万円程度というのが相場だと言われている。住み込みをするケースが多く、シンガポールの住宅にはメイド部屋をしつらえている場合も多い。シンガポールで私が住んでいたコンドミニアムにもメイド部屋があったが雇っていなかったので倉庫にしていた。窓のない3畳ほどの部屋だった。

ジャールーの両親は生活や家庭のストレスで精神的に追いつめられてしまい、父親は怪しいビジネスに手を出して破産、会社も首になってしまう。母親も自己啓発系のセミナーにはまって大金をつぎ込んだが主催者に逃げられる。ジャールーも学校にとけ込めず、退学寸前になってしまう。

最初はテレサのことが嫌で嫌でしょうがなかったジャールーが、次第にテレサに打ち解けていくに従って、母親がテレサに嫉妬するところは非常にリアルだ。テレサの飾らないまっすぐな人柄こそが、子供にとっては必要だったことがしみじみ伝わってくる。

特に心を打つのはラストシーンのジャールーとテレサの別離である。父親のリストラでメイドを雇うお金がなくなった一家はやむなくテレサを解雇する。テレサを空港に送ったとき、ジャールーは車から出ようとしない。なぜ車から出ないのか。私には、いまひとつ、よく分からなかった。

来日したアンソニー・チェン監督に直接聞いてみると、「子供の反応はときどき大人の期待を裏切ります。誰もが思うように行動してくれるわけではない。そんな意外性をこのシーンには込めました」という答えが返ってきた。なるほど、と思った。この監督はそういう身近なリアリズムを好むのである。

シンガポールの人々はたいてい自分たちは「清潔だけど狭い鳥かご」で暮らしている、と感じている。日本だったら、ドライブに行くとか、温泉に行くとか、いろいろと娯楽はあるのだが、東京都の23区ぐらいの広さしかないシンガポールでは、息抜きといったら、おいしい海鮮料理を食べることぐらいしかない。

しかし、シンガポールの安全で安定した清潔な暮らし、効率的な社会の仕組み、それらはどれも、アジアのどの国でも欲しくても実現できないものである。だから、シンガポール人は決して不幸ではない。しかし、幸福かと言われると、外国人の私が言うことではないかも知れないが、幸福のようには見えない。そんなシンガポール・ライフの微妙なあり方がこの映画にはしっかりとにじんでいる。

この映画が世界各地で高い評価を受けているのは、そこに世界共通の現代人の孤独が描かれているからだろう。家庭は温かみを失い、職場では思うように自分を生かせず、学校でも友人ができず、誰にも本当の友人が一人もいない。孤独を背負っているので、変な宗教やセミナーにはまるし、怪しい投資話にだまされてしまうのである。

アンソニー・チェン監督が自らの体験を生かして本作を撮った。自分もHDB暮らしで97年のアジア経済危機では父親が失業し、家にいたメイドが帰国してしまった。だからこそ本物のシンガポール・ライフにここまで深く触れることができたのだろう。

華人地域のなかで、シンガポールは文化不毛の地と言われてきた。確かに映画や文学はそれほど活発に発信されていない。だからこそ、この作品はシンガポール映画の存在感を世界に示し、シンガポールが世界に普遍的に共有される問題を抱えているということを示した。その意味で若き才能、アンソニー・チェンの果たした役割は大きい。

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