剣と盾

画像の説明 鎧兜(よろいかぶと)武者は、実に凛々しく立派です。

けれど、中世の世界の軍装と比較すると、ひとつ大きな違いがあります。それは「盾を持っていない」ということです。

世界中どこでも、剣や短槍を用いた戦いには、盾を用います。
けれど日本には「盾」という慣習がありません。
なぜでしょうか。

古来、日本の武術では、相手の打ち込みを「受ける」のではなく、「交わす」技術が大切にされてきました。ですから相手の打撃を盾で受けるのではなくて、それを躱(かわ)して斬る。
そういう戦い方が研究され、用いられてきました。ですから日本の武者は、盾を持ちません。

西洋でも東洋でも、世界中どこでもそうなのですが、彼らの戦い方は違います。相手の打ち込みを盾で受け、相手を斬ったり刺したりします。

なぜこのような違いが生れたのでしょうか。このことは、実は、単に戦い方の違いという以上に、日本と世界の大きな文化の違いがもとになっています。

西洋や東洋では、戦いはウシハク王様が、互いの利権をめぐって戦いました。戦いに際しては、部下(貴族)を動員するのですが、戦いに赴く貴族たちは、王様に後継ぎの長男を預けています。貴族たちが戦地で裏切らないように人質をとっているわけです。

その預けられた長男坊たちに与えられた名前が「近衛兵」です。派手な格好をしていて、いっけんするとカッコイイ近衛兵ですが、その実態は人質です。

戦いに赴く貴族たちは、当然のことながら兵を連れて行きます。この兵たちは、西洋では基本、傭兵です。つまり「お金で雇われる戦争を専門にする人たち」です。

彼らはお金で雇われているだけですから、お金次第でどちらにも転ぶし、勝っている戦いなら恩賞にありつけますからぐんぐん進んでくれるけれど、ちょっとでも負け戦になれば、すぐに逃げ出します。傭兵稼業は命あってのものだからです。

また貴族も、下級貴族あるいは、国境付近の貴族(少領主)ともなれば、王への帰属意識は薄く、勝ち馬に乗らなければ生き残っていけませんから、これまたどっちつかずです。ですから、勝てる方に付く。王も貴族も傭兵も、誰もが自分のために戦っているのです。あたりまえのことです。

ウシハク統治

支那やロシアの場合は、西洋と似ていますけれど、下級貴族や一般の兵の様子がだいぶ違います。一般の兵は、民衆から強制連行されて兵にさせられている人たちだからです。兵は傭兵ではなく、村人の中から年頃の若者が強制的に挑発されて、無理やり兵にさせられています。いうことを聞かなければ殺される。それだけの関係です。

モンゴルの元王朝の時代だけはすこし違っていました。
勝てば末端の兵まで莫大な恩賞にありつけたのです。「末端まで」です。その違いが、彼らをして世界大帝国を形成させるに至りました。

ちなみにそれだけ強大だったモンゴルの大帝国が短期間で崩壊したのは、相続制度の問題からです。ジンギスカンの死後20年経ったとき、ジンギスカンの直系の子孫は2万人いたそうです。そして相続は、均等配分方式です。これではどんな大帝国も、バラバラになります。

インドに昔、ムガール帝国という大国がありましたが、あの「ムガール」というのは、インドの言葉で「モンゴル」のことです。「ムガル」は「モンゴル」の現地読みです。

西洋でも東洋でも、戦いには盾を用いました。
戦いは兵たちがするものであり、上に立つ王も貴族も、命令をするだけです。戦闘は、奴隷兵や傭兵の仕事であり、武器は上から支給されますが、しょせんは傭兵、奴隷兵です。高価で優秀な武器など支給されません。

武器は粗製乱造品で、刀も剣のカタチはしていますが、カタチがそういうカタチをしているだけで、切れる刀ではありません。敵は刀の打ち込みを盾でガーンと受けますから、カミソリのような鋭い刃物を作っても意味がありません。カタチは剣でも、その実態は重たくて丈夫な鉄の棒であり、剣先だけが尖っていて、刺すことができる。そういう仕様です。

ですからカタチは剣でも、相手を斬ることはできず、むしろ叩いて骨を砕き、戦闘力を奪い、刺して殺すというのが、ユーラシア大陸の戦い方でした。戦いが終わると、戦場には負けた側の死体が並びますが、打たれたり刺されたりしても、即死することは少なく、失血死するまでに、6〜8時間かかったそうです。

その間、刺されたり骨折したりした兵は、痛みをこらえて野原に放置されるわけです。残酷なものです。

これに対し、日本の戦いは、民を守るために、戦いを本業とする武士たちが戦いました。その武士は、ひとりひとりが新田の開墾百姓であり、少領主です。つまり日本では、領主が傭兵で戦ったのではなくて、「領主たち」が力を合わせて戦ったのです。こういうところは、西洋的史観や東洋的史観では、まったく説明がつかなくなります。

日本の武士たちは、民間人を使役して兵にすることができないのです。なぜなら武家の棟梁の立場は、わが国最高の権威である天皇から、天皇の「おおみたから」である民を預かっている立場なのです。民のために戦っているのに、民を兵として使役することはできません。

もっとわかりやすくいえば、「民たちのガードマン」というのが武者たちの立場です。だから戦(いくさ)は、カードマンたちが行ったし、民は、むしろ弁当持参でゴザを敷き、お花見さながらに、いっぱい飲みながら、いくさ見物をしていました。
さもありなんです。

戦場になるところは、周辺の田畑の作物は、事前に全部武士が買ってくれ、しかも土地を荒らすこと、いくさの後片付けにと、通常の価格の倍額以上で作物を買ってくれたのです。

たとえば川中島で戦があれば、信玄と謙信の両方の使者が事前に川中島で打ち合わせをして、戦場予定地の農家をまわって、作物の買い付けを行い、とにかく土地のお百姓さんたちに迷惑がかからないようにしたのです。

そのうえで、両軍は対決します。
だから両軍が激突するとき、土地のお百姓さんたちはお金はたっぷりあったし、他にすることもないから、家族総出でいくさ見物をしたわけです。

シラス統治

ちなみに、こうした事前の「買取」を世間の相場を越えて盛大にやったのが秀吉で、だから秀吉はお百姓さんたち、つまり国民から絶大な人気をはくしました。

ただし、秀吉の場合は、あとから蜂須賀小六たちの子分たちがやってきて、地元でこれまた盛大にドバ(賭博場)を開き、ばら撒いたお金をしっかりと回収していました。

ドバに出入りするしないは、お金をもらったお百姓さんたちの勝手ですが、まあ、秀吉はうまくやったものです。

また、人の世の中ですから、争いはあります。田んぼに必要な河川の利水権、田畑の境界争い、あるいは大規模土木工事などにおける意見の食い違い、あるいは天下から戦をなくすためなど、さまざまな理由から、戦(いくさ)が起こります。

このときに日本の領主たち(武者たち)は、民から徴兵はしません。日頃、民からお米をいただいて警備をしているわけです。そういう争いの際に戦うのは、やはり専業武者の役割です。

武者たちは専業であり、日頃から武芸を磨き、鍛錬を重ねている人たちです。持っている武器も、ほとんど工芸品といって良いほど、完成度の高い刀剣であり、弓矢です。そしてその武器の数々は、多くの場合、先祖伝来の破格の高級品です。

たとえ戦の最中であっても、折れたり曲げたり欠けたりしたら、ご先祖様に申し訳ありません。自分の命は自分一人が絶えれば済みますが、先祖伝来の刀剣や槍や弓矢は、子々孫々に伝えていくべき値打ちものです。

戦いにおいて、敵を斬る場合でも、相手の剣と打ち合いは基本、しません。剣と剣が当たらないように、身を躱(かわ)して斬ります。けれども、カワしそこねて斬られてしまっては元も子もないわけです。

そこで、相手の太刀筋を「察して」読んで、相手の太刀筋を流して斬る、という技法が生まれました。戦後の剣道では、竹刀で相手とバシバシ打ち合ったりしますが、真剣では、なかなかそうもいかないわけです。斬られてからでは、反撃できません。

ですから戦前、戦中までの剣道の稽古では、竹刀も用いましたが、同じように木刀も用いました。防具なしで木刀で打ち合うのです。これは当たれば大怪我では済みません。ですから当たらないように、相手の動きを読む。その稽古が、まさに木刀での稽古だったのです。

木刀でも切っ先のスピードは早いです。プロボクサーのパンチのスピードをはるかに凌駕します。その早い切っ先の動きを、かわすのです。そのためには、相手の目の動きや筋肉の動き、あるいは流派ごとの刀の扱い方の違いなどを学び、さらにそれらを一瞬で見極めて、事前に相手の動きを「察して」読んで、毛筋一本でかわす、という訓練が行われました。

戦前、日本海軍の水兵さんが世界中を航海してまわったとき、港町では世界中どこに行っても、毛むくじゃらの白人の大男の船乗りたちが、大酒を飲んで大きな顔をしてくだをまいていたのだそうです。

日本人は小柄ですから、向こうさんは日本人から注意されても、屁とも思わない。黄色い小さな猿が何を言っているか、てなものです。それでパンチを浴びせてくる。ところが当時の日本の水兵さんたちというのは、全員が剣術を学んでいます。
木刀の切っ先のスピードからしたら、いくら速いパンチでも、ほとんど止まっているようなものです。ですから、漬物石のような大きなゲンコツのパンチが、まったく当たらない。
それでつかみかかろうとすると、柔道の投技で、デーンと投げ飛ばされる。

日本人の水兵さんたちの強さは、世界中の港町で評判だったのだそうです。ですから日本の練習艦が港にはいってきた、というだけで、世界中の港町の治安が、日本艦の停泊中はいっぺんに良くなったとか。これ、本当の話です。

もっと言いますと、こうした武道が日本で発展した大きな理由のひとつが、実は聖徳太子の十七条憲法の「明察功過」にあります。「功過を明らかに察しよ」と読みます。
功(良いこと)も、過(あやまち)も、ことが起きる前に、事前に「察して」賞罰をしなさい、ということです。

剣術の「察する」も、なんと1400年前の十七条憲法の時代に説かれた「察する」という文化からきているのです。

相手が剣を打ち込んできたから、盾でガーンと受けるのではない。打ち込んでくるのを先に読んで、察して、身をかわす。それが日本です。

軍装における盾にせよ、戦場予定地の作物の買い占めと後片付けの依頼にせよ、それらは、すべて「あらかじめ先を読む」、つまり「察する」文化と、「食える」ことを再優先した日本の文化がその根底となっています。

「食えること」「察すること」この2つは、古い言葉で言えば「天壌無窮」と「明察功過」です。だからこそ、日本は2600年続く世界最古の国なのです。
誕生して100年200年の新興国とは、歴史の重みが違うのです。

国防も同じです。
小笠原諸島や尖閣に、どっかの国の漁船が来てから対策をするのではない。そういうこと自体が起こらないようにすることこそ、日本人の誰もが求めている政治の姿です。それを実現しようとしている政党を、私は次世代のために応援していきたいと思います。

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