烏水頭ダムを造った八田與一

画像の説明 11月9日、台北から新幹線に乗って南へ向かいました。

降りた駅は「嘉義」、台北よりかなり日ざしがきつくて暑い!私たちはバスで烏山頭ダムへ向かいました。この巨大なダムが完成したのは昭和5年(1930年)で、当時「東洋一」と讃えられました。約10年の歳月をかけてこのダムを設計し、完成させたのはなんと! 日本人の技師、八田與一です。今でも台湾では知らない人はいない、といわれる有名な人で、地元では神様のように尊敬されています。

台湾南部には嘉南平野という広大な平野が広がっています。嘉南=嘉義と台南の間、という意味で南北90キロ、東西30キロというとてつもない広さです。ここは今でこそ台湾最大の農業地帯ですが、実は長く「石ころだらけの不毛の地」でした。台湾というと緑が豊かでフルーツの宝庫、というイメージではないでしょうか? 

しかしわが国が日清戦争に勝って清から台湾を割譲された1985年当時はそうではありませんでした。台湾の降雨量は多いですが夏に偏っていて、冬場はほとんど降りません。嘉南平野には台湾最長の河である濁水渓をはじめとして何本も河がありますが流水量の偏りがあるので灌漑に使うことはできませんでした。沿岸部には塩害という問題もあり、農法も原始的なもので生産量は上がりませんでした。

一緒に旅をした「李登輝友の会」の台湾人スタッフの李久惟さんがバスの中で話してくれました。「祖父から水のありがたさ、水がないことの辛さを教えられたものです。ご飯を食べる前に祖父が何かぶつぶつ、いつも言っていたんです。小さい頃は何を言っているか分からなかったのですが、僕が日本語を覚えてようやく意味が分かったんです。祖父は日本語で言っていたんです。天地(あめつち)の恵みに感謝し、この食べ物を作ってくれた人たちに感謝して、いただきますって言っていたんです」。李久惟さんのお祖父さんが小さい頃、親は農作業で忙しいので水汲みに行くのは子供の仕事だったそうです。子供たちは2~3時間かけて、水を汲みに山を越えて行かなければならなかったそうです。

八田與一は明治43年(1910年)、東京帝国大学工学部土木科を卒業し、台湾へ渡りました。台湾総督府の内務局土木課の技手(技術者)として各地の上下水道施設の工事、発電所や交通施設、灌漑用設備の工事などに携わりました。

そして大正7年(1918年)から嘉南平野の調査を始めました。八田與一は濁水渓から水を引くことを思いつきました。嘉南平野の耕作可能な土地は15万ヘクタールあるので、そのうち5万ヘクタールは濁水渓からの水で灌漑し、残りについては官田渓の上流にある烏山頭にダムを設け、ダムからの水で潤そう、という壮大な計画を立てました。

関東大震災によって途中、工事の予算が減らされたりもしましたが昭和5年3月、難工事の末、ついにダムは完成しました。3月に完成したダムに水が満ちるまで2カ月もかかった、ということからも、いかに巨大なダムだったか、が分かります。嘉南平野に網の目のように張り巡らされた灌漑用水路の総延長はなんと! 1万キロだそうです。さらに塩害の起きていた地域には塩分を洗い流すための排水路も6千キロ、設けられました。すべての水路に水が伝わるまでには3日、かかったそうです。

烏水頭ダムと灌漑用水路は竣工から80年以上経った今でも、変わらず嘉南の大地を潤し続けています。このこともまた、驚嘆すべきことだと思います

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