みんなの支えあいがカタチになったのが政治

画像の説明 11月12日は、大正15年に日露戦争のときの日本海海戦で旗艦として東郷平八郎聯合艦隊司令長官が座乗し、大活躍した戦艦三笠が永久保存と決まり、その保存記念式典が盛大に行われた日です。

戦艦三笠は、いまでも、「世界三大記念艦」のひとつに数えられる名艦です。「世界三大記念艦」とは、

英国【ビクトリー号】
ナポレオン戦争における最大の海戦であるトラファルガー海戦で、英国を勝利に導いた戦艦で、この戦いで指揮官のネルソン提督が艦上で戦死。英国海岸のポーツマス軍港内に保存。

米国【コンスティテューション号】
フランス革命、ナポレオン戦争、独立戦争で活躍した戦艦。ボストン造船所に保存

そして日本の【戦艦三笠】です。

世界三大何々とは、いろいろな場面で人々の言の葉にのぼるものですが、およそどの国においても、軍や戦争というのは、国の歴史において人々の生死のかかったたいへんな事態であるだけに、有名な戦いや陸海空で活躍した戦車や飛行機などには多くの人びとが大きな興味を持っています。

なかでも戦艦は、その巨大なバトルシップ同士の戦いであることから、世界の三大高山は知らなくても、世界の三大戦艦は、むしろ知っている人の方が多い。
そしてそのなかのひとつが、日本の戦艦三笠です。

その戦艦三笠は、戦艦としてはかなり小ぶりで、三大戦艦の中でも、もっとも小さな艦です。
ところがその小柄な三笠が、なんと軍功という意味においては、三大戦艦の中では、まさに群を抜いています。
まるで日本人そのものの象徴みたいです。

三笠は、明治38(1908)年5月27日の日本海海戦で、当時世界最強とうたわれたロシアのバルチック艦隊(なんと38隻です)のほとんどを撃破して、文字通り空前の大勝利を飾っただけでなく、この一戦の勝利をもってロシアの太平洋への進出の野望を打ち砕き、さらに黄色人種が白人を打ち負かしたという事実をもって、私有財産さえ持てず、欧米列強に欲しいままに略奪され続けた世界の被植民地国家の人々に夢を与え、彼らの国を独立にまで導いています。

単に戦いに勝利したというだけでなく、世界中の人々の心を揺り動かしたという意味においても、まさにベスト1の戦艦といえる船なのです。

その三笠が建造されたのは、日清戦争のあとのことです。
当時日本は、ロシアの南下政策に対抗するため、海軍力の拡張を迫られていました。
このとき計画されたのが「六六艦隊計画」で、これは戦艦を6隻、装甲巡洋艦を6隻配備するという計画です。

三笠はこの計画に沿って建造することになったのですが、当時の明治政府はまだまだ東亜の貧乏国です。政府にカネがない。
そんななかで建造企画を通した当時の海軍省は、実にたいしたものだと思いますが、やっとの思いで通した予算も、実は全然不足だったのです。

そこで当時の海軍省は、艦の建造のためにと、大規模なリストラを行ったり、軽装備の購入をあきらめたりと、必死で歳費のやりくちをするのですが、それだけの努力にも関わらず途中で予算が尽きてしまったのです。

当時にあって、それはたいへんなことでした。
というのは、大日本帝国憲法は、歳費をオーバーすると、それだけで「歳費の不正流用」として咎(とが)を受けることにされていたからです。厳しかったのです。

ちなみに戦後の日本国憲法では、年間予算は必ず途中で補正され、追加されるようになっています。

追加垂れ流しを前提とした予算制度の憲法と、オーバーしたら処罰という憲法と、果たして国家としてどちらが「襟を正した」憲法といえるのでしょうか。

さて、予算がなくなってしまって困り切ってしまったのが、当時海軍大将だった山本権兵衛です。
権兵衛さんは、西郷従道に相談をもちかけました。
「西郷さぁ、どうすりゃよかろうか?」
「山本さぁ、それは是非とも(軍艦を)買わねばなりもさん。予算ば流用するしかなかです。勿論違憲です。議会で違憲を追及されたら、二重橋で腹を切りましょう。ふたりが死んでも軍艦が出来れば本望じゃなかですか」

二人は命がけで次年度に追加の予算を獲得して、ようやく三笠は、英国のヴィッカース社へ発注されました。

明治32(1899)年 1月24日 起工。
明治33(1900)年11月 8日 進水。

そして三笠は、明治35(1902)年1月15日に公開試験が行われ、3月1日に、サウサンプトンで日本海軍への引渡しが行われました。3月13日、英国プリマス港を出た三笠は、スエズ運河を経由して、5月18日に横須賀に到着します。
そして点検整備を受けた三笠は、7月17日に本籍港である舞鶴に到着。総員の訓練を経て、翌明治36年12月28日、三笠は連合艦隊旗艦に任命されたのです。

明治37(1904)年、日露戦争に加わった三笠は、8月10日には、ロシア帝国太平洋艦隊と黄海で海戦を行い、翌明治38(1905)年5月27~28日の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破り、大勝利しました。

こういうことを書きますと、いわゆる左巻きの方々は抵抗感を持つようですが、日本海海戦については、なんとあの毛沢東も「日本の誇るべき大海戦」として絶賛しています。
その後、いろいろなことがあって三笠は現役を引退し、大正14(1925)年1月に、記念艦として横須賀港に保存されることが閣議決定されました。

ところがこのことが、大東亜戦争終戦のあとに、米英ソ支那が行った極東委員会で問題になったのです。
戦争末期になって、いきなり日ソ不可侵条約を一方的に破って参戦したソ連代表のテレビヤンコ中将が、「ロシアを負かした三笠を保存するとは何事か。スクラップにして直ちに海中に投棄せよ」と強硬に主張したのです。

これに対して米参謀部長ウイロビー少将は、ソ連の記念艦オーロラ号や、ヴィクトリー号、コンスティテューション号の例を出し、日本国民の記念物を破壊することは、日本人の反感を買うだけでなく、世界の海軍からも反感を買うことになると猛反対しました。
当時は米軍さえも、三笠を「世界の誇り」として認めていたのです。

テレビヤンコはいきりたちました。しかし、横須賀占領の実権は米海軍にあります。おかげで三笠は廃棄を免れました。

ところが、です。
教養のある将官クラスにとっては「海軍軍人としての誇り」は、大切に扱われますけれど、現場の末端レベルになりますと、そうもいかない。

横須賀に駐屯した心ない米兵たちは、艦内にあがりこむと、なんと艦内の目ぼしい記念品を泥棒してしまうのです。
三笠は、荒れ放題の様相となります。なにせドアノブから甲板の木材まで剥がされ、持ちだされたというから最低です。

ボロボロになった三笠の処置に困った米軍は、昭和23年1月9日、三笠を条件付きで横須賀市に引き渡しました。
艦橋やマスト、砲塔など主要装備を撤去したうえで、船以外に転用せよと命じたのです。

しかし主要装備を撤去するだけでも巨額の予算がかかります。まだ焼け野原だった横須賀市には、そんな歳費はありません。
困った横須賀市は、かねてから三笠の払下げを申請していた「湘南振興」という会社に艦をまるごと売却してしまいました。

この「湘南振興」が問題でした。
「湘南振興」は、さっそく三笠の装備を撤去すると、なんと艦内に米兵のための娯楽施設を設置してしまうのです。

東郷平八郎長官室は、「キャバレー・トーゴー」
加藤友三郎や秋山真之参謀等のいた参謀長室は、カフェになりました。そして艦上では、毎夜、米兵とパンパン(売春婦)たちとのダンスパーティが行われました。

さらに「湘南振興」は、昭和25年に朝鮮戦争が始まると、上部にあった鋼鉄製の構造物を全て撤去したうえで、取り外せる金属類のほとんどすべてをガス切断して、売却してしまいます。

当時、鉄は高値で売れたのです。
チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされました。

この惨状を見て、元日本海軍大佐だった中村虎猪氏が立ち上がりました。
なんとかしたいと願った中村氏は、昭和30(1955)年5月、三笠の復元を市民に訴えて市会議員に立候補し、当選します。
市議となった中村氏は、「湘南振興」からの三笠の買戻しを政府にも働きかけ、地元の日刊「南神新聞」にも記事を連載して、三笠を保存しようとする不眠不休の戦いを始めました。

けれど「湘南振興」は、逆に三笠の買戻し費用に高値をふっかけて、これに応じません。中村氏のはたらきかけに、政府も動こうとしませんでした。

ちょうどこの頃に、英国人のジョン・S・ルービン氏が来日しました。彼は、三笠がイギリスのバーロー・イン・ファーネス造船所で建造されていた時、現地で宝石商、時計商を営んでいた人です。当時、三笠の乗組員たちが、当時よくルービンの店を訪れました。

日本兵士たちの凛々しい姿に心を打たれた彼は、自分の住む町で三笠が造られたこと、そして三笠が日本海海戦に大勝利したことに、深い愛着と誇りを持っていました。

あれから56年。
来日したルービン氏は、三笠との再会に、胸をおどらせながら横須賀を訪れました。ところがそこで見た三笠は、朽ち果て、キャバレー、ダンスホールになっていたのです。

この惨状に、ルービン氏は、衝撃を受けました。
「誇り高きあの「MIKASA」が、ケバケバしいダンスホールになっている・・・」ルービン氏は怒りました。
そして帰国すると直ちにジャパン・タイムズ紙に寄稿したのです。


日本人はなんと忘恩の国民なのだ。
戦い敗れたら、とたんに英雄東郷も三笠も忘れてしまうのか。
日本人とはその程度の民なのか。
日本人は、神聖な三笠が丸裸となり、ダンス・ホールやアメリカ兵相手の映画館になったのを黙ってみているのか。
なんと日本人は無自覚か!


それはルービン氏の血を吐くような叫びでした。
原稿は同年9月20日の紙上に載りました。
そして、たちまちのうちに英米豪から大反響が起こりました。
そして異口同音に、

「ミカサの復活こそ、日本国民の精神復興の試金石だ」
「日本国民の道義心を復活させよ」と言い出しました。

翌、昭和31年、元情報局総裁であった下村海南氏(当時82歳)が、自分の眼でみた三笠の荒廃ぶりを、「軍艦三笠」という小冊子に書き上げました。
そしてそれを各方面に配布してくれました。
この影響を受けて、軍事評論家の伊藤正徳氏が「戦艦三笠の栄光と悲惨」という論文を翌昭和32年の文藝春秋八月号に寄稿してくれました。この論文はその年の読者賞を獲得しています。

そして翌昭和33年、「文藝春秋二月号」の随筆欄に、「三笠と私」と題する米・大平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥の文章が載りました。


管理人の話では、真鍮や銅の付属品は戦争中に軍需資材として、全部取り除かれたとのことだった。そのほかに歴史的価値ある部分がどさくさに持ち去られた跡もみられた。

東郷元帥を尊敬するものの一人として、昔から有名なこの軍艦が、これ以上荒らさるべきでないと思い、私は米海兵隊に命じて歩哨を立て、三笠を破損したり、歴史的な物品を持ち去ることを防ぐことにした。

この有名な軍艦がダンスホールに使用されたとは嘆かわしい。
どういう処置をとれと差出がましいことはいえないが、日本国民と政府が全世界の海軍々人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、適切な方法を講ずることを希望する。
この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい。
(文藝春秋 昭和33年2月号)


ニミッツ提督は、終戦後の9月2日、米国全権の一人としてミズーリ艦上で、日本降伏受託書に署名した人物です。
その彼は日露戦争直後東郷平八郎提督と会い、東郷元帥を人生の師匠と仰いでいました。戦時中も戦後も、ニミッツ提督は「もっとも尊敬する海軍軍人は誰かと聞かれる」と、堂々と「東郷元帥」と即答していたといいます。

そして彼は、東郷元帥に心酔し、その東郷戦法によって日本帝国海軍を全滅させたのです。
ニミッツ元帥は、米海軍に命じて、横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲渡するとともに、その廃艦をスクラップにして3000万円の費用をつくり、三笠の復元費用としてこれを寄付してくれました。

こうした事態を受けた日本は、ようやく昭和33年11月、三笠保存会設立準備委員会を設立。
かくして昭和36年5月、三笠はかつての雄姿を取り戻し、いまに残る横須賀の「記念艦三笠」になったのです。

昭和62年5月24日、横須賀市は市制80年を記念式典を、三笠艦内の講堂で行いました。
式典ではアルゼンチン大使、トルコ大使、イギリス大使、駐日米海軍司令官から祝辞が届きました。
そして世界中から届いたすべての祝辞が、戦艦三笠の栄光を讃え、日露戦勝の歴史的意義を強調する内容でした。

この日、横山和夫横須賀市長は祝辞の中で、「今こそ日本はZ旗を掲げるべき時がきました」と述べました。

Z旗は、一般には大きな船の出港の合図の旗です。
しかし三笠のZ旗には、特別な意味があります。
日本海海戦のとき、東郷平八郎長官は、いよいよバルチック艦隊と決戦というとき、旗艦三笠にZ旗を掲揚しました。

このとき、連合艦隊信号簿には、旗艦に掲げられたZ旗に、
「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」の文言が割り当てられていたのです。

三笠に掲げられたZ旗は、全艦隊の士気をいっきに高揚させました。そしてまる二日間、休むまもなく戦い続け、ついに日本は日本海海戦に勝利したのです。
以来、日本海軍では重要な艦隊戦には、必ずZ旗が掲揚されました。

三笠にひるがえるZ旗

世界三大記念艦として全世界から賞讃されるかつての日本海軍旗艦“三笠”は、いま記念艦三笠として、横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されています。
その三笠は、かつて心ない人々の手によって、ボロボロにされました。誇りある旗艦三笠は、ダンスホールやカフェにまで貶められ、辱められていました。あらゆる鉄製品も、解体され、持ちだされました。(ちなみに朝鮮戦争当時、日本はGHQの占領下にあり、一般の日本人は旧日本軍の施設内に立入禁止でした。)

しかし、三笠は復活しました。
「誇り」を大切にする世界中の人々と、多くの日本人の努力によって、その雄姿を取り戻したのです。

昭和天皇は終戦の詔勅で、次のように国民に語りかけてくださいました。


天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、朕のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。


戦後の焼け野原からの復興、食べ物さえもままならなかった状態からの脱却、そして世は飽食の時代となり、左傾化し志と道義を失った日本人は、いまだ景気さえも低迷したままでいます。
そんな状態がもう、26年も続いています。

平成にはいってからの日本は、ずっと「景気回復、経済優先」と言われ続けてきました。けれど一向に景気も経済も良くなりません。なるはずありません。

日本人としての自覚や誇りを失い、隣国や国内にいる在日の便宜ばかりを図り、本来いちばん肝心な、しかももっとも大多数である「もとから日本に住む日本人」を安く使って、そこからカネを巻き上げることばかりやってきたのです。
それで大多数の日本人の生活が良くなるなんて絵空事です。

現実に、圧倒的大多数の日本人や日本人の若者たちが、いま、20代で結婚して、子をもうけても、旦那の会社勤めの稼ぎだけで一家の家計は支えられなくなっています。
旦那の稼ぎで家計がささえられないなら、日本全体の政府の経済がささえられないのは当然のことです。

いまの若い人たちは、就職しても、妻子があれば、会社の給料だけではやっていけない。
結果、会社勤めをしながら深夜バイトをし、1歳にも満たない子供を保育園に預けて女房まで働きに出ている。

それでいて国会では、左巻きの議員から、女性の就業機会を増やそうなんて、見当違いの議論が出ている始末です。

考えてみてください。
ほんの一昔前までは、男は30代くらいになれば、女房子供の家計を支えるだけでなく、両親の面倒までみていたのです。
それがあたりまえだったし、それが可能だったのです。
いまはいったいどうでしょうか。

誇りよりも経済が優先といいながら、三笠の例を考えてみてください。
利得をしていたのは、誇りなんてハナから持たずに三笠を手に入れたヤクザな会社さんだけです。
その会社以外、誰も「誇りを捨てた恩恵」になど預かっていません。
それどころか、日本人は、世界が誇る戦艦をキャバレーにしたと、世界中から顰蹙まで買ってしまっていたのです。

普通に考えて、たとえば横須賀が海軍の街として栄え、また日本人の誰もが歴史を知り、三笠を誇りに思っていたならば、横須賀は軍人さんたちだけではなく、日本中、いや世界中から観光客が集まり、街は活気付き、交通の利便も図られるようになり、特に海軍というのは、技術部隊ですから、そこには最先端の工場や技術集団が集まるようになり、おそらくは正道に還れば、横須賀の市民、みんなが潤うことになります。
逆に、キャバレー三笠なら、潤うのはキャバレーの経営者だけです。

政治が、国民が選択すべきは、いったいどちらなのでしょうか。

日本は「シラス」国、君民一体の国です。
みんなでみんなを支えあう。それが日本です。
日本経済が強いのは、そもそもなぜでしょう。内需が強いからなのではありませんか?
もし日本が輸出頼みの国ならば、円高誘導された時点で、日本はとっくに破産しています。

一昔前までは、1ドル360円だったのです。それが一時期は80円にまで上がったのです。
これは日本産の1台10万円のパソコンが、同じ性能のまま45万円になるようなものです。
最近、ちょっとウォンが高くなった(正常価格になった)だけで、貿易収支が大赤字になって破産寸前になっているどこかの国があるけれど、日本はそんなもんじゃない。4・5倍に跳ね上がったのです。

それでも日本は生き残った。
何故か。為替の影響のない内需があるからです。
そしていまや日本のGDPに貿易が占める割合は、ほんの数%です。

けれど隣近所の商店街という目でみたらどうでしょう。
どこぞの宗教団体の影響や、信仰の自由の名のもとに、神社をスポイルし、結果、町内関係が希薄化し、町内の互助精神が失われて商店街はシャッター通りとなり、日常の買い物は郊外にある県外からやってきた大型流通に奪われています。

これは、実はいってみれば、町内経済が、町内内需を失い、県外からやってきた大型流通という外需頼みの経済になったことをあらわします。
その結果、儲かるのは県外流通だけ、近隣の商店街は壊滅してシャッター通りになっている。そんな姿を、わたしたちは身近に見ているではありませんか。

実は日本国経済も、極論すれば、その構造と同じなのです。
そしていま奪われつつあるのが、内需であり、国内生産力です。

かつての高度成長期、「なにかひとつは贅沢を」と言っていた日本人は、景気低迷が続く中、100均の時代を迎えるようになって久しいです。

もちろん、100均の会社が大繁盛したことは、その会社にとっては良いことであったろうと思います。
けれど、みんなが安かろう悪かろうで小モノの買い物を支那産品の100均で済ませるようになれば、近隣の小物造りの会社は壊滅します。
地域の文具店も小間物屋も洋品店も駄菓子屋もおもちゃ屋さんも、壊滅です。

そして気がつけば、ただ安かろうだけではなくて、「悪かろう」どころか度を越した粗悪品や毒物混入品が普通の「モノ」として家庭で使われているようになっています。
儲かるのは、その会社さんと支那の小物工場だけです。

要するに、郷土や地域を大切にし、モノを大切にし、国を大切にする、日本人であることに誇りを持つ、日本を大切に思う。そういう気持ちが失われることは、ほんの一部の人や会社、あるいは他国を富ませることがあったとしても、日本国全体としては、戦後日本がいちばん大切にしてきた経済さえも、失われるということを申し上げているのです。

高度成長は何故成し得たのでしょうか。
「祖国を復興したい」日本を愛する人達が、祖国のためにと頑張ったからこそ、日本は成長し得たのではなかったでしょうか。
逆に、戦後教育を受けた反日世代が世の中の中心となった平成以降、日本は出口の見えない不況に沈んだままです。

そして反日であることを隠そうともしない政党が政権をとったら、日本はいっきに沈み、誇りを取り戻そうという人物が総理になったら、日本国経済は、すくなくとも今の時点で、民主党の三代内閣のときよりは、経済に成長がみられるようになりました。

ですから本当は、経済も政治も文化心も、全部つながっているのです。
全部が一体なのです。

みんなの支えあいがカタチになったものが、政治。
みんなの支えあいで動くのが経済。
みんなの支え合いの根本にあるのが文化。

どれかひとつが欠けても、全部がおかしくなるのです。
そのことを、わたしたち日本人は、もういちど考えなおすときにきていると思います。

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