ベルギーとの信頼と公正の歴史

画像の説明 ベルギーと聞くと、チョコレートを思い浮かべる方も多いかと思いますが、この国は英国海峡に面し、フランスとドイツオランダ、ルクセンブルグと国境を接する人口約一千万人の王国です。

童話の「青い鳥」の原作者のメーテルリンクは、ベルギーの出身だし、フランダースの犬でおなじみのフランダース地方は、まさにベルギーのアントワープ地方とその近郊です。
また、自転車好きな方ならおなじみのロードレースも、ベルギーが発祥の地、オートバイのモトクロス競技も同じくベルギーが発祥です。

実は、そのベルギー王国は、たいへんな親日国としても知られています。

日本とベルギーの国交は、慶応2(1866)年の日本国白耳義(ベルギー)国修好通商及び航海条約の調印が始まりです。
なかでも明治26(1893)年に特命全権公使として来日し、16年間にわたって日本に駐在たアルベール・ダネタン男爵は、日本にとって忘れてはならない恩人でもあります。

例えば日清戦争で日本が旅順港を占領したとき、米国のワールド紙などが、日本が現地において「無辜の住民を6万人虐殺した」と報じたのでが、このときアルベール・ダネタン男爵は、事の真偽を確かめるべく調査に乗り出し、結局この報道は米国記者によって捏造された事件に他ならないことを突き止めています。
そして彼は、べルギー本国政府に対して、次の報告書を送ったのです。

アジア人の間の戦争においてはおそらく初めてだと思われるが、日本は傷病者に配慮し、赤十字は皇后陛下の後援のもとで完璧なまでに仕事を遂行し、ジュネーブ協定は遵守されている。

その場に居合わせたフランス武官・ラブリ子爵から直接聞いたところ、殺されたのは軍服を脱いだ兵士たちで、婦女子が殺されたというのは真実ではない。
ほとんどの住民は占領前に避難しており、町の残っていたのは兵士と工廠の職工だけだった。
日本兵は無残に扱われた戦友の死骸を見ながら、何とか敵を捕虜にするだけにとどめた。

当時、支那兵は、捕らえた相手国兵士を殺して、遺体をバラバラに切断して吊るして、これを食べてしまっていました。

要するに人種差別が絶対だった時代において、東洋人=蛮族というのがまさに世界の常識だった時代において、まさに支那は「蛮族の大陸」として世界に知られていたし、「だから日本も同じだ」という報道は「なるほど」と疑いをもたれるだけの強力なインパクトがあったわけです。

ところが米国人記者による捏造しかないこの報道は、各国の新聞に転載され、拡散されていったのです。
それを、ベルギーのダネタン男爵は、自らの足で現地調査を行い、事実がまるで逆であり、日本がきわめて公正な振る舞いをしていたことを見事に立証してみせてくれたのです。

男爵は、何も格別なことをしたわけではありません。
事実をありのままに事実として報告しただけのことです。
しかし結果としてダネタン男爵の報告が、当時の世界において、日本が支那人と違ってきわめて「公正」な民族であり国家であるということが、世界に向けて情報発信されたことになりました。

そしてこのことは、日本の名誉、ひいては日本人の名誉を激しく守ってくれた出来事として記憶されるようになったわけです。

さらにダネタン男爵は、日露戦争でもロシア兵捕虜が虐待されているという海外メディアの虚偽報道を是正する報告を流してくれています。
また夫人のエリアノーラ・メアリー・ダネタンは、日本滞在中の日常の見聞を、「ベルギー公使夫人の明治日記」という本に遺し、この本は当時の外交関係者の動向や社交界の様子を伝える貴重な資料となりました。

そのダネタン男爵夫妻が任務を終えて帰国したのが明治43(1910)年です。
その4年後の大正3(1914)年に、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発しました。

第一次世界大戦においてドイツは、フランスを攻めるためにベルギー領内をいっきに通過しようとしました。
この頃のベルギーは、永世中立国です。中立国ということは、戦いがあったときに、どちらにも組みしないということです。
ところが、そのベルギーが、ドイツ軍の進行を「ただ見過ごした」となると、それはベルギーがドイツに服したということになります。ベルギー人がどう思おうが、世界はそのように見るのです。

だから、ベルギーは敢然としてドイツに立ち向かいました。
自尊自立を守る、永世中立を守るというのは、そういうことなのです。

ただ「戦わない」、「見過ごす」ということとは、意味が違うのです。その気概と行動がないなら、永世中立など成立しえないのです。

ところが当時のドイツは、圧倒的な軍事強国です。ベルギー領内は次々と侵略され、ついにベルギー国王の国王アルべール一世は、フランスとの国境にあるフェルヌに近い寒村にまで追いつめられてしまいます。小さな村に踏み止まって、そこで最後の抵抗を続けていたのです。

日本は、勇敢に戦い続けるべルギー国民を激励しようと、支援に立ち上がりました。
当時の朝日新聞(朝日です)社長の村山龍平は、「中立を蹂躙せられ国歩艱難を極めつも、親しく陣中に在はして将卒と共に惨苦を嘗め給へる白耳義(ベルギー)皇帝アルバート陛下の勇武を欣仰する」と言って、愛蔵の日本刀一振りを口ンドン駐在の特派員杉村楚人冠を通じて献上(大正3年11月7日付大阪朝日新聞)しています。

他の新聞社も、これに右へ倣えしました。新聞各紙をはじめ雑誌その他の刊行物を通じて、苦衷に立つべルギーへの支援活動が日本国内で熱烈に展開したのです。
ベルギーが喜んだことはいうまでもありません。

大正8(1918)年、第一次世界大戦が終わった4年後の9月1日午前11時58分、関東地方をマグニチュード7.9の直下型地震が襲いました。関東大震災です。
この大震災の二ュースは世界各国に報道され、諸外国から援助の手が差し伸べられました。このとき群を抜く支援活動をしてくれたのが、べルギー王国でした。

9月3日の報道を受けたべルギー本国では、5日には「日本人救済べルギー国内委員会」が結成されました。
上智大学教授の磯見辰典氏によれば、当時、ベルギー国内で、音楽会、講演会、バザー、さらに「日本の日」が各地で催され、新聞はもとより、カトリック教会もこのキャンぺーンに積極的に参加し、なんと約264万2千フラン(日本円で約220億円)を集めて日本に贈ってくれたのです。

これは米英に次ぐ、多額の援助金でした。人口わずか1千万のベルギー(米国3億人、英国6千万人)を考えると、いかに大きな貢献をしてくれたかがわかります。

このときべルギー国内で配布された「元兵士へ」(1923年)と題する日本への支援を訴えた文書が、いまに残っています。
文書には、9年前の第一次世界大戦の際、ドイツ軍の侵略と戦うべルギー軍兵士に対して数々の援助を尽くしてくれた日本人への賛辞が述べられ、「べルギーの元兵士はこのときの恩義を今こそ日本に返そうではないか」と書かれています。

国際日本人養成講座の(たぶん伊能さんだと思うのですが)、このベルギーと日本の関係を書いたメルマガの冒頭に、次の文章があります。
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わが国の近代外交史に関する教科書記述の大半は、いわゆる「脱亜入欧」の方針のもと欧米列強と同様の帝国主義路線を邁進し、ついに第二次世界大戦によってその野望は破綻したと見る図式が基調をなしていると見てよかろう。そうした物差しを当て嵌めて近代史を見てしまうから、わが国が近代の当初に、列強とはひと味違う国々に国作りの手本を求めたり、また親密な交流の歴史を刻んでいた史実などは切り捨てられて顧みられないのである。

わが国はけっして大国志向だけの路線を突っ走ってきたわけではない。近代化のための様々な選択肢を模索しながら二十世紀を生き抜いてきたのである。
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まさにこの文にある通りで、最近の教科書や歴史学会では、あたかも戦前の日本が軍国主義への道をひた走りに走ったかの如く書かれているものが目立ちます。
大きな間違いです。

以前「奴隷制度と人種排除」の記事の記事の中で、安政4(1857)年の米最高裁が、「黒人ならびにその子孫は、所有者の財産であって、合衆国の市民ではない」という判決を出したことをご紹介しました。

このことは、たいへんに象徴的です。
要するに当時の世界の常識は、カラード(有色人種)は、人ではなく「動産」だったということであり、「動産」であるということは、人とのしての権利を持つ「人間」ではないとみなされていたということだからです。

日本人も「人間」ではなく、一般的には、蛮族であり、獣とみなされました。

けれど、そのとき日本がどうしたかというと、それに対して抗議の声をあげるとか、妙な宣伝活動をするとか、相手国の悪口を言うとかという行動はとっていません。
私達の先人達は、ただひたすらに日本にもとからある「公正」さを培い、それを黙々と実践しました。
世界の良心が、それを見て目覚め、自然と日本人を対等な「人間」であり「隣人」であり「友人」と認めてくれるように、ただひたすらに努力を重ねたのです。

日清戦争を観戦したフランスの国際法学者ポール・フォーシーユは、次の言葉を残しています。

日本は、単に自国に法制度を施行して文明国に列しようとしているだけではなく、国際法上においても、まさに文明国であり文明人であることを見事に証明した。

すなわち日清戦争において、清軍はあからさまに国際法を無視したけれど、日本軍は国際法をどこまでも尊重した。
日本の軍隊は、慈悲をもって捕虜を待遇し、敵の負傷者を見つけては救護を拒まなかった。
日本は未だ1868年12月11日のセントピータスブルグ宣言(害敵手段を制限する取り決め)に加盟していないけれど、相手国兵士に無用の苦痛を与える兵器の使用を避けた。
また、あえて敵対しない住民の生命財産を保護する事にもすこぶる注意を払った。

日本は、未だどこの国もしなかった事をしてみせた。
その仁政を熱心に行う余り、ついには敵国の住民の租税を免じ、敵国民から対価を得ることなしに彼らを給養してしまった。兵士の間ですらも人命を重んじることに極めて厚く、人々を救済する策を惜しむことはなかった。
見るがいい!
日本軍の通過する所には、必ず衛生法を守らせる為の規則が布告されている事を!!

(原文)
日本は独り内部の法制に於いて世界最文明国の班列に達したるに非ず。国際法の範囲に於いても亦同然たり。経験は日本政府が能く其の採択する所の文明の原則を実行するに堪うるを表示せり。すなわち日本は清国に対する一八九四年の戦争に於いてこの事を証明したり。この戦役に於いて日本は敵の万国公法を無視せしに拘らず自ら之を尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の病傷者を見ては未だかつて救護を拒まざりき。日本は尚未だ一八六八年十二月十一日のセントピータスブルグ宣言に加盟せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。日本はいずれの他の国民も未だかつて為さざる所を為せり。其の仁愛主義を行うに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無代価にて之を給養するに至れり。兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。見るべし日本軍隊の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを。
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日本は軍国主義にひた走ったのではありません。
私達の先人は、「公正」と「人道」と「信義」によって、日本という国をむしろ世界の中の模範とさえなるよう、必死の自制と努力をすることで、世界の良心が、むしろ積極的に日本を認めざるをえないよう、努力を重ねてきたのです。

そしてその結果として、戦うべきときには戦わざるを得なかったし(それをしなければ、ただの無能な馬鹿とみなされた)、そのための軍備を整えたのです。歴史解釈が逆なのです。

「笑いの石垣」という有名な小話があります。
概略、次のようなお話です。
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熊野には、石垣が沢山ありました。
あるとき八幡社の裏手に、石垣を積もうという話になりました。
高さ10メートル、幅30メートルの2段積みといいますから、たいそう立派な石垣です。
ところがその石垣の下に住む村人から、「危険だから止めてもらいたい」と言う抗議が出ました。
その時の石屋さんの証書です。
そこに書かれていたのは、
「万が一崩れた時は、お笑い下されたく候」でした。
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昔の人は、人に笑われるのを最大の恥とした、そのことで村人たちも納得したというのです。
それほどまでに、日本人は民度が高かった。

同様のことは、明治10(1877)年から明治13年まで日本に滞在し、東大で生物学を教えた米国の生物学者エドワード・S・モースも、日本での体験として次の言葉を残しています。
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「私が帰るまで金と時計をあずかってくれぬか」と亭主にたのんだら、亭主は快く承知した。
召使が一人「ふたの無い浅い塗り盆」を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品をいれるものだといった。
で、それ等を彼女が出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いたまま出て行った。
私はいうまでもないが、彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。ところが召使は帰ってこない。
私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと訊ねた。
彼女はここに置いてもいいのですと答えた。
私は主人を呼んだ。彼もまたここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も他の品物も、持っていないのといった。

未だかつて日本中のいかなる襖にも、錠も鍵もかんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験をあえてしてみようと決心した。
恐らく私の留守中に何回か客が入るであろうし、また家中の召使でも投宿客でも、楽々と入り得るこの部屋のふたの無い盆に、銀貨と紙幣とで八〇ドル、それに金時計とを入れたものを残して私は出発した。
私達は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰ってみると時計はいうに及ばず、小銭の一セントにいたるまで、私が残して行った時と全く同様にふたの無い盆に載っていた。

(中略)

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。
私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。
錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。
私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た。
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同様のことは、他の数多くの日本を訪れた外国人が記録として残しています。

つまり、もともと日本は、きわめて治安が良く、民度がたいへんに高かったのです。
だからこそ日本は、その高い民度のままに、「公正」と「人道」と「信義」を世界の中にあっても貫き通したのです。
そしてそのことによって、日本は、まさに世界に認められる国となり、ついに明治35(1902)年には、当時の世界の最強国である英国と対等な軍事同盟を締結するに至るのです。

白人国家の代表である世界最強の大英帝国と、東洋の有色人種国家である日本が「対等な同盟」をするというのは、これこそ世界史に残る大事件です。
なぜなら、「カラード=猿」とみなすことが世界の常識であった時代に、人間の代表が猿と同盟を結んだということだからです。
言い換えれば、それが実現できるほどまでに、日本は優れた人種国家であると世界が認めた、ということです。

また、この頃に英国の王室は、もともとは王室が政治の全権を握る国家だったのですけれど、日本がなぜ2700年も続いた国なのかを見習い、英国王室の下に大統領を起き、政治の一切の責任は大統領が負うという体制を築きました。これは日本の統治の技法を、まさに英国が採りいれたものです。

ベルギーは、もともとはハプスブルグ家の飛び地領土だったネーデルランドです。
レオポルド一世が立憲君主に即位することで、ベルギー王国となったのが、天保2(1831)年です。
つまり、日本と通商条約を締結した、わずか35年前に独立した国家です。

そしてそのベルギーは、道義と公正を目指す国家建設にあたり、日本を模範としました。
そして模倣したからこそ、ドイツ軍の領内通過を見過ごすことができなかったのです。
なぜなら、どこまでも公正であろうとすることは、ときに勇気をもって戦わなければならないことでもあるからです。
そしてその意味においても、まさに日本は世界の模範だったのです。

戦前の日本は、軍国主義、大国主義を目指したのではありません。
日本にもとからある「公正」と「人道」と「信義」の文化を護り、伝統と歴史ある日本を守るために誇りをもって努力を積み重ねてきたのです。

それが私たちの先輩たちが築こうとしてきた日本の近代史です。

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