「危機管理」国防

画像の説明 「防人」廃止、とたんに外国勢から襲撃される九州…

反応鈍い中央の「朝廷」、今にも通じる〝平和ボケ〟

防人制度の崩壊で生じた「力の空白」

天智2(663)年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた後、大陸から侵攻してくる外敵への抑止力として設けられた防人司(さきもりのつかさ)・防人が、平安時代に入ってまもない延暦14(795)年に廃止された。天長3(826)年には大宰府管内の兵士を廃し、選士・衛卒制に移行したため、律令制の防人制度は崩壊する。

すると、対馬、壱岐、九州各地の沿岸に新羅や高麗などの外国の海賊がたびたび出没し、襲撃や略奪を繰り返すようになった。歴史の表舞台にはあまり登場しないが、記録に残るだけでも数十回にのぼる。

防人制度が崩壊したことによって「力の空白」が生まれ、外国の海賊の跋扈(ばっこ)を許す結果となった日本は、平安時代最大の対外的危機に直面することになる。

突如として対馬を襲った正体不明の外敵

寛仁3(1019)年3月27日、正体不明の海賊船約50隻(3千人)が突如、対馬を襲撃した。海賊は上陸すると、島民36人を殺害し、346人を連れ去った。続いて壱岐も襲撃。国司の壱岐守・藤原理忠(まさただ)は、ただちに147人の兵士を率いて迎え撃つも、数に勝る海賊に追い込まれ、死亡。兵士も全員が玉砕の憂き目に合う。壱岐島では島民365人が殺害され、1289人が拉致される。

その後も筑前国怡土(いと)郡、志麻郡、早良(さわら)郡、那珂郡に上陸すると、4月7日、博多湾付近で大宰府長官(大宰権帥)・藤原隆家が率いる九州武士団と激突。一進一退の攻防の末、4月12日、隆家軍は辛うじて勝利した。このとき、海賊に拉致されていた対馬や壱岐の人々の一部を脱出させることに成功している。

隆家に従軍した武将の中には、「藤原純友の乱」で活躍した大蔵春実(はるざね)の孫・種材(たねき)や「平将門の乱」を鎮圧した平貞盛の孫・為賢もいた。

博多への上陸に失敗した海賊は、4月13日に肥前国松浦郡に上陸するも、後に水軍として有名になる松浦党の祖の源知(みなもとのさとす)に撃退されると、九州北部への侵攻をあきらめ、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退する。

これら一連の海賊による対馬、壱岐、九州北部への襲撃を「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」という。襲撃の様子は歴史書「大鏡」や、この2年後に右大臣となる藤原実資の日記「小右記」でも知ることができる。

このときの海賊は、当初は高麗の海賊と思われていた。だが、その後の調査で、中国東北部(沿海州地方)に住んでいたツングース系の女真族であることが判明。彼らは12世紀には金、17世紀には満洲族として清を建国した民族である。

武士にしぶしぶ恩賞、他人事の貴族たち

朝廷に「刀伊の入寇」の第一報が届いたのは、隆家らが海賊を撃退し、事態が落着した4月17日であった。当初、朝廷内では、隆家をはじめとする九州武士団へ恩賞を与えることに消極的な態度を取る貴族が多数を占めていた。これに対し、隆家を信頼する実資は「このまま恩賞を出さなければ、今後、命をかけて国(日本)のために戦う者がいなくなる」と進言。その結果、朝廷はしぶしぶ恩賞を出すことを決める。

貴族たちにとって「刀伊の入寇」は、京の都から遠く離れた九州の地での出来事であり、危機の切迫感がなかったに違いない。そのため、朝廷は新たな脅威に対する国土防衛の態勢を整備しようとはしなかった。この頃の朝廷は、一種の「平和ボケ」状態だったのである。

この恩賞をめぐる朝廷内での貴族同士のやり取りや、国土の防衛に対する態度は、現在の政治の場でも見られる光景だ。

例えば、平成22年9月7日に沖縄・尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事件をめぐる民主党政権の対応などは、「刀伊の入寇」に対する朝廷の対応と何ら変わらないものだ。また「刀伊の入寇」では、多くの日本人が海賊に連れ去られた。現代でも北朝鮮によって多くの日本人が拉致されている。金正日総書記が日本人拉致を認める前から、日本政府(公安当局)は事態を把握しながら放置してきた。

安倍晋三政権は戦後の歴代政権の中で、国土を守り、拉致事件の解決に最も熱心な政権だといわれている。拉致事件の解決、そして日本のこれからの危機管理体制の整備に向けて大いに期待したい。

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