孔子

画像の説明 日本的儒教思想と支那朝鮮的儒教思想

日本における儒教思想と、支那朝鮮の儒教思想は、似て異なるものです。

支那朝鮮の儒教思想は、もっぱら「上に立つ人の都合に下が隷従することが良いこと」ということを思想にしたものです。これが儒教思想のもともとのカタチです。

ところが日本は、儒教思想を取り入れる際に、もとからある日本的思想の上に、この儒教思想を取り入れました。このため、日本人が学んだ儒教系列の思想は、「上に立つ人」ではなく、「上に立つ人を通じて、いかにその人が天皇から親任され、委ねられている民衆を大切にするか」という思想になっています。
つまり、日本人が学んだ儒教思想は、日本的変形を加えた日本型儒教思想になっています。

たとえば「忠」は、支那朝鮮儒教においてはとても大切な概念で、とにもかくにも上に立つ人の意向を自己の中心に置くことと解されています。
ですから上に立つ人が、たとえ間違ったこと、たとえば冤罪(えんざい)で、まったく関係ない人を殺害したとしても、部下はその上司を守るために、嘘の証言をしなければならない。なぜならそれが家臣たるものの忠の心得であるから、当然のことである、と解されます。

ところが日本には、もともと大和言葉で「まめなるこころ」という語があります。
そして「ただしい」という大和言葉があるわけです。
そこで、この「忠(chu)」という漢字を導入した際、この漢字に訓読みとして、「まめなるこころ」と「ただし」という語を宛てました。

そして「ただしく、また、まめにつくす」のは何のためかといえば、日本における民衆は、天皇の「おおみたから」であり、その「おおみたから」を天皇から親任を受けて預かっているのが領主なのだから、領主にまめにつくすことは、領主個人やその人につくすことではなくて、民衆のためにつくすことになると考えられてきました。

ですから、たとえば武士は藩の忠勤に励みますし、ときに命をかけて藩のために戦いますけれど、それはあくまで領主個人に対しての忠義ではなくて、日頃から藩民、領民たちの幸せを願って働くし、戦うに際しても、やむにやまれぬときに藩主と一体となって命がけで戦うものと理解されてきたのです。
つまり、あくまでも、民(たみ)が主役なのです。そのために「忠」がある。

「誠」も、支那朝鮮儒教では、上の人の言った通りに成すことが誠ですが、日本的儒教では、民のために「まこと」を尽くすことが誠になります。

「義」も同様に、支那朝鮮儒教では、我を羊のような捧げものにする意ですから、上の人がわが家に来てくれたなら、妻や子を殺して食肉に差し出すのが、彼らにとっての「義」。
これに対し日本型儒教思想では、「義」は「よし」で、良いことのため、つまり民のために身を捧げることが「義」と解釈されます。

ですからたとえば、先の対戦中に日本軍の将校が、たとえば島嶼における玉砕戦で、最後は本部との通信機まで破壊したあとに、切腹をする。このことが欧米には日本人のハラキリとしてまったく理解不能な行動で、かれらは「これはきっと天皇教という宗教的カルト思想によるものに違いない」としか解釈できなかったわけですが、実は、これまた全然違います。

日本型思想では、軍は民を守るためにあり、将校はその責任を負うものです。
彼らは民(みんな)を守るために最後の一兵まで必死で戦い、それで責任を果たせず守備していた島を明け渡さなければならなくなったとき、祖国にいる民(みんな)のために、そして一緒に戦ってくれた部下のために、その責任をとって腹をきったのです。

要するに、そこに「上の者に対して」という意識も思想もまったくない。
ただただ、民(たみ)のため、部下のためという誠(まこと)のために、忠(まめなるこころ)を尽くして戦い、それが果たせなかったとき、民(たみ)への責任をとったのです。
そして民(たみ)というのは、タんぼで働くミんなのことです。

こうした思想の違いは、シラス国日本と、ウシハク国である支那朝鮮の違いそのものを意味します。
どこまでも日本はシラス国であり、どこまでも支那朝鮮は、ウシハク国であるのです。

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