「検疫機能を持っていた太宰府のお話」

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検疫機能を持っていた太宰府のお話

おもしろいのは大宰府が九州の筑前にしか置かれていないことです。
歴史を振り返ると、吉備の国に、ほんの一時期、できたての渤海国との交易管理のための監督官庁として吉備大宰府が置かれたことがありますが、こちらはすぐになくなってしまいました。渤海国との日本海交易には、大宰府は必要ないとみなされたからです。

他に大宰という名を冠した政庁はありません。
対外的な人の出入りの監督官庁は唐の国にもありますが、唐での名称は「都督府」です。

私達は、大宰府という名を冠した役所が筑前に置かれたことの意味を厳粛に受け止める必要があります。

大宰府といえば防人たちが活躍した古代から中世にかけての我が国の国防の最前線として有名です。
この大宰府、いまではすっかり「だざいふ」と読むのが一般化していますが、もともとは訓読みして「おほ みこともち の つかさ」
と呼ばれていました。

今風に意訳すれば「大君の詔(みこと)をもって設置された府(つかさ)」という意味になります。

「だざいふ」と言われても、なんのことだかピンときませんが、このように訓読みで言われると、「なるほど」とわかりやすくなると思います。

問題はその「おほ みこともち の つかさ」に「大宰府」という漢字が当てられたことです。

「つかさ」は「君命をつかさどるところ」という意味ですから、お役所を意味する「府」でおかしくはありません。

国府(くにのつかさ)といえば、中央から派遣された国司がいるところです。

ちなみに国府も国司も、訓読みはどちらも「くにのつかさ」です。
言い換えれば国司=国府であったわけです。

そもそも大宰府の置かれた筑前国には、ちゃんと大宰府の他に国府がありました。

有名なところでは、筑前の国司に山上憶良(やまのうえのおくら)がいました。

そしてその時代の大宰府の帥(そち、長官のこと)が大伴旅人(おほとものたびと)です。

つまり通常の国府としての行政をこなす国司の他に、筑前にだけ、別に大宰府が置かれていたわけです。
しかもその名の「大宰(おほ みこともち)」は、天皇の命令によって特別に設置されたとわざわざ宣言されています。

では漢字の「大宰」にはどのような意味があるのでしょうか。
「大」はわかりやすいと思いますので省略します。
「宰」は、「宀+辛」で成り立ちますが、つくりの「辛」は調理用の刃物の象形です。

「辛」は「からい」と読みますが、食べ物の「辛(から)い」という食感は、実は舌が痛(いた)みを感じているからです。
昔の人は、これを舌を刃物で切られる痛さと同じ種類のものだと考えたから辛(から)いという食感を「辛」と書いたわけです。

その「辛」に、屋敷を意味する「宀」をかぶせたものが「宰」です。
つまり「宰」は、「嘘を言ったら舌を切りとるぞ」という辛味のある屋敷という字というわけです。

ですから大宰府は、大君(おほきみ)の命令いよって厳しく監督し、嘘を許さず、ときに抜刀して処罰を下す役所です。

だから大宰府という名がついています。

おもしろいのは、その「絶対に嘘を許さない」という大宰府は、九州の筑前にしか置かれていないことです。

歴史を振り返ると、吉備の国に、ほんの一時期、できたての渤海国との交易管理のための監督官庁として吉備大宰府が置かれたことがありますが、こちらはすぐになくなってしまいました。

渤海国との日本海交易には、大宰府は必要ないとみなされたからです。

他には、筑前以外に大宰という名を冠した政庁はありません。
対外的な人の出入りの監督官庁は唐の国にもありますが、唐での名称は「都督府」です。

わざわざ「嘘を言ったら舌を切り取るぞ」という大宰という用語は用いられていません。

私達は、大宰府という名を冠した役所が筑前に置かれたこと、その名称が「嘘を言ったら舌を切り取るぞ」という意味の名称であったことを、厳粛に受け止める必要があります。

騙す人と騙される人がいたら、我が国は誰もが「騙すほうが悪い」と考えますが、そうでない国も世の中にはあるからです。

この時代、我が国の交易相手は、大陸と半島だけではありません。
日本海のウラジオストックのあたりを交易拠点とする渤海国(ぼっかいこく)との交易が盛んに行われていました。

日本海は、日本列島沿いに暖かな対馬海流が北上し、樺太のあたりから大陸沿いに寒流のリマン海流が南下しています。
つまり日本海は、この二つの海流によって、反時計回りに潮流が回流しています。

この海流に乗って、日本は七世紀の終わり頃に生まれた渤海国と、さかんに交易をしていました。

当時ウラジオストックは東京龍原府と呼ばれ、そこには遠くペルシャからペルシャ商人がやってきました。
ペルシャは砂漠の国ですが、砂漠地帯というのは、砂漠への落雷によって、砂漠の中に多数のガラス片が生成します。

つまりペルシャではガラスが原始取得できたわけです。
ガラスは熱を加えると自在に加工できますので、そのガラスを用いた様々な工芸品が作られていました。

一方日本には砂漠がありませんから、ガラスは自然形成されません。
ですから透明なガラス製品は、たいへんに珍しいものでした。
その日本では、今度は東北地方を中心に、川で水を掬(すく)えば金色の砂がたくさん拾え、山中に入れば金色の成分を含む石がいくらでも原始取得できました。

つまり金(ゴールド)を大量に原始取得できました。

こうしてペルシャ人は元手ただで原始取得したガラス品を、日本人はやはり原始取得した金(ゴールド)を持ち寄って交換交易が行われました。
この交易には、ペルシャ商人たちにとっては、たった一度の交易で一生遊んで暮らせるだけの金(ゴールド)を得ることができるというメリットがあり、日本人は、特に東北地方はお米が取りにくい代わりに、ペルシャ製のガラス品を中央に献上することによって減税を得るという節税対策ができました。

要するに日本人、ペルシャ商人、両方にたいへん大きなメリットがあったわけです。

ところがこの渤海国との交易について、我が国は「嘘を言ったら舌を切り取るぞ」という名の役所を置いていません。

単に吉備や越前越後の国府が交易管理の任務にあたっただけです。

このことがこれがなにを意味しているかというと、それだけ半島との人の出入りには、嘘つきに気をつけなければならなかったということです。
そうでなければ、渤海や、その他唐や半島以外の諸国ともさかんに交易が行われていながら、半島に面した大宰府だけが、大宰という名称にされた合理的説明がつきません。

また大宰府がいまの九州福岡の太宰府市に置かれたのは、他にも「検疫」のための役所であったことも見逃すことができないことです。
細菌学があった時代ではありません。

ただ、何故かわからないけれど、大陸や半島からは伝染病がもたらされる。

実際、伝染病のほとんどは、九州から上陸して東に移動し、多くの人の命を奪いました。

これを水際で阻止するためには、九州の大宰府が強権をもって、人の出入りを監督し、あきらかに不審な患者を持つ船は、非情なようだけれど、武力を用いてでも上陸させない必要があったわけです。

そうでなければ、何万人もの死者が国内で出てしまうのです。

それでも伝染病は防ぎきれない。
それだけに、内外にそこがきわめて辛(から)い、つまり厳しい役所であることを「太宰府」という名称で宣言し、実際、感染症が疑われる患者を乗せた船がやってきたら、断固としてその上陸を拒否するということが、太宰府で行われていたのです。

このことは、他の港には、わざわざ「宰」と宣言した役所がなかったことでも明らかです。

その大宰府の防人の長たちが、お正月に集まって詠んだ歌が万葉集に掲載されています。

それが「初春は令(よ)き月にして、気は淑(よ)くて、風和み」で有名な、令和の元号のもとになった額詞を持つ歌です。

令和年間の始まりにあたって、まさにその感染症が大きな社会問題になったことは、何か不思議な符合を感じさせます。

我が国にはいま太宰府はなく、そのないなかで実際にクルーズ船における感染症の問題が起き、そしてまるで「辛くない」対応しかできない日本の姿が浮き彫りにされたからです。

共産主義史観に染まった人たちは、人類も歴史も進化するものであり、いまよりも昔は常に劣った時代であったと規定します。
けれど、古代の人の智慧の方が、もしかするといまよりも数倍まさっていたのかもしれないのです。

そしてこの時代に書かれたものが、古事記、日本書紀、万葉集の三点セットです。

拙著では、すでに古事記と万葉集を出版させていただきました。
そして来月には、いよいよ待望の日本書紀が出ます。

ねずさん

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