「鉄道誕生の1872年、意外にも日本人が「時間にルーズ」だった理由」

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鉄道誕生の1872年、意外にも日本人が「時間にルーズ」だった理由

10月14日は「鉄道の日」。なぜなら1872年のこの日、日本初の鉄道が開通したからだ。今でこそ超過密ダイヤでも高い安全性を誇る日本の鉄道だが、当時を振り返ってみると、意外にも「時間にルーズ」な明治時代の日本人の姿が見えてくる。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)

初めて鉄道に乗った日本人は
ジョン万次郎だった

日本初の鉄道、新橋-横浜間を走った1号機関車
新橋−横浜間を走った1号機関車。当時の鉄道事情を振り返ってみると、あまりにも現代と違う日本人の姿に驚く 
 
1872(明治5)年10月14日、新橋と横浜を結ぶ日本初の鉄道が開通した。これを記念して、毎年10月14日は「鉄道の日」と定められている。

1922年に鉄道開業50周年を記念して「鉄道記念日」として制定されて以来、国鉄・JRの「誕生日」という扱いであったが、1994年に鉄道全般を記念する「鉄道の日」に改称されて現在に至る。

過去、鉄道開業50周年、100周年の節目には、さまざまな記念事業やイベントが行われてきた。3年後には鉄道開業150周年を迎えることから、どのように盛大に祝福されるのか、今から楽しみである。

そのような記念すべき「鉄道の日」であるが、日本は1872年10月14日まで、鉄道に全く縁がなかったというわけではない。

イギリスで世界初の鉄道が開業したのは、日本の鉄道開業からおおよそ半世紀前の1825年のことである。鉄道史研究者の原田勝正によれば、江戸幕府は1840年のアヘン戦争勃発以降、オランダを通じて国際情勢を入手しており、その中には欧米諸国の鉄道建設に関する情報も多く含まれていたという。

また、蒸気機関車の原理や構造を解説した「蘭学書」も存在しており、ごく一部の知識層に限られるものの、日本人はかなり早い段階から鉄道が具体的にどういうものなのかを知っていたことになる。

では初めて鉄道に乗った日本人は誰かというと、これは記録に残る限りでは「ジョン万次郎」といわれている。中浜万次郎は土佐国出身の漁師であったが、乗っていた漁船が遭難して仲間と共に無人島に漂着。アメリカの捕鯨船に救助されて、1840年代のアメリカで英語、数学、測量、航海術、造船技術など近代的な学問を学んだ人物だ。彼は1851年に帰国すると、薩摩藩に蒸気で走る「レイロヲ(railroad)」について報告している。

万次郎のように海外に渡ったごく少数の例外を除けば、日本人が初めて実際の鉄道を目撃するのは、1850年代に入ってからのことである。

開国を求める外国人たちが持ち込んだ鉄道模型

開国を求める外国人たちが
持ち込んだ鉄道模型
 
1853年、プチャーチン率いるロシアの軍艦4隻が、開国を求めて長崎に来航した。彼らは幕府の使節団を船に招き、アルコールを燃料にして走る機関車の模型を走らせてみせた。

また翌1854年には、アメリカのペリーが2回目の来航を果たすが、この時に将軍への献上品のひとつとして持ってきたのが、蒸気機関車の模型であった。これは模型とはいえかなり大型で、地上に小ぶりな線路を敷き、アメリカ人が運転する本格的なものであった。

1860年には、アメリカに派遣された幕府の使節団が、現地で鉄道に乗っている。

また、1865年にはフランス・イギリスに派遣された使節団一行が、1863年に開業したばかりの世界初の地下鉄、ロンドンの「メトロポリタン鉄道」を視察したという記録がある。

同じく1865年には、「グラバー邸」で知られる貿易商トーマス・グラバーが、長崎居留地の海岸通りに約600メートルの線路を敷き、イギリス製の蒸気機関車と客車2両をデモンストレーション的に走らせた。

営業運転ではなかったものの、日本で初めて本物の鉄道が走った場所ということで、長崎電気軌道のメディカルセンター停留所付近には「我が国鉄道発祥の地」の碑が立てられている。

1872年に日本初の営業路線が開業するまでには、鉄道に出合い、体験し、その役割を理解して受け入れるまでの、25年以上の助走期間があったことを忘れてはならない。

ところで、鉄道が開業したのは「10月14日」ではなかったことをご存じだろうか。

いまさら何を言っているのかと思うかもしれないが、鉄道が開業したのは確かに「明治5年9月12日」だった。そして、同時にそれは「1872年10月14日」だったのである。「誕生日」が書き換えられた理由は、鉄道開業後に旧暦から新暦への切り替えが行われたからである。

明治時代の日本人が「時間にルーズ」だった理由

旧暦とは、月の満ち欠けにあわせて1ヵ月が進み、随時うるう月を挟みながら太陽の動きにあわせて1年が進んでいく、太陰太陽暦だ。明治政府は日本の近代化の一環として、欧米と暦を統一するために太陽暦へ改暦することを決定し、明治5年12月2日をもって旧暦を終え、翌日から太陽暦による明治6年1月1日を開始したのである。

改暦と同時に行われた、もうひとつの大きな変更が、不定時法から定時法への時刻制度の変更だ。不定時法とは、日の出から日没までを昼、日没から日の出までを夜として、それぞれ6等分して時間を決める方式だ。季節によって時間の長さが変わるため不定時法という。対する定時法とは、いつでも「1分」「1時間」の長さが変わらない、現在と同じ時刻制度だ。

つまり、鉄道が開業した明治5年9月12日の時点では、日本には不定時法の時間が流れていたことになるが、鉄道は開業時から独自の定時法を使用していた。なぜなら当時の鉄道は、ダイヤグラムに決められた時刻に沿って運転することで、前後の列車との間隔を保ち、対向列車との行き違いを行っており、日ごとに長さの変わる不定時法では列車を安全に走らせることはできなかったからである。

列車の本数が増えていくほど、時間の管理は厳格になる。鉄道員と乗客の両方に、高度な時間感覚が生まれない限り、過密な列車運行は不可能だ。

しかし、これは口で言うほど簡単なことではない。例えば開業時の営業規則では、乗客は列車が発車する15分前までに駅に到着するように定めていた。しかし、不定時法時代の日本人が日常的に用いた時間の最小単位はせいぜい「小半刻(約30分)」といわれている。

また、時計も普及していない時代に、「15分前行動」はあまりにもハードルが高い要求だったはずだ。

明治初期のお雇い外国人が「日本人は時間にルーズだ」と評しているように、日本人は元々時間に正確だったわけではない。では、なぜ私たちは、細かい時間に追われるようになってしまったのだろうか。

その答えのひとつに、過密な鉄道輸送に過度に順応し続けた、鉄道150年の歴史を見いだすことは、とっぴなこととはいえないだろう。

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